Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ペテロ第一4:6


[εἰς τοῦτο γὰρ καὶ νεκροῖς εὐηγγελίσθη, ἵνα κριθῶσιν μὲν κατὰ ἀνθρώπους σαρκί, ζῶσιν δὲ κατὰ θεὸν πνεύματι.]NA28

[εὐηγγελίσθη]動)直アオ受3単
[κριθῶσιν]動)仮アオ受3複
[ζῶσιν δὲ κατὰ θεὸν πνεύματι]


For this reason the gospel was preached also to those who are dead, that they might be judged according to men in the flesh, but live according to God in the spirit.【NKJV】


死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。【口語訳】


というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。【新改訳改訂3】


死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。【新共同訳】


このためにこそ、死者たちにも福音が告げられたのである。それは彼らが人間の目でみれば肉[体]としてさばけれても、神の目からみれば霊として生きることができるためである。【岩波委員】



所見;この『死者』というのが『霊に於いて生きる』とされていることでは、一般の死者を意味しないと解するべきように思える。つまり、この書簡が書かれた時期は、早くとも西暦60年に入っており、聖徒の世代も広くなっていて、既に初期の迫害や、老齢のために世を去っていた聖徒も少なくはないけれども、キリストの臨御の時期の復活により裁かれ、共に霊による天への召しに預かることを言う。



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使徒
[ὑπερλίαν ἀποστόλων]2Cor11:5/12:11
[ὑπερλίαν]はヘブライ語由来とのこと
偉大な、たいそうな

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サマリア

古いマケドニアの要塞としてアレクサンドロスが築いた入植地としてのサマリアはキリストの時代には存在していなかった。
ヨハナン・ヒュルカノスの時(前108-7)の攻囲によりユダヤ人によって徹底的に破壊されている。
前63年にポンペイウスは再びサマリアの街をユダヤから切り離した。
その後サマリアはガビニウスによって再建されたが、ガビニアと呼ばれていたかもしれない。
街は前25年にヘロデによって二度目に再建され街は拡大され一部は異邦人兵士の駐屯に、一部は周辺から入植者六千人が集められ、その街はセバステと命名された。そこはカエサレアのように異邦人が多く、アウグストゥス神殿とペルセフォネー聖域を備えており、サマリア人の宗教的中心ではなかった。そこのセバステーノイは半ユダヤ人であるサマリア人ではなく異邦人によって構成されていた。
ヨセフスはルカ同様サマレイティスを都市の名として使っていない。
「フィリッポスはサマリア(無冠詞)に下って行った」とではなく、エジプト史料にあるように冠詞を付け、「サマリアの首都へ下って行った」と解すべきである。だが、この解釈にも難点はある。なぜなら、ルカは一度もサマリアを町の名として使ってはいない。
シモン=マグスという人物とセバステとは宗教混淆的な環境を関連付けられると幾人かの学者は考えている。それはコレ=ペルセフォネーとゼウス(シモン)=「最初の想い」[πρωτη 'εννοια]としてのヘレネー(後代、ヘレネーはシモンの妻とされている)との間の関係を空想力豊かに関連付けることができると考えられていたためである。しかし、ルカは単に魔術師としての奇跡行為者として報告しているのであり、グノーシスの空想的思弁を読み込むべきでない。(シモンは自分をゼウスと同一視していたと見做されていたこともあり)


ゲリツィム神殿とシュカル
古いシェケムの遺跡の上にシェケムの町が再び建てられたが、前128年にヨハナン・ヒュルカノスによって神殿共々破壊され、以後歴史から姿を消す。
しかし、後72年にウェスパシアヌスによって北西1500mのところにフラウィア・ネアポリスとして再建されている。
シュカルは今日のアスカルであり、エバル山の南東の麓にある。そこは古いシェケム遺跡であるテル・バラタの北東1kmほどのところにある。この町の重要性はシェケムが無くなってから得たもので、ゲリツィム山から最も近い町であったことによる。
このシュカルがシモンの故郷とされるギッタではないかという推測は的外れで、ユスティノス以降の史料によって名前を挙げられているに過ぎない。ギッタがどこかは未だ決着がついていない。

ルカの著作
ルカはパウロの軟禁からおよそ20年から25年を経て二つの著作を書いたと思われるが、おそらく「我らの資料」つまり彼自身の手になる古いメモを用いた可能性が高い。この時間的な隔たりによって幾つかの不鮮明や間違いが説明できるが、彼の物語作者としての無頓着さをも考慮に入れなければならない。彼のこの無頓着さが批判的な学者たちによってこれほどまでに書きたてられることになろうとは、ルカも知る由もなかったろう。
ルカに学問的なレベルでの地理的な知識を要求するべきでない。・・エアランゲンの博士号を持っている神学部の女性秘書が「チュービンゲンってヘッセン州にあるんでしたっけ」と尋ねて以来、わたしは地理的な知識については驚かないようになった。(ゲヴァルト[J.Gewalt]がルカのシリアとパレスチナの地理にまったく通じていないことを立証している。G.Lüdemannは苛烈な批難をルカが地理に通じていないからと「信頼に足る歴史家として疑問」と繰り返し浴びせている1980が、それは彼には古代テクストを適切に判断する能力が無いことを証明しているだけである。)

Martin Hengel "Übersetzt unter der Genehmigung mit dem Autor"->

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今日も

Jos10:27





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