Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

最後で最大の異兆

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神は明白となった事柄を敢えて否定する者に決定的な罪を自覚させる

 

主の晩餐そのものは死の意義を示すが、これについては変貌の幻に暗示されていた。

その幻に意義には決定的な裁きが関わっている。

しかし、ほとんどの人はその裁きを直に受けることはないが、いずれ同じ意味を持つ。

この裁きを受けるのは政教に積極的に関わり、なお凝り固まる者らとなる。

それはカイヤファに象徴され、Mt26:64に関わりがあるらしい。

凝り固まる者は再臨の実体を見ないために否定しつつ自覚はするところに罪あり。

この意味で『天の雲に乗ってくるのを見る』を解釈すると極めて意義深い。

即ち、基督は『誰一人裁かない』の言葉の真意がそこにあるようで、判決の宣告は罪人の心中に自ら形成されることになる。『語った言葉が裁く』の「語った」はやはりアオリスト(直アオ能1単 )である。(しかもこれはヨハネ福音)

『わたしの言葉を受け入れない』は『わたしを退け(捨て)』を修飾している。

終末の裁きは人の意識の中で進行することになるが、それを促す最大のものとなるのが「このこと」となるのは見えている。

 

ルカ9:31のエクソドス - Quartodecimaniのノート

 

この論題は広く多くの要素に振り分けられ聖書中にかなり離れて散在しているため、秘匿性がかなり高く、意味を探るにも困難度が非常に高い。

その程度は終末黙示を超えるようなので事は重く、しかも相当に不明瞭にぼかされている。しかし、再現性は明確に予告されている。であるから、完全に隠されてはいないが、広く公示させる意図もないらしい。

使徒らに緘口令が敷かれたが、それは復活までであった。即ち、一義的にはその時(以前は含まない)に完了した裁きが有った。

二義的にもこの裁きを受ける場合、有罪は確定的であり、且つ不可避と思われる。

単に支持しなかったというのではなく、そこに終末の裁きの要諦がある。

しかも、その裁きを受ける場合には復活は無いと言える理由がある。

アダムとエヴァ以後、このような裁きを受けた者は無く、むしろ一義的成就に与らなかったイェフダだけについて基督自らが語っている。彼の罪だけがこの種の罪を越えて重い。しかし、共に聖徒への罪となり、受ける処罰では変わらない。彼はその『初子』のようでさえある。彼の転換はカイヤファより二日早く起っている。(おそらくエシュアの死の直前) 彼は自己を裁き自ら処刑しようとしたが、おそらく聖霊に対する罪科が反省をも許さなかった。他方反省もないカイヤファの場合は『雲に乗って来るのを見る』。

 

終末に人は自己を自らの内心で裁き、人類は自らの『罪』の故に社会諸共自壊する。

これが「神の裁き」であり、最後まで否定し続けても内心ではどこかに転換点がある。

その意識の転換の仕方で「再臨の顕現を見る」がそれは雲と共にある。

同じ「再臨を見る」でも両者では意義が異なっている。

これは何というか・・

 

おそらくカイヤファが臨御を見るというのは、直接にはこの一義の成就を味わうことを言っていたと思われる。彼もその意識内の転換を経験せざるを得なかった。彼が復活してからどうこうという論題にはなっていないように思われる。もちろん復活するなら、二義的な成就と合わせて裁かれることになるだろうが、なお予断はできない。

そこでメシア初臨を迎えたユダヤ体制内で、ここまで終末の神の裁きが模式されていたということには驚かされる。メシアの初臨の意義はそれだけ大きかったということになる。では世界を相手にする再臨の意義の大きさはどれほどか・・

 

ピラトゥスは「お前たちの宗教に関わることならお前たちで裁可せよ」と言っている。

為政者からすればまったく傍迷惑なだけだが、終末の為政者には喜んでこれに関わって来る者もいる。そうして為政者もこの論題に関わらざるを得なくなる。

或いは終末の為政者らはあの連中の訴えで不承不承に聖徒を裁きに引き出すか

その場合、諸国を一致させるのが北の役所となり『異国の神々と共に』ということか

確かにローマ文化圏からすれば、不思議は行えどもそう強勢でもない宗教家らを世界がわざわざ寄ってたかって滅ぼすような状況にはないように見える。強く反対するのは宗教それも特にキリスト教界であり、加えて独裁制という一種の宗教のようにいまさら共産主義の看板を下ろさず強権支配するあの覇権国家くらいではないか?

あの国家が崩壊した後、世を挙げて共産主義はカルトであったと人々は口々に云うのだろうか。その時まで共産・社会主義またある種の左派を真剣に擁護してきた人々はどう思いの転換を果たすのか?やはりユダヤ人の始めた宗教的妄想であることは明らかになってしまうのであろう。だが、蒙昧なカルトとされるべき旧態依然たる大要素がなお残ることになる。つまり、新崇拝から見た場合、北と一緒に行動した連中のことになる。営々と永らく存在した旧来の諸宗教も、その時には大衆にとって大崩壊を起こした共産主義独裁のような迷信に見えるかも知れない。

だが、終末には聖徒の処遇だけで済まない論点が生じ、この論点はその以前に一度終わっているように思えるが、この論題がシオン興隆のきっかけになって多くの人々を動かすことになるのか?

たぶん、そのようだ。

黙示も終末預言もサラッと書いてはいるが

その時ほど人間が二派に分かれることもないのだろう。

やはり神の裁きは人知も人能も遥かに超えている。

それに加えてカイヤファのような人物も必要不可欠であり、皆が皆終末への洞察をもっていることが神の意向でもなく、聖書そのものが誤解を呼ぼうとしている以上、その危険を強調しない方が良いのかも知れない。Prv16:4/21:18

聖徒だけでなく、「邪悪な者」なくしても神の経綸が進まないのであるから

つまるところ、聖書の字面がどうこうではなく、読むその人の内奥で聖霊、つまり神との邂逅が起こるときに問題が生じて裁きに至る。但し、「悔い」が起こる事はその人の美しさとなるのであり、考えを変えることは無責任ではなく、真実を認められる事は自分が「間違いを犯す罪人」であることを認識し、神の側に立つことにつながる。いったい誰が常に正しいか?

 

Pr24:12は、神が裁きにおいて全知であろうとすることを言うわけではなく、知り得るからこそ決定的に本人に裁かせるということであろう。そうでなければ、誰も異議申し立ての余地があり、控訴できることになるだろう。その点で神の裁きには再審の余地がないといえる。

 

 

 

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