Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑録

ユダヤ教界の過去と現状

マナセ王の時に、神は律法契約の破棄を意図する
ヨシヤ王以後、聖都滅亡までのどこかで証しの箱が引き上げられ契約は終わる。
復興後、百年ほどで預言者も絶え、エリヤとメシアへの期待が高まる。
証しない状態の復興後の祭祀は、新しい契約を待つ状態の「仮のものであった」その間のユダヤ人は「新しい契約」に入ることで律法の呪いから解かれる必要があった。
エスユダヤ人に伝えた「救い」はここにある。


メシア以後、道はふたつに分かれ、新しい契約に入る者は少数であった。現下のユダヤ教ヒレル・パリサイであり、まさにメシアを退けた派閥の延長線上にある。




キリスト教界の現状と将来


五旬節以来、聖霊を受けるも、イエスが王権を得る旅に出て不在となるに及び、聖霊によるキリストの臨御も停止し、聖霊という証しはひとたび引き上げられた。
したがって、現状で「新しい契約」に参与する者はいない。
聖霊のないキリスト教界はバビロン捕囚期のように異教の強い影響下にある。
これが回復されるためには聖霊を待たねばならない。
具体的には、聖霊は知識を授け真理を教える。
象徴的には、聖霊は証しとなって新しい契約に伴う。

聖徒たちはバビロンを去りシオンに向かい、キリストと共に生ける神殿を構成し、そこには契約の箱に相当する証しである聖霊が宿り、神はそこに自らの「名を置く」ので人類は神名を知ることになる。(これらは聖徒の天への招集の前に起こる)
その周囲を含めて「シオン」と呼ばれ「諸国民の祈りの家」を目指して諸国民は流れのようにそこに向かう。

超古代の大王の復活と聖徒攻撃


だが、キリスト教界の場合、その後に道はふたつに分かれる。つまり「バビロンに残る道」と、「シオンの攻囲」と裁き(シャファト)となろう。シンアヘエリバ



כי כלה ונחרצה
אדני יהוה צבאות
עשה בקרב כל־הארץ

ὅτι λόγον συντετμημένον ποιήσει ὁ θεὸς ἐν τῇ οἰκουμένῃ ὅλῃ.




その内容は黙示録やダニエルではまったく収まらず、預言者たちが一斉に語るかのようになってきたので「終末論」のカテゴリー分けが必要になるようだ。基礎から段差を少なく導く必要あるが、そちらの方がよほど至難の業。


我々はここに永続する都市を持たないHeb13:14
永遠の契約の血を以って羊の偉大な牧者である主キリストを死人の中から引き上げた方20-

dies solis 321年以降農夫以外

イェフワー・ツェバーオート 万軍pl之耶和華
ゴーアラーム 買戻者pl

◆神は無駄なことをなさらず、何時来るのか分からないキリストの帰還を聖徒の居る状態で待たせはしないだろう。まして数に限りがあるなら尚更ではないか。
ヤコヴは「臨御は近い」と言い、パウロも55年ころの書簡ではそう言っている。しかし、テモテ第二など最晩年ともなると自らの死の近いことを悟って、主の帰還の話をしなくなっている。黙示録で「わたしは速やかに来る」と書いたヨハネといえども、黙示は主の日に関する幻であるからには、自分の世代と必ずしも結びつけはしなかったであろう。そのヨハネも老境に入っており、しかも与えられた幻の成就が自分の死後であることを悟っていたであろう。その成就は聖徒の再出現を扱っており、キリストの死から65年以上を経て、今後どれほどの長さを経るかについて彼は些かも問題意識を持たなかったであろう。
そうなると、キリスト以降ずっと聖徒が居る必要はまず無い。
その先例が、預言者の封印マラキ後の四百年である。その間に様々な出来事が起こり、ダニエル書などに沿った歴史は刻まれはしたが、その意義はマラキ以前のようにはならない。
バプテストのヨハネをエリヤとして迎えた民は、謂わばイスラエルの歴史を清算するようなところがあった。そうしなかったパリサイなどは神の意志を逸した。彼らは過去にしがみつき、歴史が一続きに繋がっていることを望んだのであろう。
今日、聖徒がずっと存在し続けたという主張には現実性や蓋然性の薄さを覚えざるを得ないが、それを唱導する理由というのは、人間の側の意図を強く感じさせるものである。
そのひとつには、自分たちの「聖徒」の正当性が崩れる怖れがあるのか?というのも、実のところ本当に聖徒が到来しているのか否かが確信できないときに、ずっと続いて来たことにするとその問題の責任から逃れることができたような錯覚があり、恐怖に慄くほどに、それにすがりたいであろうからである。しかし、これは随分と神を無視したやりようではないだろうか。
神は無駄なことをなさらない。それで、聖徒を存在させるなら、奇跡の霊の賜物を存続させることになり、それは神の御力を単なるマジックのように卑しめることになるだろう。その意義を失ってしまうからである。したがって、今日まで聖徒が連綿と存在してきたと主張するからには、聖霊の賜物は極一時的な「お印」であると断じざるを得なくなる。しかし、「聖霊の賜物」の超自然性や、聖徒に証印を押した神の御力をそのように卑しめることは、神との絆を決定的に引きちぎるようなものであろう。
その宗教は神との関係性を失うばかりでなく、神の義に背を向け、人間の独立の道を行こうとするものとならないだろうか。
そうして宗派は「聖霊の賜物」の再降下を喜べず、神の御力の表明である奇跡がある人々を通して現れるときですら、それを迎え入れることが出来ず、かつてのパリサイのように、却ってそれを行う人々を「〜ではないから」という外面的で単純な理由で退け、その攻撃に手を貸して聖霊に対する冒涜を行ってしまうのではないだろうか。そこには「人間の義」の独善があるので、神よりも自分たちや組織を「義」として聖霊の印を認めようとしないのであろう。神は無駄なことをなさらないので、かつてパリサイが自ら新しい契約に値しない者であることを表したように、将来の裁きもそのようになるだろう。パリサイたちも本気で自分の教えこそが正しいと信じて止まなかったことをけっして忘れるべきではないだろう。
それで、今日組織崇拝に陥っている人々はそこから逃れ出ないと、裁きの日における大きな危険に身を曝すことになるだろう。
まさしく「大いなるバビロンから出よ」と宣明する人々こそが、その只中に居るという恐ろしく巧妙な罠がそこにある。

◆なぜ血統上のイスラエルに回復が起こると想定するものだろうか
契約が引き続いているというどんな証拠が残っているのか。彼ら肉のイスラエルは、メシア拒絶によって律法契約の目的を逸し、「諸国民の光」となることから遠ざけられた。しかし、「神のイスラエル」においてその目的が達成されたので、彼らは聖霊を受け、新しい契約が発効した次第である。
一方、肉のイスラエルにおいては、神殿そのものが現在まで存在しないばかりか、むしろ神殿祭祀はキリスト教において次元上昇しており、契約の証しの箱もなく黙示録では天に移動していて地に降ろされるとはなく、聖徒の復讐において姿を現している。その聖徒たちには契約の証しとして聖霊の賜物が注がれるのであり、新しい契約は律法契約に取って代わり、律法契約は既にパウロいよって終了が宣言されている。それでも時が至ればメシアが来臨して神殿が再建されイスラエルの栄光が世界に輝くと考えるのなら、それはそのままパリサイ式のユダヤ教ではないのだろうか?それは幾らもキリスト教ではないだろう。キリスト教徒の中でもこのように想定し、さらにはユダヤ教徒キリスト教徒への改宗まで予想するとは、顕現で真教を信じるということになり、「雲に乗って」の句を誤解し、キリストの一度目の顕現の意味を無に帰せしめるだろう。最も欠けている理解は「聖霊」に対するものであると言えよう。

◆「聖霊の賜物」は、初代キリスト教徒がまったく途絶えたであろう二世紀の初め頃までは存在していた。それは使徒ヨハネの死後、十年から二十年というくらいであろう。
したがって、「聖霊の賜物」が弟子らの理解の「揺籃期」を脱した後に終わったとすれば実際とまるで合致しない。それは「揺籃期」を脱したのでも安定期に入ったのでもなく、異教への逸脱の始まりというよりほかない。史実の示すところは、聖霊を失って迷走を始めたようにしか見えない。
さてさて、かくも聖霊は信仰から追い出され、随分と忌避されたものではないか。彼らほど聖霊の再降下を望まず喜ばない者らもいないのではないか。しかし、そこまで侮ってよいものか?それでは、まるでパリサイではないか。そこにあるのは決めつけという「人間の義」であり、聖霊のない教導者の権威上の都合ではないのか。真に聖霊の再降下が有るなら、それを受ける真の聖徒に激しく嫉妬し抵抗し冒涜するのは誰であろう。彼らの心は振り上げた拳を下ろせるほど柔軟だろうか。また、もしそのように謙虚であれば、それまでの強硬な決めつけはどこから来たもので、その責を神と人とに対してどう負うつもりだろうか。



B19a ;Gen3:14
Theological Wordbook of the Old Testament

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信仰の置き換え
キリスト教徒は何を信仰するべきか?
また、何を求め続けるべきか?
追い求めるものはキリスト教であるべきだが
いつの間にか宗派や組織を擁護することに置き換えられている。
キリスト教が何であるかはわきに置かれ、自派の正統性を信仰し証しすることが自らの務めにすり替わっている。
その「信仰」というものは、神やキリストの御旨を探ることから巧妙に逸らされている。
その原因は、教える側が支配したいためであり、教えられる側は「信仰」によって得られる利益を確定したいためであろう。どちらも神の名を騙る貪欲である。
それであるから、その「信仰」がキリスト教から離れてゆくのは理の当然であり、まず騙す側の教える側が信徒らに聖書を教える過程で様々な策を弄している。だが、それに気付いていない教師もいるのであろうが、悪意がなかったと言ってもその意味は無い。その逸脱に気付けないのであれば、教える資格も存在してはいなかった。
注意するべきは、聖書の裏付けが薄弱な教えで、信徒に行動を促すようなところである。
そのほかには、聖書に裏付けが無い事項を求めてくる場合、それを求める「宗派や組織が正統であるから」という理由づけされる以外になくなる。そこで十分に歪曲された教えが洗脳に至っていると、それも理由としてまかり通ってしまう。それはキリストからの逸脱であり、背教と呼ばれるべきものである。たいていの場合、キリストからの教えは自分たちを通して来ることを教え込み、その経路として承服させてしまう。
こうなると、信徒は人間の奴隷となってしまい、真にキリストが臨在するときにそれを否認さえするように凝り固まってしまう。
洗脳を目指した教師側としてはこれで上首尾であるが、これこそは『盲人が盲人を案内して共に穴に落ちる』の例えのままである。しかし、それはきわめて巧妙に行われるので、だれも自分がそうなっているとは幾らも思わない。むしろ、自分のように信じない者がその例えの実例と思うであろう。
だが、その警戒心の無さこそが盲目たる所以である。見えているならその導きを検証するはずである。







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