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ダニエルの七十週への補足 最後の一週の分割

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 ここでは第七十週の二分割の妥当性について

 

(ダニエルの七十週を安息の観点からの考慮は⇒こちらを)

 

Dan9:24

24 Seventy weeks are determinedFor your people and for your holy city,To finish the transgression,To make an end of sins,To make reconciliation for iniquity,To bring in everlasting righteousness,To seal up vision and prophecy,And to anoint the Most Holy.

ダニエルの「民と聖都についての七十週」の初出

「七十週」全体の目的は

1.「咎、罪、違背を(終わらせ)」

2.「永遠の義」をもたらし

3.「預言を封印し」

4.「聖の聖」(至聖所)に油注ぐ

1.直接には民族を捕囚をもたらした律法違反について

しかし「七十週」の終末での終了時には別の違犯を指している(isa63?)

2.メシアがあのシャブオート以来「新しい契約」を発効させてもなお「七十週」の全体の終了まで真実での「義」はもたらされていない

3.様々な預言は「キリスト」を証し、その働きを指していたがそれが実現

4.「七十週」の終わる時、天界の神殿が落成し機能を始める準備を終える

・これらの事柄がイスラエルという「アブラハムの裔」と神殿を擁する「聖都エルサレム」の究極的姿の実現となる

 

25 Know therefore and understand, That from the going forth of the command To restore and build Jerusalem Until Messiah the Prince,There shall be seven weeks and sixty-two weeks; The street shall be built again, and the wall ,Even in troublesome times.

この節では、メシアの到来する時期が予告される

エルサレム再建の勅令が下ってから7+62週があり

その勅令に従ってエルサレムは「広場と要害(城壁)が再建される」

しかし、それは窮境の中で行われることになる

メシアまではそれを含めて69週を待つ

 

26 And after the sixty-two weeks Messiah shall be cut off, but not for Himself;

And the people of the prince who is to come Shall destroy the city and the sanctuary.

The end of it shall be with a flood, And till the end of the war desolations are determined.

「その62週の後にメシアは断たれ、自らは何も持たない」

合計では69週の後にメシアがただ処断される

「ある民の君主が来て、都市と聖域とを破壊する」

これは状況からも時期からもローマ皇帝となったウェスパシアヌスの長子ティトゥスによる西暦70年のエルサレム占領を指すほかない

「終わりは洪水となる」「終局まで戦争が続き荒廃することが定められている」

その後もユダヤは政情不安が残り、愛国心の高揚と偽メシアが興ってユダヤの荒廃が増々進み、ユダヤ人はエルサレムに居住できなくなり、やがて亡民となって諸国に離散した

 

27 Then he shall confirm a covenant with many for one week; But in the middle of the week He shall bring an end to sacrifice and offering.

And on the wing of abominations shall be one who makes desolate, Even until the consummation, which is determined,Is poured out on the desolate. 【NKJV】

メシアは契約を”confirm”すると一言で訳されるがこれは[וְ הִ גְ בִּ יר ]であり「増幅される」「深められる」の意味も持つ (ヴェヒゲヴィエール) 日本語訳では「堅く契約を結ぶ」「同盟を固め」とされている

また、契約の相手として"many"と一言で片付けられている原語は[לָ רַ בִּ ים] で”majority”をも含意する。即ち「主要な者」敷衍すれば「大いなる者」⇒以下参照

この27節の前半では第七十週について語っており、それは69週が満了してメシアが来臨した後の活動範囲を指す

 

この第七十週目については

1.メシアである「彼が一週の間契約を固く結ぶ」とされるが、これは「契約の使者」としてのメシアを語るマラキからしても「新しい契約」について指すと捉えるべきで

2.それゆえにも「彼は犠牲と供え物を終わらせる」といえる。実際の神殿祭祀はローマ軍の攻撃の渦中西暦70年の夏まで続いてはいたが、メシアが「完全な犠牲を捧げた」以上、第七十週の『半ば』で律法祭祀の意義は失われていたと捉える以外にない

 

加えて、それが第七十週の半ばに起ることを知らせることにより、69週が満了してメシアが到来し、その活動の第七十週の半ばにモーセの祭祀の意義の消失が起ることを予告しているが、律法祭祀の体制崩壊が実際に起ることを使徒パウロも予告している

この「週の半ば」については、ヨハネ福音書のタイムポストによればイエス・キリストの宣教期間が四年未満、おそらく三年半であったところに一致する

 

そこで「一週の間契約を固く(結ぶ)」とは、残りの三年半の間も「新しい契約の締結」の期間が保たれることを指すことになる

その「一週」の全体は「契約の使者」キリストの活動を指しており、十二使徒らと試みを共にした結果、最後の晩餐の席で脱落した一人を除いて「新しい契約」への参与を確約されている

同時にその「一週」以外の期間にはメシアによる「契約」に関する活動が無いことも明らかにされる

では、その第七十週の満了はメシアが律法祭祀を終わらせた後もそのまま継続したかといえば、この「七十週」全体の目的である「至聖所の油注ぎ」がキリストの刑死から三年半で完遂したと言える理由がなく、それはキリストと共に神殿を構成する「聖なる民」の全体が揃う必要があるので、この第七十週目はキリストの不定時の再臨まで二分割される必要が生じる

 

27節の後半では、再び西暦70年以降のユダヤ荒廃が述べられる

だが、これはローマによる荒廃だけを述べるだけでない要素「荒らす憎むべきもの」を含んでおり、キリストの終末預言に再び登場しており、第七十週全体の満了時に於ける状況を知らせ、その時点で「民」と「聖都」に関わる「荒廃」をもたらす者について語っている (ここにキリストの終末預言の奥深さがあり、分割された週の二つについて契約だけでなくそこから脱落するであろう「荒憎者」という要素が繋ぐ役割を負っている)

これについてはダニエル書の中に散在する「違背」を行う者に関する記述から、「民」に対する裏切りが起り、「聖徒の民が滅ぼされる」事との関連が暗示されている

ダニエル書に同じく、キリスト・イエスはこの者(ら)が「民の間に憎しみをもたらす」ことを予告しており、パウロはその「違背」について終末に現れる「背教」を指摘し、キリストと一致して、その者が「神殿」と関わることを述べている

 

従って、ガブリエルのダニエルへの通告は、エレミヤの七十年が第二神殿の再建による律法祭祀の復興を予告したように、キリストを親石とする天界の神殿の石材を研磨する試みの迫害、「民」と「聖都」の行く末を知らせるものとなっている

その試みによって「民」はキリストの道を共に十字架を荷って歩み、遂に地上から姿を消す結果となるが、それを通して諸国民の蹂躙される「聖都」は却って天界の栄光の内に設立される

いずれにせよ、キリストの道に従う聖なる民は地上での安逸を得ず、迫害ゆえにも「キリストの兄弟」また「共同相続人」となる地位を手にする

 

一方で、「民」の中で分裂をもたらした者らはその「違背」のために「地に置いてゆかれ」ユダヤ体制を前例とするこの世全体の荒廃をもたらす「憎むべきもの」即ち「偶像」と化すことを知らせている

パウロはこれを「不法の人」と呼び「神の神殿に座し、己を神だという」と警告している

加えてパウロは「滅びの子」というキリストがユダイスカリオテに用いた表現をも使い、「不法の人」に契約脱落者にして変節者という面に光を当てている。

こうしてキリストの終末預言の中での「神殿に荒らす憎むべきものの立つを見ば・・」の意味が明かされてくる

 

こうしてダニエルの「民」と「聖都」についての予告が容易ならぬ状況と結びつけられている理由が明瞭となる

即ち、終末にはメシアによる契約締結がなお行われ、そこで聖なる民となった者らにはキリストの道筋を同じく迫害を背負って行かねばならず、そうしてはじめて「練り清められ」「入ろうと努めながら入れない者が多い」という「天の王国」への召しに預かることになる

聖都エルサレムはシオン山上に在るが、そこは終末の諸国民によってまったく蹂躙されるが、聖なる民の天界への召しによって、天地の趨勢は逆転することになる

ダニエルが記すように「聖なる民を打ち砕くことが行われるなら、あらゆる事柄が速やかに成就する」

それが即ち黙示録に見られる三年半であり、第七十週の後半をここに見出す

 

 

・簡単に言い直すと・・

ダニエル9章で

エルサレム再建の勅令が出てからメシアまで7週と62週が知らされる

 

しかし、

七十の週全体の目的は、至聖所に油を注ぐことであり

天界の神殿の崇拝の開始を目的としている

従って、七十週の終了迄に聖徒らが揃い天界の神殿が竣工している必要がある

それは同時に『新しい契約』が『祭司の王国』を生み出す働きを終えることも指す

 

誤解しやすい点は

メシア臨在の連続する第七十週の間のみ契約が締結されるかと見えるところにある

実際には、第七十週の半ばで古い契約による犠牲が排されてはいても

メシアの帰天後にあのペンテコステを迎えている

つまり、あのペンテコステは第七十週の後半に入っていることになり

その「一週」はなお継続しているかのように捉えられやすい

そうであれば、キリストは天界から契約を結び続けて西暦36年に終了したことになる

 

しかし、「七十週」全体の目的である「至聖所の油そそぎ」が西暦36年に起ったと云うには無理がある

西暦36年であれば、地上の神殿は健在であり、キリストは人類の罪をも贖う崇拝体制を従属の祭司も揃わない状況で実現する道理も見当たらない

契約参与者はなお招集されている最中であり、少なくともテモテの油注ぎは36年を過ぎ49年頃であり、さらにアポロを追ってきたグループの受膏は更に後である

あのペンテコステから聖なる民の仮贖罪が行われていたのであれば、その第七十週満了を待たずに天界の神殿の至聖所は油そそがれていたことになるが、レヴィ記は施設・什器と祭司職の受膏は同日であったことを記している

では、祭司が未だ天界で奉仕していない段階で大祭司が天の神殿で奉仕を始めていたとしても、そうであれば「千年王国」はその時に始まっていたろうか

また、ヨハネは黙示録の「死んだ者を裁く」時、つまり死んだ聖徒らの復活の裁きの後に「契約の箱」を見ている

 

視点を変えれば、七十週の「罪咎を終わらせる」という目的からも、終末の「背教」が到来していない状況で、どのようにその期間がイエス後の三年半で終わるのか

やはりダニエルの七十週はどうしても終末を含めないわけにゆかず、そうなるとキリスト再臨による聖徒の活動の三年半が不定の将来に取り措かれる以外にない

 

週の半ばに於ける契約に関わる事と言えば、最後の晩餐が象徴的といえる

十二使徒らは一人を除いてキリストの試練を共にし、新たな立場に達した

その時以来、彼らを初めとして以後例年に主の晩餐が行われている

それはキリスト臨在の第七十週の後半には一度も掛かっていない

したがって、「主の晩餐」儀礼は実体ではなく、メシアは契約の使者ではあるものの、聖霊の降下の続行と第七十週は一致させる必要はなく、聖霊のそそぎが「新しい契約」によるものとはいえ、キリストの活動を含む第七十週の期間全体との完全な関わりは見いだせない

つまり、メシアは契約の締結を民の一人一人と個別に結んでいたのではなく、シナイ契約のように「イスラエル」という民の全体と結んだといえよう

そこでイスラエル12部族のように中核を成すのが十二使徒であり、民全体の選びと集め出しに関わることが予告されている

契約を成就させるところから見ると、聖霊が注がれたか否かだけでは成し遂げられたとは言えず、それはメシアが律法のすべてを成就するまで律法契約が終わらなかったところに整合する (そこで「キリストは律法の終わり」というパウロの言はキリストの死の時を指すことが分かるのであり、別の何時かを意味する余地を残さない)(それから「新しい契約」の発効日をあの五旬節に設定できるか否かは断言できないことにもなり、33年ニサン14日の夜に発効していた可能性が高い)

 

 

では、第七十週の間、メシアが「大いなる者らのために契約を固く保たねばならない」の意味はなにか

「大いなる者ら」とはJh10:29、Mt11:11にあるように聖徒を指している

そこでメシアは聖徒らを契約によって呼び出すことにおいて「契約を固く保つ」必要があることを言っている「大いなる者らのために」とは彼らを呼び出すための契約をメシアが仲介するからである

従って、第七十週が契約期間なのではなく、契約締結期間でもない

それはメシアの活動を指しており、終末に残った半週の活動期間があること指す

その全体の目的によって、真の至聖所が油注がれ運用可能となる

 

この点で聖書翻訳は様々で、ここは翻訳難所というより、解釈難所なのであろう

『彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。』(口語訳)

『彼は一週の間、多くの者と同盟を固め/半週でいけにえと献げ物を廃止する。』(新共同訳)

『彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。』(新改訳)

 

 

 

”Then he shall confirm a covenant with many for one week;But in the middle of the weekHe shall bring an end to sacrifice and offering.” (NKJV)

英訳聖書では shall によって「~ねばならない」の意を添えている

 

 

 

 

第二世紀ころに一旦聖霊降下が止んだのは、契約の効力が失われたのではなく、メシアの関わりが使徒らの活動に与えていた影響が消え去ったからであろう

但し、聖霊がいつから注がれなくなったかを言うことはできない

それでも第二世紀に成立したという『イザヤの召天』には、シリアから預言者が絶えたことが記されており、おそらく第三世紀までは聖霊の賜物も絶えており、以後のしばらくは悪霊の影響がキリスト教界に在って聖霊を装っていたのであろう

その点で最もはっきりしているのがモンタノス運動である

アナトリアのアンキラ近郊アルダバウで神からの聖霊を受けたと主張を始めたモンタノスは何人かの女預言者らと共に、終末が近付いたと預言を始め、大きな戦争や飢饉が起り、新しいエルサレムがアンキラの近くに降ってくると云い出した

その第二世紀の終り頃は、各地から聖霊の賜物が失われつつあったため、キリスト教界はモンタニストらの伸張をどう捉えるべきかで悩み、カルタゴのテルトゥリアヌスまでがその信仰を表明し始め、その霊の発言についてローマ司教座では会議を持たざるを得ない状況となった

それはマルキオンなどを除いてキリスト教界内からの最初の分派ともされる

もちろん、これは聖霊ではなかった

預言者マクシミラは、終わりが近いので自分が最後の預言者になると言っていたのだが、終わりは到来せず、新しいエルサレムが降下したわけもない

 

いずれにしても、メシアは終末に活動しなければならず、また聖徒らも最後の務めを果たさねばならない

そうしてはじめてダニエルの七十週は意味を持つ

それは永らく続いた祭祀の中断の後に訪れるものであり、聖書の全体が終末の霊による祭祀の復興をバビロン捕囚の終了に伴う神殿祭祀に復興に擬えており、これが聖書の後半から新約聖書に亘る一つの大構造を形作っている

 

 

それにしても、おしなべて宗教界は聖書教を随分と矮小なものにしているではないか

宗教という先入観が人を幼稚にさせるのだろうか

「自分の救い」という観点だけ持つのでそうなるのだろうか

 

 

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