Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ニカイア会議とその後の情報

ニカイア・コンスタンティノポリス・エフェソス・カルケドンで開催された八つの会議はその後の会議とは、根本的に異なる。

ニカイアへの出席は220名の名を挙げることができるが、エウセビオスは250名を越す程度であったという。318人というのは創世記への因みに過ぎず誇張が含まれているのであろう。
東方が主で、シルウェストルは司祭を参加させたという。
イスパニアからは高名なホシオスも参加した。
(ホシオスはアレイオスとアレクサンドロスの確執の調停を試みている)

5月20日から7月25日まで皇帝の夏宮の大広間で行われた。

この会議と次の会議には議事録が残っていない。
アレイオスには17名の支持者がありそのひとりはニコメディアのエウセビオスであった。
主だった反対派はアンキュラのマルケロス、アンティオケイア(!)のエウスタティオス、アレクサンドレイアのアタナシオスらであった。
彼らはカエサレイアのエウセビオスの提出した当地の教会の洗礼用信経を改定してニカイア信経を造った。
その中でロゴスの、父へのいかなる従属も非とした。

ロゴスは「神と同じ本質のもの」と定義された。これは6月19日に採択された。信経は皇帝により帝国の法として発布される。
その後、約一ヶ月を費やして別の事柄を扱ったが、殊に復活祭については、春分の後の最初の満月の次の日曜とされ、日付の算定と公示はアレクサンドレイアの司教に任せられ、この決定も帝国法に昇格される。

このときのカノンの11条は、リキニウス帝の迫害で棄教した者も三段階の償いを経て完全な資格を有する信者として受け入れる。⇒メリtィオス派の反対とアウグスティヌスの強硬策
カノン第二条では、新しい受洗者が直ちに要職に就くことを禁じた。⇒アンブロジウス
第四条では、司教の叙品は少なくとも三人の司教によってなされるべきとした。
第六条では、エジプト、テーベ、リビアの司教をアレクサンドレイアに従属させたので、ローマ総大司教に似た立場を得ていた。
第二十条では、復活祭時期の祈りは立って行うことが義務付けられた
このときに、司教の独身制の導入が試みられたが、聖証者パフヌティオスが反対し断念された。

第17条⇒後記事


アタナシオスは隠修士アントニウスの『伝記』を書いており(357以前)これが西方に修道会の理念を広めた。
324のセルディカの会議では西方の司教らはアタナシオスの廃位は不当だと訴えた。東方の司教らは別に会議を開き、アタナシオスの有罪を確定し、教皇ユリウスⅠを排撃し、ニカイアのホモウシオスの語を避けた新しい信経を採択した。
359年、反ニカイア派はコンスタンティウス二世を説得して帝国教会会議を開催させ、西方の司教を招いてリミニで、東方ではセレウケイアに集まったが、双方の結論は対立し皇帝はニケで起草された「聖書に従えば、父と子は似ている」という内容の信経への署名を拒んだ司教らを追放刑に処すると脅した。

ここでヒエロニムスの名言「全地はうめきつつ、自らアリウス派になってしまったことをいぶかった」


361年皇帝が崩御し、ユリアヌスの時代となる。



Hubert Jedin
Kieine Konziliengeschichte

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⇒ 第四世紀年表
この時点ではキリストの神格化の討論で三一はまだ無い。
第一コンスタンティノポリス会議前後の資料?
ユリアヌスは、ただ異教推進者ではない

dies solis 321年以降農夫以外

所見;
幾らか見通しがひらけた
しかし。360年に何があったのかが、まだはっきりしない
東西の修道制の差異はなにか?アントニオス式の砂漠への隠遁が定式化したか?だが、内容は読むに堪えない。一方、アウグスティヌスの共同生活は非常にロマンティックに夢幻的なうえどこか悪霊を感じさせるところあり。それはカトリック色として定着していったかの観あり。





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