「70週」の目的は、
・都市エルサレムの再建について
Dan7:25
וְתֵדַ֨ע וְתַשְׂכֵּ֜ל מִן־מֹצָ֣א דָבָ֗ר לְהָשִׁיב֙ וְלִבְנ֤וֹת יְרֽוּשָׁלִַ֨ם֙ עַד־מָשִׁ֣יחַ נָגִ֔יד שָׁבֻעִ֖ים שִׁבְעָ֑ה וְשָׁבֻעִ֞ים שִׁשִּׁ֣ים וּשְׁנַ֗יִם תָּשׁוּב֙ וְנִבְנְתָה֙ רְח֣וֹב וְחָר֔וּץ וּבְצ֖וֹק הָעִתִּֽים׃
"Know therefore and understand,That from the going forth of the commandTo restore and build Jerusalem Until Messiah the Prince,There shall be seven weeks and sixty-two weeks;The street shall be built again, and the wall,Even in troublesome times.
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。【口語】
「その間に」は相当する原語はない。
「七週と六十二週」での最初の「七週」がネヘミヤによる城壁再建までの期間を指すかどうかは不明のまま
・ダニエル7:25-26 「70週」に関しての解釈
9:24 お前の民と聖なる都に対して七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。
9:25 これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで、七週あり、また、六十二週あって、危機のうちに広場と堀は再建される。
9:26 その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き、荒廃は避けられない。
9:27 彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
(これは翻訳難所であり、上記の翻訳にも問題がある)
ナザレのイエスを回避したいマソラ学者
「7週」と「62週」について、両者を分け、目的の異なる別系列の期間について述べているかのようにアクセントを置いている。その場合70週という合計は無意味になり、ガブリエルの発言意図を分散させ、不自然に受け取ることになる
これはマソラ学者によって初めて取られた解釈による措置であり
目的には第一世紀前半頃にメシアが現れる可能性を排除しようとする意志がある
パリサイ派を継承する彼らは未だにナザレのイエスに脅威を懐いている
これは二つの宗教がそれぞれ譲れない争点を作っており
その論点は「ナザレのイエスはメシアか」を巡る
しかし、ユダヤ人のギリシア語翻訳でも異なる見解のものがある。
この件で「69週」の期間を、まず「7週」と「62週」に分けたガブリエルの本意が何であったのかを明示する記述はダニエル書そのものにも、正典の中にも見当たらない。
・「七週」が分けられた意味
ある視点に立って考えると「7週」については見えるものがある。
鍵は『シャヴォートの祭り』に関してであり、ダニエル書の一貫した趣旨である「卑しめから栄達へ」という観点から見る場合に、『無酵母パンの祭り』の二日目から七週を数え、その翌日を「五旬節」『シャヴォートの祭り』とし、その日に初めて聖霊の注ぎによって真のイスラエルが姿を表し始めたことである。
この場合、メシアを契約の仲介者として見做し、初穂大麦束振揺の復活の日から『7週』を経た翌日に、磔刑の卑しめが終息し、栄光に逆転した第一世紀の実情に整合する。
(但し、律法ではアツェロト翌日からではなく翌シャバットから七つを数えるとある)
メシアはニサン16日に復活され40日弟子に現れた後、10日目のシャヴオートに聖霊を下賜している。即ち、メシアの卑しめは七週続いたが、祭司長派の目論見は五旬節の日に打ち砕かれている。神の経綸の中でもこれは重大事であり、予型が無かったとすればむしろ不自然である。ここに過ぎ越しと一週間続くハグ ハ マツォートとシャヴオートが日数で結ばれている理由が示されている。
ペサハとハグ ハ マツォートとは1:7の関係にあり、ハグ ハ マツォートと49日も1:7の関係に在って、「入れ子構造」を有していることが分かる。その年に冠を授ける最後のハグ ハ スッコートは7:1の構造であり、三つの祭りはすべて8を三回繰り返す。シャヴオートだけが一日であるのはすでに七週がハグ ハ マツォートの二日目からスタートしており、2度拡大された7を締め括る1日となっている。これら複合の7はその目的を達成する「第八日」を強調するものとなっている。
但し、『七十週』については1:10が内包されている。これはメガリームと異なって特殊で、対型に不定期間を含むからではないか。七十週はこれらの中で最長であり、異様に長い。(69週満了がAD29になり得ることはどこかに書いたはず、その場合にはヘロデ神殿の工期のヨセフスの情報は否定されることになる)
これはネブカドネッツァルの低められた期間が『七つの時』とされたことにも同じダニエル書の中で暗示されているといえる。彼が卑しめから解放されたのも7の終わりであったことを伝えるのがダニエルの巨木の夢の役割と見れば、その執務不能期間が実際にどれほどの長さであったかはとりあえず問題にならない。ゆえにダニエルも聖典もそれについて具体的な永さを記していない。
ネブカドネッツァルは、動物のようにされ政務を行うことができない特定されない期間が続いた後に、人としての理性が戻ることで王座に戻ることができたが、その間に王位を奪われることもなく、理性を取り戻した後には、以前に優って敬意を受けるほどになったので、神は支配権を最も低められた者にも自在に与えることができることを知らされる結果となった。そのことがアラム語で布告、周知されている。これをダニエルがその第五章で血統の異なる(おそらく母系ではあるにしても)王に注意喚起している。
この期間が『七つの時』と呼ばれたのであれば、それは実際の七週49日もあるいは七年をも当てはめるべき理由は特にない。重要なのは、低められた状態から栄光へと転換するまでの期間が『七つの時』と呼ばれたところにある。
契約のために確保された『一週』が『契約の使者』メシアの活動の中心で
これには「監臨」の時期は含まれないらしい。その理由はおそらく『不在』として数えられるべきなのだろう。
これに付随する問題は『常供の犠牲』をいつ絶えさせたかということもある。
ダニエル書によると、それは『週の半ば』(主要日本語訳に問題あり)であり、最後の一週の中途であるとするとイエスの公生涯が三年半であったことが意味を持ってくる。それは黙示録の『1260日』をも有意なものとするところは、ほぼ間違いないであろう。
全70週の目的がメシアの到来だけでなく『逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なるものに油が注がれる』という目的を持っていることは、終末の背教を終わらせることも含むとなると、それは聖徒の認証が終わり、天界に揃った状態でなければならない。そこでは
内の最初の七週には
そこでイエスが復活を遂げた日から49日を経て後、神の民が具体的に現れて神の王国の民イスラエルの栄光が臨んだことが ネブカドネッツァルの回復を暗示すると見れば、その『七週』は『七つの時』に相当し、メシアが復活はしても依然その権威を行使していなかった期間、メシアはイスラエルと共に卑しめの状態にあったが、その権威には銀と銅の箍が嵌められ、保留状態に在ったことの予表と云える。但し、箍が嵌められたのはネブカドネッツァルの王権に関してであり、その意味が保存なのか、制限なのかが判然としない。おそらくは制限なのであろう。
(この大樹のその後は描かれていないが、この点でメシアは『新芽』でありネーツェルと云えるかも知れない)
ダニエル9章の七十週の全体が満たされるとき、天の至聖所の浄めが行われるのであれば、その七十の週のすべてが終わるとき、天界の神殿の落成、即ち、聖徒の召しの揃いが終わり、聖徒の全体の試練が終わることになる。
(誤解され易いながら「なお七日の猶予はある」これは任命後の期間であったが、ここに神の怒りを置くことができるように思われる)
(ネヘミヤが城壁再建に要した52日というのは、別の角度からみると有意)