Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

根本的な問い

人間の叡智の地平を超える問い


前提(人間理性の地平線)
人は自らの意志で誕生しない
人は死後を確認できない
人は将来を確認できない
人は神(創造者)存在を知覚できない
人は自らの不倫理性を克服できない



・死とは何か

・人はなぜ死ぬ定めに生まれて来るか

・この世界はなぜこのような在り方をしているか

・死後を説くことは何を意味するか



#なぜ我々は生きていてこの世界が存在しているのか

・死が当然なら生はどういうことか !

・生きることに目的があるか

・生の理由はなにか




#神とはなにか

・それは存在するか、立証できるか

・神はなぜ悪と苦を存在させるか

・神は近付こうとする者を助けるか

・人が願うことを神は行うか

・神は人を裁き分けるか

・神は支配を欲するか

・神は何を意図しているか




#感情と魂の生の意味はなにか

・喜び・笑い
・悲しみ・哀哭
なぜ肉体は感情に反応するのか


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人間に答えがないので、解答と思われることを陳列するだけになっている。
その「解答」は自分なりに考え付いたもの(一生の仕事、人を愛する、歴史に名を遺すなど)であったり、霊からの教えに心酔したりしている。(霊からの教えは大半が死後の存在を説く)
「人間」が「上を向くもの」というのはこのことなのだろう。(サンスクリット起源か?)


人は自己の存在理由を考える
次いで、この世というものを考える
そこで「これはどういうことか?」という疑問が起こる
人もこの世も異様だが、その正解は無い
そこで考えないようにするか、答えと思えるものに固執する
無宗教と宗教への捕われが起こる
どちらもその個人の存在への対処方法である
問題は結果だけが見えて原因不明だから
⇒ここで「天国」や「永遠の命」に安心するのは本来的に「逃げ」であって、生存は心理上に担保されても、存在理由については何も解決していない

(信教の自由というのは、個人の対処法を退けないことか?)


神はこれに答えていないわけではないが
ほとんど見出すことができない
そこに神を偽る勢力の邪魔もあり
本人自身の性向も邪魔をする

神は求めれば見出されるようにしているとは言い難い
ただ、機会は与えているが、理解するのはほとんど無理
のめり込むほど聖書を読み、周辺の資料を縦横に漁らないと掴めない
しかも「教会」という紛いものの雑音がひどい
他人に訊くと大抵は余計に分からなくなる
(これらを理由に恩着せがましくする宣教もあり)


自己存在とこの世の理由を知ることを邪魔するもの
・多様な宗教という入り口の多さ
・宗教そのものの失態
・宗教家の無意識な貪欲と策略
・探求者自身の貪欲と固執
・好奇心や欲を誘う悪の霊力
・この世や大衆の性質
・環境や機会の不遇
・資力や能力の限界



宗教的な何かを提唱するということは何を意味するのか?(布教)
「自分の信念を他の人々にも同調してもらいたい」?
「他の人々が知らない事を自分が気付いたので知らせたい」?
「他の人々は間違っているのでそれを正したい」?
「神に帰依させることで人を救ってやりたい」?
これらを傲慢に感じるのは、人間が並列的立場にあるからでは?
(個人が個々に対処するべきで、他人が踏み込むべきでない⇒自己存在の理由だから)

「誰かが伝えねばならない」というのは、常に並列的本質がある
初代の場合には奇跡の賜物が共に在った
縦列になるのは、人以外が語る場合だけで、数学の解や科学の結論もこれに属している
しかし、人間存在の解答は自然界に無い
それを見出そうとすると、科学と宗教の混同が起こってくる
⇒ http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51958299.html 

「科学的宗教」なるものは矛盾を内包している
つまり、確たる答えは自然界に無く、人間自身にも無い
そこで宗教は絶えることがない⇒この「宗教」の中には無神論や科学信仰も含む、不可知論も同じく

つまり、人は何らかの回答を自分自身にしているのであり、その中には「分からない」というのも「考えないようにしている」もある

おおよそ自我のあるところでこの問いと答えは避けられない
どれほど「無宗教」と言っても、その「無宗教」もその人の「宗教」となっている


聖書の神は「語れども黙す」!
そこには罠があちこちに置かれている、恐るべし!
その罠に掛らない宗教者は自分を含めて皆無だろうと思う。
しかも、その罠にはみなが自分から嵌まって行くのだが、ヤコブの言ったようになる。
しかも、神に仕えようとか、従順であろうとするからそうなる。神はそれを断固拒絶する。それは御子の犠牲のためであろうと思う。

『触れ告げる者がいなければ誰が聞くか』には、神が語らないという前提が隠れている。その理由は「裁き」だろう

hebの冒頭 昔は預言者らを通して、後にキリストを通して、神は語った。(その後、聖徒を通して)
モーセが従者として家全体に対して勤めたように、キリストは家の子として勤めた
[οἶκος]というのは家屋を意味せず、家系を指している。

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教会員の問題

・信仰に熱心であっても、自分を愛するばかりではどうなのか。隣人を愛すことが律法の意味するところだとメシアは言われた。しかし、信仰に熱心とは、自分を愛し兼ねない。自分の義を作ろうとするから。

・すでに霊的にはイエスともによみがえらせ、ともに天の所に座っている。というのは聖徒についてのみ言えることで、一般信徒がそれほど高い立場を得るべきどんな理由があるのか。王国は何のためにあるのか。王国を天国とするとこのような誤謬に至る。

・主の再臨の時、キリストにある者とそうでない者が裁かれるわけではない。「キリストの兄弟」と呼ばれる『新しい契約』に入る者らの聖霊の言葉に信仰を置くか否かで終末の世が裁かれることがマタイ25章に語られているではないか。人は聖霊を介して決定的に裁かれる。

・「わたしは世の終りまでいつもあなたがたと共にいる」と言われた祝福にあるのは聖徒だけであり、その理由は『新しい契約』にある。キリストの臨御はダニエルに予告された第七十番目の一週の間であり、その残りはあと半週、つまり初臨と同じ三年半だけが終末に残されている。

聖霊はうちに住んでくださり、世の終わりまでともにいてくださり、あらゆることを教え、導いてくださると言えるのは聖霊注がれる聖なる弟子のみである。それが証拠に初代の弟子らのように聖霊の賜物を持つ者が第二世紀以来絶えて居ない。彼らの目的は忠節を保って主に続くことであって、個人のご利益ではなく殉教が待っていた。次に現れるのは再臨の終末である。

・イエスが生きている者と死んだ者との裁き主というのは、初期と終末とに存在する神の王国に入るべき聖なる者を吟味することを言うのであり、一般の死者の裁きは神ご自身による王国の後のことになる。


・神の子どもの目指すところは天のふるさとなのだ。それでいま置かれているこの地上での生を確かにするのではない。それでは天に召される者らが、神の王国を形成して地上の人々を贖罪し導くという務めを忘れてしまっている。それこそがエルサレム神殿が指し示していた事柄であった。
そこで「この世」というものが如何に神の創造の意図から離れてしまっているかを自覚するなら、『御心が地に成るように』と祈るべき理由を見出すことができる。


聖霊への冒涜の罪だけは許されないと云うが、アナニヤとサッピラ、またウザなどは即座に滅ぼされたと考え、神の規準が分からないという。一方でダヴィドがなぜ許されたのか、普段が良かったからだという蒙昧な意見もある。
「罪」というものが分かっていないからである。

・この世の悪や苦しみを神は何故ゆるすのかが分からない。
もし神が存在し、万能であるのならば、なぜ神は悪魔を阻止せず、いろいろな不幸が起こるのを許されるのか?


・全般的に、新しい契約にある聖徒の言葉を自分に当てはめるので、すべてが狂ってくる。


キリスト教と戦争、植民地支配と奴隷制の関係、一神教同士の闘争



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