Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エフェソス人への手紙 所見

「異邦人への使徒パウロカエサル・ネロに上訴してカエサレアからローマに渡り、そこでの軟禁生活の中で各地に送られた書簡のひとつ。

書かれたのはその期間59-61年頃らしい。
この同じ時期に書かれた書簡として「フィリピ人」「コロサイ人」「フィレモン」がある。パウロの一度目の拘束ではこの四書が聖典となっているが、そのうちの三書は小アジア向けであった。この後の釈放の期間にヘブル書が書かれ、しばらくして(あるいはパウロの死後か)付き添っていたルカに翻訳が依頼されたのであろう。(3:3ではこの書簡の前に何か簡単なメッセージをエフェソスに送った形跡がある)

エフェソス人への手紙の宛名は『聖なる者ら、また、キリスト・イエスと結ばれた忠実な者らへ』となっている。
これは一見、聖徒と信徒の双方を含んでいる可能性を幾分か窺わせるところもあるが、その内容を俯瞰すると、ヘブライ書などと異なり、聖徒に関する記述で隙間なく埋め尽くされている。

当時のエフェソスのエクレシアでは、その人々は例外ない位に聖霊の賜物を持つ聖徒で満ちていたのであろう。

コリントの二書簡のように、この書簡を書く差し迫った重大な事柄は感じられない。そこには「聖なる者」の受ける益の如何に大きいのかが繰り返し説かれており、知識の点で進歩を促すことが主な目的であったように見受けられる。
ローマのパウロにとって、以前には二年以上も逗留したエフェソスのエクレシアについての知らせも多かったであろうし、彼の伝道から騒動が起きたこともあり、また、そのためか最後のエルサレムへの旅の途上で年長者たちをわざわざミレトスに呼んで訓戒を与えていたことからしても、彼らを気遣う理由は少なくなかったに違いない。
終わりの方では、聖徒の特権に相応しい生活態度への訓戒を含んでおり、知識が意味するところを日々の行状で表す必要が強調される。

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第一章すぐに、本書簡内容が聖徒対象であることが次々に示される。
『神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し』ており『天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、イエス・キリストによって神の子たる身分を授』かったと云う。

また、彼らは『わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過の赦しを受けた』として、聖霊を受けたことにより、人類一般に先立って「義認」の状態にあることも知らせている。(ローマ8:1)

そして1:13-14では、紛うことなく聖霊を受けた者の特権をこれ以上ない仕方でその奥義と共に伝えられる。

『あなたがたは・・彼(キリスト)を信じた結果、約束された聖霊の証印を押された』と明言し、更に『この聖霊は、わたしたちが神の国を相続することの保証であって』と述べて、聖霊の彼らへの降下が王国相続の「保証」(アッラボーン「手形」)であるとして、聖霊を注がれることがアブラハムの裔に属することへの内定を与え、それは将来に『・・やがて全く贖われ、神の栄光を褒め称えるに至るため』 つまり肉体を去ってまったく贖罪され、天の召しに預かることによってキリストと共に王国の一員となる希望を言い表している。

この概念はコリント第二5:5などでも繰り返されているので、パウロの理解であることを確認できる。(『神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである』)

エフェソスの人々は『知恵と啓示の霊』を受けて、『あなたがたが神に召されている望みがどんなものであるのか、聖徒たちが相続すべき神の国がいかに栄光に富んだものであるのか、また、神の力強い活動によって働く力(聖霊)が、我ら信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように』とパウロは彼らに望んでいる。

このように、彼らが霊による啓発を受け、王国を相続し、神の強力な活動力という彼らに注がれた霊の働きを存分に味わい知ることを望まれるのであれば、まったく聖徒としての要件を満たしており、これは聖霊ない者には無理な要求であるし、王国の相続者という点では、彼らは「神のイスラエル」に召されていることを示しており、これは単なる異邦人の関わるところではない。

そこで、パウロは彼らエフェソスの者たちが元は無割礼のまったくの異邦人であったことを指摘する。
『だから、覚えておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼*と呼ばれており、また当時は、キリストを知らず、イスラエルの市民権がなく、約束された様々な契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。』2:11-12 (*「包皮」蔑意)

しかし、神はイスラエルと異邦人という両者を隔てていた壁(神殿中庭の壁を含意)を取り壊して、律法を廃し、敵意を去ってふたつの民をひとつにしたという。2:14-18
こうしてエフェソスの人々も血統によらないイスラエルに含まれ、もはや律法に規定された外人居留者でもなくなったとパウロは指摘する。彼らもキリストと共に神殿を構成する成員として召された状態にある。2:19-22 これは、ローマ11章のオリーヴの接木の例えとも整合することにおいて、まったく論理的である。
パウロはこうしたことの「奥義」(ミュステリオン)の家令として働き、その理解を知らせて回ったが、彼らもパウロに同意できるはずであるとも言っている。
『この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである』3:5 つまり、この奥義の理解は聖霊を通してキリスト後に知らされるようになったことであり、そうなれば、これはキリスト教徒のみが知っていることである。
もちろん保守的ユダヤ人は、異邦人もアブラハムの遺産に与るなどとはけっして考えたくもないであろう。その点でも、元パリサイとは思えぬほどパウロの概念は革新的であり、まさに「奥義の家令」というに相応しい。彼は生涯この家令として確固としており、揺るぐことはなかった。もちろん、その奥義の理解の出所は神であり、聖霊を介した知識である。
それゆえ、パウロは斬新な理解の源を明言する。以前には迫害者であったことを含めてか、自分自身を『聖徒の中で最も小さい者』と前置きしつつ。
『あるゆる物の造り主である神の内に、世々隠されてきた奥義に関わる務め([オイコノミア]「経綸」「管理」*)がどんなものである(となる)かを、明らかにするためである。』3:9(*翻訳難所)

『それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、神の多種多様な知恵をエクレシアを通して知るに至るため・・』3:10
召された者らである聖徒には聖霊が注がれ、預言や知識を通してこれまで明かされてこなかった新たな事柄が、彼らの集まりである「エクレシア」*を通して世に知らされるというのである。こうして各地のエクレシアは聖徒の存在を通して神の奥義を供給する拠点としてそれぞれ機能していたといえよう。
(*これを「教会」churchと訳すと現状も奥義の伝播が可能であるかのように錯覚しやすいが、聖徒の居たエクレシア「招会」とは聖霊の有無という本質で異なっている。また弟子の集まりに、キュリオスに由来する「教会」という言葉]は聖書中で用いられておらず、すべてがエクレシア「招会」である)


第四章に入ると、彼ら聖徒に与えられた奥義の経綸の威容を示しつつ、『召されたその召しに相応しく歩む』ことを訴える。
つまり、『有らん限りの謙遜さをを示し、また柔和で寛容であり、愛の内に忍耐し合う』ことである。4:2
また、『霊の一致』を守るようにとも勧告する。これは神からの霊について述べるものであることを続く部分が明かしている。『体は一つ、霊も一つ。あなたがたが召されたのが、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ』4:4-5[2:18]
これは、是認を受ける宗派が一つだけ存在し、自分たちの宗派こそがそれである、という根拠にされることのある言葉である。だが、聖霊の注がれた真実の聖徒のどこにも居ない現在、それらの言葉を正しく自分たち適用できる宗派があるものだろうか。その主張は、『有らん限りの謙遜さをを示し、また柔和で寛容であり、愛の内に忍耐し合う』事とどう関係するのだろうか。むしろ、聖霊の根拠なく自派の正当を言い張って争いを招いてはいないか。

パウロは、当時の聖徒たちが様々な聖霊の働きを以って互いに仕える姿を詩篇68編18節の句から描写する。
『彼は高いところに上った時、虜を捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた』。4:8
旧約の様々な箇所から神の偉業を讃えたこのダヴィデの歌のこの句は、おそらくシナイ契約の締結を祝うためにモーセの他にアロンと二人の息子、そして七十人の各部族の年長者が山に登ったときのことを語っているのだろう。その後、アロンは大祭司に息子たちは祭司に任じられている。彼らは神の幻を見ても打たれることなく神の御前で飲食をするという奇跡的体験をしたが、その食物がどこからの物かは書かれていない。神が与えたのであれば、それは賜物であろう。また、山麓から見る人々にとっては、彼らは虜にされたようであったろう。下山して祭司を拝命するアロン一族は祭司職の賜物をも得たと云えるだろう。(出埃24:9-11)
この件に関するパウロの述べるところは、大いなるモーセであるキリストが、帰天して後に注がれた聖霊は彼らを天界に招くものであり、謂わば聖霊を受けた弟子らは天界への虜とされたかのようである。彼らの受けた聖霊は様々な種類の働きを為して全体の益となった。(コリント第一12)当時のパウロ使徒預言者、宣明者、牧者、教師をこの書簡で挙げたが、これら聖霊を受けた人々は、モーセの時にあっては祭司の任命を受けたアロン一族に相当する。実際、聖徒たちは「祭司の王国、聖なる国民」となるゆえにそれは益々妥当であるし、その受けた役割はアロン系祭司職よりも次元が高いのである。
パウロはこのような賜物、つまり聖霊の働きによって彼らが益され、信仰と神の子に関する精細な知識を得て、ついにキリストの丈の高さに達するとまで言っている。彼らはその高い目標を目指して、体の各部が調和良く機能するように、エクレシアの全体が協働して愛の内に体の成長に寄与するようにと勧告するのであった。
それゆえ、エフェソスの聖徒たちも虚しい思慮のうちにある諸国民(彼らは既に諸国民ではないゆえに)のようには歩まず、古い人格を脱ぎ捨て、新しい人格を纏うようにと教える。それは神の御旨に従う真実の義と忠節の内に創られるものであるという。
真実を互いに語り、盗まず、手ずから働いて貧しい者らを省み、語る言葉を吟味し、良い言葉を以って人々の恵みとなれるように、また『神の聖霊を悲しませることのないように』。と言うが、その理由は『贖いによる釈放の日のために、あなたがたはそれにより証印を押されたのだ』。として、彼らの内に宿る聖霊に相応しく在ること彼らに求めている。4:30

第五章の初めにある『神の子として神を見習う』とは、彼らが依然としてアダムの命にあって生きるにしても、キリストの早い贖罪に預かり『初穂』の身分を聖霊を通して与えられた以上、彼らは既に『神の子』であり、それゆえにも、神に似た特性を備えるよう努める必要のあったことを知らせるものである。
彼らには『多くを委ねられた者』として一定の道徳基準は守らねばならず、避けるべきものの中には淫行(ポルノス)、汚れ(アカスァルトス)、貪欲(プレオネクテース)があり、これらを行う者は即ち偶像礼拝者であるとしており、この者らは『神の王国に何の相続物もない』と警告されている。
偶像礼拝はギリシア文化圏では日常生活に密着したものであり、エフェソス市内には巨大なアルテミス神殿があったばかりでなく、商業区(アゴラ)には神殿の銀細工模型を制作販売する店が並んでおり、神殿に奉納された肉や食物は毎日、付随する食堂や商店で売られていた。初代キリスト教徒はこれらから離れる務めを自らの良心に第一に感じていたので、淫行、汚れ、貪欲が偶像崇拝であるとの指摘は、それらの悪行を崇拝の異なりとして忌み嫌うよう促したであろう。
エフェソスは交易豊かな港町らしい放縦さが見られ、その意味においても、『あなたがたはかつては闇であったが、今は主との関わりによって光の子となった』ので、『何が主に受け入れられるものかを常に確かめ』つつ生きるようにとパウロは勧告する。5:9-10

聖徒が聖徒らしく生きるのには、コリントス同様エフェソスの街には誘惑や罠となる異教の生活様式が溢れていた。そこでは律法に従うユダヤ人とは異なる仕方での克服が求めらていたのであり、服装や生活様式で周囲と然程は異ならないキリスト教の聖徒には、より難しい挑戦となったであろうし、そのことをパウロは深く気遣ったのであろう。生活上の教訓はこの手紙の最後まで続いている。









☆用語 :「聖徒」
[http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20111001/1317463438:title=エクレシアにおける信徒と聖徒](メモ)
「聖徒」聖霊の指し示す者たち










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