Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

新世界訳での神名の扱い

ものみの塔の神名の発音使用と、新約聖書に於ける神名の扱い方法の試案

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概論

ヨセフスの著作に見られるように神名を発音することが「恐るべきこと」とされ(ユダヤ戦記V-10:3)、神殿域だけでそれが許されていた第一世紀当時のユダヤ人の常識からすると、各地のシュナゴーグを訪れたパウロバルナバの一行が、現地でSHMを用いたとするなら、その件で問題が生じ、それが迫害の原因となったことが新約の使徒言行録以降に明記されたと思われる。⇒ http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20111021/1319215664
新約中、アテナイの例はともかく、意味の上で「神」の語で表されるのは常にYHWHであったが、それは発音されずとも聞き手に了解されているであろう場面がほとんどである。加えて、NWTのアテナイの場面の記述でもパウロはついにYHWHの名をまったくの異邦人にさえ宣明しなかった。バルナバと向かったリュカオニアでさえも記述に神名は出てこない。これ以上ない程に、神名を出して諸国民にイスラエルの神の名を教える決定的機会にNWTは神名を出していないのはギンスブルクとしていったいどうしたことか?

だが、聖徒(アブラハムの裔)を集める業がメシアから使徒らに移ったと見れば、信仰の対象はまずイエスがメシアであったことが何をもっても一番に強調されねばならなかったに違いなく、崇拝の対象YHWHが神か否かはユダヤ人や改宗者の当面の問題ではなかったし、この時点でそれを持ち出すのは的外れなことであったろう。(1Cor15:20-21)
初代の弟子らが宣明するべきであったことの最重要の事柄は、イエスが約束のメシアとして現れ、預言を成就したことに尽きる。(Act10:37-43)聖霊の賜物もイエスの生ける証であり、使徒らの活動は「霊と力の論証を伴うもの」で、人々の信仰をイエスに集めることにあった。(Act.4:30.5:40.9:21.10:34-48.15:19.19:17.21:31./Rm1:4-5/Ph2:10-30/Co3:17/2Th1:12/2Tim2:8/)

弟子らが世間で「クリスティアノイ」と呼ばれる習慣は50年代に定着していたであろう記述がActにあり、それは初代の弟子らがキリストに追随する者として知られていたことを表している。モーセに従うユダヤ教からの脱皮を必要とするこの時代のパウロディアスポラ派のキリスト信奉者に「YHWHの証人」などと発言することが許されるわけもないし、そのような今日的想像すらまったく荒唐無稽というよりほかない。
この時期の弟子らがYHWHを専らに宣明していたなら、それは却ってユダヤ教を広める業を行っていたことになってしまう。ましてそのユダヤ教は神殿域以外でSHMの発音をしないことでその神聖さを担保していたのである。それは御名への悪意でも敵意でもなく畏敬であったが、結果としてメシアとしてのナザレのイエスの名が全世界に知れ渡る余地を与えている。(今日の「エホバの証人」なる人々は、その極端のもう一方の端にあり、御名を余りに卑近なものに引き下げている)
第一世紀、既に地中海世界からインドに至るまでユダヤ教が広がっていたのであり、初代の弟子らは、その状況からディアスポラの民を中心にイエスの名をメシアとして知らせることが急務であったはずであろう。果たして、パウロは自らの宣教について『キリストの名がすでに唱えられている所では良いたよりを宣明しないことを自分の目標とした』と書いており(ローマ15:20)、また、ペテロも使徒言行録の中で異邦人にさえはっきりと『この方(イエス)は、民に宣べ伝えるよう、また生ける者と死せる者とを裁く方として神に任じられたことを徹底的に証しするようにと私どもに命じられたのです』(使徒10:42)と述べているのである。



それだけでなく、以下のような場面でのSHMの使用は不自然に見える。

・初期宣教とユダヤ教との関係と一致しない句
「わたしをエホバに忠実な者と見てくださったのでしたら」Act16:16
この場面でリュディアは短時間の内に家族と共にバプテスマを受けている。ティアテイラ出身のリュディアは異邦人であったのであろうが、信仰の初めの段階であれば「主を信じる」*とはイエスをキリストとして受入れることであったろう。もし、これをYHWHから始めるとなると、彼女はユダヤ教に帰依したかのように信仰の要点がずれてしまう。まして、もし彼女にユダヤ教の下地があったとすれば尚更である。cf,(1Cor1:2)*(NWTはここのピストーンを「忠実な」と訳すが「信じる」とすると発言のニュアンスは「私を主の信徒と見做して下さるなら」と変わる)
そこで増々(πιστήν τω κυρίω)のキュリオーの位置にテトラグラマトンを代替するのは不自然さが否めない。ここでリュディアは自分が使徒たちから学んだキリストについて述べていると捉えるのが極めて自然である。その理由は、まず、このフィリッポイの市の門の外側に「祈りの場所」があったとされており、リュディアがそこに居た理由が洗濯にあったかも知れないものの、ユダヤ教との関連も考えられること。第二に、この地で囚人とされたパウロとシラスは牢番から「わたしたちが救われるにはどうすれば」との質問を受け、このおそらくはマケドニア人の問いにさえ「主イエスを信じて頼れ」と答えている。この場面でもYHWHの名はNWTにも一度も出ていない。
新世界訳の新約部分へのSHMの挿入は、ヘブライ語に還訳された幾つかに存在していた、という理由で、多くの新約聖書ヘブライ語訳から集め出されたものであるようである。だが、その元になったヘブライ語訳がどうしてそこにSHMを挿入したのか(旧約の引用はまだよいとしても)を新世界訳そのものは説明していない。もちろん、それは新世界訳の務めではないながら(いや、やはり訳本を出した以上は還訳と共に説明責任がある)、それぞれのソースから新世界訳の訳者の判断で取捨選択されたのか、それとも在る物どれでもすべてを書き出したのかが(どうもそのようである)はっきりと示されているとは言い難い。(ひとつだけ独自の判断があるそうながら)
しかし、ヘブライ語に新約を還訳した訳者たちが、それぞれの箇所にテトラグラマトンを挿入した理由をリテラシーを以って考慮していないとなれば、NWTの神名復元という大義名分も相当に危うい土台の上にあることになる。まして発見されている新約聖書の発見された古写本に一枚として御名やそれに相当するものが存在していない以上、旧約の引用以外はまだしも新約筆者が記したかのように御名を載せることは大胆過ぎる冒険という以外ない。
もちろん、キリスト教が主流を成すキリスト教国の現状☆では、初代とは逆にYHWHの方を強調しないと信仰のバランスが取れないのは確かながら、新約聖書記述に相当の無理をしつつもYHWHを挿入するのは「政治的意図」となってしまわないか?そこでは、今日YHWHを強調して、たとえ今日のまったくの異邦人信者に信仰のバランスを整えられても、他方で「事態の歴然」を汚すことになってしまう。(☆そのキリストを唯一全能の神としてまったく譲らない頑迷さは世を制圧しているかのように圧倒的である)





・文脈の理解を乱す例

Act8:25『 こうして,徹底的に証しをしてエホバの言葉を語ってから,彼らはエルサレムに引き返したが,サマリア人の多くの村に良いたよりを宣明していった。』
サマリア人たちが、宣明者フィリポを通してイエスがメシアであるというメシア信仰を受入れた時点で『彼らはただ主イエスの名においてバプテスマを受けていた』とNWTも訳している。
しかも、相手は今日まで世界最古の律法の写しであるタルグム「サマリア五書」を擁するサマリア人であり、律法遵守者である。
彼らが必要としていたのは、明らかにイエス派の信仰であり、いまさらモーセの神を教えられる意味がない。新約聖書の影も形も無い当時にはキリストの言葉こそ聞かねば律法の意味するところも分からなかったに違いない。そこで重ねてサマリア人相手に『エホバの言葉』を語るどんな必要があったろうか?『良いたより』である福音は旧約の言葉なのだろうか?この句の少し前にはNWTでもフィリポが『神の王国とイエス・キリストの名についての良いたよりを宣明していた』とあり、ますます「エホバ」の句は孤立させられることになり、それは少しも御名を賛美することにならず、聖書を誤解させている。
この文脈の中に『エホバの言葉』を入れるのは当時の状況に一致せず、文脈の意味も『エホバ』の一言で不自然に途絶えさせてしまっている。



加えて2Cor3:12-18で新世界訳に五回現れるSHMは前後の文脈(3:7-15.4:1-6)からすると、どうみてもYHWHではなくメシアについて述べている。ここは特にひどく滑稽なことになっている。
『それゆえ,このような希望があるので,わたしたちは大いにはばかりのない言い方をしています。13そして,除き去られることになっていたものの終わりをイスラエルの子らがじっと見つめることのないようにと,モーセが自分の顔にベールを掛けたときのようなことはしていません。14彼らの知力は鈍っていました。同じベールが今日まで,古い契約の朗読の際に取られずに残っているのです。というのは,それはキリストによって除き去られるものだからです。15実際,今日に至るまで,モーセが読まれるときにはいつも,彼らの心の上にベールが掛けられています。16しかし,転じてエホバに向かうとき,ベールは取り除かれるのです。17さて,エホバは霊です。そしてエホバの霊のある所には自由があります。18そして,わたしたちすべては,ベールをしていない顔で,エホバの栄光を鏡のように反映させながら,霊なるエホバのなさるそのとおりに,栄光から栄光へと,同じ像に造り変えられてゆくのです。』

これは酷い!「モーセが読まれるときにベールが掛けられている」と述べたときのパウロの意図が、キリストが既に現れてユダヤ教の時代が終わっていることへの比喩であれば、そこで「転じてYHWHに向かうときにベールが外される」ではパウロの意図から外れる。既にユダヤ教徒である人が新たに向かうべきであったのは明らかにイエスであり、すでにYHWHに向かって崇拝していたのであるから、ここはやはり現存の写本に従い「転じて主(イエス)に向かうときにベールが外される」がどう読んでも相応しい。これついては、同書の第四章に分類されている6節に『神は,「光が闇の中から輝き出よ」と言われた方であり,キリストの顔により,神の栄光ある知識をもって明るくするため,わたしたちの心を照らしてくださった』と適用され、このようにモーセの顔が輝いた故事がキリストに対型付けられている以上、第三章の『転じて主に向かう』はイエスに対してであることはますます間違いがない。むしろ「エホバ」としてしまうことが滑稽なほどパウロの意図を無視することになる。ものみの塔の信者はここまでの誤謬を忍んでしまうのだろうか?

次いで、2Cor13:18[栄光から栄光へと,同じ像に造り変えられてゆく]翻訳難所
確かに、鏡のように反映される栄光とは神のものといえる。だが、これはメシアに入れ替えることができるものでもある。わざわざ「同じ様(像)」['εικών]に変えられてゆく、というのは神よりはキリストにふさわしい。(1Joh3:2)この場合『霊なるエホバのなさるそのとおりに』の部分がかなり意図的な訳に見えてくる。『そのとおり』は『主の霊によるままに』幾らか譲って『主の霊の行うままに』で、「主」も「霊」も属格扱いで、この節の主語は「わたしたち」以外になく「主が行う」という従属節もない。但し、何者がそれを為すかはここで述べられてはいないが、それは明らかに神YHWHであり、それは当時の読者にせよ言うまでもない。
後半はどうか?「同じ様に造り変えられる」は「創り変えられる」が適当で、新しい創造物としてキリストの様に変えられるのであって、神の様にというのはどうか?モーセは神の栄光を「反映」しただけであって「造り変えられた」とは言えない。聖徒がキリストの様に「創り変えられる」が、それは「反映」とは次元が異なるのでは?即ち、モーセが反映したのが神の栄光であっても、聖徒らは栄光の姿に創り変えられる(メテモルフォー)のであって、それは主イエスの栄光にこそ合致する道理がある。ヨハネ第一書簡では聖徒について『彼が現されるとき、わたしたちも彼のようになる』と述べている。(1Joh3:2)
ここは、「鏡が鏡像をもたらすように主イエスの栄光ある姿が聖徒たちに移され、『(イエスの)栄光から(聖徒への)栄光へと』鏡像のように再創造される」の意であって、『その霊のままに』とは「霊の存在者であるイエスの姿の象りの通りに」と捉えるべきように思う。それを為すのは神YHWHであるが、ここで重要なことは神名を出来得るだけ頻出させることではもちろんない。

『わたしたちの皆が、ベールをしていない顔で、主の栄光を鏡のように反映させ、主の霊の様に、栄光から栄光へと、彼(主)と同じ像に創り変えられてゆく』(試訳)
こうして見ると、栄光の源となる「主」はキリストの方であったと読むのが自然で、この観点から上記のNWTの翻訳文の「エホバ」を「主(イエス)」に補填しつつ読み直すなら明瞭になるように、それは前後の文脈の連なりを壊さない。
したがって、ここでNWTは神名を用いることで読者の理解を促進してはおらず、神名を頻出させただけで、却って読者の理解を削いだと言わねばならない。




1Cor4:3-5『さて,わたしにとって,あなた方に,あるいは人間の審判の場で調べられることは,ごくささいな事柄です。わたしでさえ自分を調べることはしません。4 わたし自身,責められるようなことは何も意識しないからです。しかしそれによって,わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べる方はエホバなのです。5 それゆえ,定めの時以前に,つまり主が来られるまでは,何事も裁いてはなりません。[主]は,闇の隠れた事柄を明るみに出し,また心の計り事を明らかにされます。その時,人は各自神からの称賛を受けるのです。』

これはギンスブルクの還訳新約聖書テトラグラマトンの記載がある。
 [כִּי אֵינֶנִּי יֹדֵעַ מָה עִמָּדִי אֶפֶס בְּזֹאת לֹא אֶצְדַּק עוֹד אַךְ שֹׁפְטִי הוּא יְהוָֹה׃]

『新しい契約』の仲介者はキリストであるので、聖徒らはキリストの到来するときに裁かれる(1Jh2:28)、また『裁くことをすべて子にゆだねておられる』(Jh5:22)といわれるが、これは天のキリストの許に召される者らと成るか否かの掛かる裁きとなるので『狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい。あなた方に言いますが,入ろうと努めながら入れない者が多い』(Lk13:24)とイエスは言われ、旧約の預言者マラキもメシアである『契約の使者』について『彼の来る日にだれが忍べるであろうか。その現われる時に立っていられるのはだれであろうか。彼は精錬する者の火のように,洗濯人の灰汁のようになるからである。3 そして彼は銀を精錬する者また清める者として座し,レビの子らを必ず清くする。』と予告している。
パウロ聖霊注がれた聖徒は『キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません』(Rm8:1)とキリストの犠牲によって義の立場を仮承認されたことを述べているが、『最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励む』(2Pet3:14)必要が残されており、これを吟味して裁くのが臨在する『新しい契約』の仲介者であるキリストであり、上記でパウロが『わたしを調べる方はエホバなのです。』と言ったとすれば、これは『新しい契約』に属した者らを吟味する権限を持ち、聖徒という生ける者と死せる者とを裁くキリストの役割を捨ておいており、「神名の復元」どころか文脈の理解を削ぐ無理な「挿入」になってしまっている。(Mt7:23/Luk22:30/Jh5:25-30)
この点については、聖徒らをキリストが裁く権限を負っているゆえにも『主が来られるまでは,何事も裁いてはなりません』とパウロが勧告しているにも関わらず、その文脈でパウロたち聖徒を裁く*のはキリストではなく神であるとしてしまい、それは文脈を犠牲にしてでも神名を挿入したいという、他のキリスト教の宗派との差別化に血道を上げるという、ものみの塔の素のままの願望を露呈しているとしか言いようがない。
これは『新しい契約』を吟味し、聖徒らを裁くキリストの役割をまったく見落としている。キリストはマタイ18でも、地上で縛りまた解くことが天でも同様に裁可され、その場に臨席していると言われる。また、キリストの「声を聞いて墓から出て」生前の行いが裁かれるのは『新しい契約』にある聖徒だけであり、それ以外の諸世紀の人々は無条件に千年期後に復活を遂げるのであるから、聖徒の一員でもある使徒パウロを吟味するのは、間違いなくキリストであって、『子もまた自分の望む者を生かす』また『父はだれ一人裁かず、裁くことをすべて子にゆだねておられる』とは、天界の神殿を共に構成する聖徒らについて当てはまる。
これを元ユダヤ教徒のギンスブルクも、彼を受け入れたキリスト教会も理解しておらず、ものみの塔もまた、聖徒と『新しい契約』との関係を見抜けていないことをこの箇所で曝してしまっている。

(* マッテアスを含む十二使徒パウロの立場に幾らかの違いがあるかも知れない Lk22:28-30)


・神名を出すことで却って不明瞭になる箇所
『8 わたしたちは,生きるならエホバに対して生き,死ぬならエホバに対して死ぬからです。それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです。9 死んだ者にも生きている者にも主となること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです。』(Rm14:8-)


パウロはその書簡の中で「キリストと共に死に、復活したキリストと共に生きる」という概念を繰り返し述べている。(Rm6:3-11/1Cor15:42-44/2Cor4:7-14/Eph2:1-7)この概念はペテロとヨハネも共有している(Jh6:58/Jh14:19/1Pet1:3-4)
そこでこのローマの14章はこの概念パウロが語っていることは、9節の『このためにキリストは死に,そして生き返った』という言葉に端的に表れている。
また、NWTでも『聖なる者ら』の『命の主要な代理者』とイエスを表現している。それは『彼はみ子であったにもかかわらず,苦しんだ事柄から従順を学ばれました。9 そして,完全にされた後,自分に従う者すべてに対し,永遠の救いに責任を持つ者となられました。』ともある通りではないか。Heb5:8-9
聖徒らの復活は、『第一の復活』であり『彼が,人の子であるからです。28 このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。』(Joh5:27-28)
とあるように生前の行いによってキリストに裁かれる。これに対し『後の復活』は『義者も不義者も』生き返るものであり、裁き手は神自身である。そうであれば、上記ローマ14章の句は、聖徒らのキリストとの命の結びつきを訴えているのであって、その『兄弟』としても格別な関係を述べている。
従って、この前の8節の『主』を神名を入れ替えることは、パウロをはじめとした使徒らに共通する概念を把握していないことを露呈することになる。この部分は「神名が強引に挿入された」痕跡が非常に明瞭に見て取れる。気の毒ではあるが、新約聖書聖書全体への理解不足というべきか。⇒無酵母パンから生じるエクレシア

この部分では旧約との関連も示されていないうえ、9節は明らかにキリストを主としている。
以下は新改訳
『14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。』
⇒この方が非常にパウロらしく、またキリストに続く者としての気概を読み取ることができる。(2Cor5:15/Gal2:20)
所見:ここの前半部は神について「律法を守る」ことを述べ、後半ではキリスト教徒としての一致を含意しているのではないだろうか。ローマ書の読者にはユダヤ人とユダヤ教の背景を持つ人々が多かったことが挨拶文から窺えるので、彼らはこの違いを理解できたし、新旧の契約の対照がここの論点となっている。そこに神名を持ち出すことでパウロ論議を野蛮な仕方で破壊している。




これらを考察して後にこの前の部分を見るとパウロの意図について、律法の日を遵守するか否かについても分かる

Rom14:5-『日を守る者は,それをエホバに対して守ります。また,食べる者は,エホバに対して食べます。その人は神に感謝をささげるからです。そして,食べない者は,エホバに対して食べません。それでもその人は神に感謝をささげます。』

⇒「日を守る」は律法を意味するのであれば、キリストに対してとは言い難いようだが、後半では『それでもその人は神に感謝をささげます。』とあるのが、その前が「エホバ」であると同語を『それでも』と続けて反意に用いていることになってしまう。
YHWH」の御名はモーセを介した律法の与え主としてユダヤ人には千年以上不動のものとして意識されて来ており、この書簡が書かれた時点で神殿祭祀も機能していた。当然ユダヤ系信者の宗教的良心は律法の祭日、安息日新月、その他の履行を続けるところに神への崇敬の念がある。
その一方で、異邦人信者を中心に割礼を受けず、淫行や飲血の慣行以外に律法に規定されないでキリスト教を奉じることが可能であった人々は、ヤコブの『律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになる』との言葉を聴けばユダヤ人とは真逆にとったことになる。それはパウロも『割礼を受けるなら律法のすべてを守る必要がある』と言って、それぞれに異なる立場から同様の発言を行っている。(ヤコブ2’10/ガラテア5’3)
この双方の宗教的良心を相互に尊重するのが当時のキリスト教でなくては存立しなかったところを上記の句は調停として述べている。
『生きるにしても、死ぬにしても主(キリスト)のもの』であれば、ここは、律法に従い日を守る人もキリストに対してそのようにする、日を守らない人もキリストに対してそうしない。両者を結び付けていたのはキリストを介した教えであって、モーセの教えではないのであるから、律法の日付を守ろうとするユダヤ系信徒はキリストの教えに在ってなおそれを守り、異邦人もキリストの教えに在ってそれから解かれていた。
しかし、どちらも『神に感謝を捧げる』とするなら、文章の意味をすっきりと整合させることができる。だが、そこをキリストも神も共に「エホバ」とすると要らぬ混乱を招じ入れるのは余りに明らかではないか。どうして安息日新月、また祭礼などの律法の日付を守らない人が「エホバに対してしない」と言えるか?それでは正面切った反抗のようになってしまい、両者の反目は決定的になるばかりではないか。この箇所からもNWTの目的が「御名の復元」ではなく、他のキリスト教とのヒステリックな差別化にあることが露見している。


一応、この前の部分の新世界訳はこうなっている。
『5 ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい。6 日を守る者は,それをエホバに対して守ります。また,食べる者は,エホバに対して食べます。その人は神に感謝をささげるからです。そして,食べない者は,エホバに対して食べません。それでもその人は神に感謝をささげます。7 事実,わたしたちはだれ一人,ただ自分に関してのみ生きるのではありません。また,だれ一人,ただ自分に関してのみ死ぬのでもありません。5 ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい。6 日を守る者は,それをエホバに対して守ります。また,食べる者は,エホバに対して食べます。その人は神に感謝をささげるからです。そして,食べない者は,エホバに対して食べません。それでもその人は神に感謝をささげます。7 事実,わたしたちはだれ一人,ただ自分に関してのみ生きるのではありません。また,だれ一人,ただ自分に関してのみ死ぬのでもありません。』

聖徒とその主であるキリストとの『新しい契約』を介した関係性というものが置き去りにされ、ユダヤ主義者のようにイエスの役割を認めない文章に仕立ててしまっている。


加えて1Cor4:19『 しかし,エホバが望まれるなら,わたしは間もなくあなた方のところに行きます。そして,思い上がっている人たちのことばではなく,その力を知るようになるでしょう。』
パウロを軽視しがちで分派の起こっていた異邦人の多いコリントスのエクレシアに対して御名を持ち出すとすれば、先行していたアポロらユダヤ人派と異邦人派の派閥争いを煽ることになり兼ねず、これも当時のコリントスの状況と合致しないうえ、ましてユダヤ人らは御名の発音を避けていたのであれば、双方からの反発を招くことになる。
また、使徒言行録でパウロの一行がトロアスからギリシア本土に向かう際に、『アジア[地区]でみ言葉を語ることを聖霊によって禁じられた』としつつ『さらに,ミシアに下るさい,ビチニアに入ろうと努力したが,イエスの霊はそれを許さなかった』と新世界訳も記しているのであれば、コリントスの信者らが自分たちのところにパウロは来ないと踏んでいたところに、神ではなくイエスが向かうよう命じるとすることにより、聖徒全体の主人であるイエス・キリストの役割が合理的に理解される。
しかも、この句に続いて『神の王国はことばにではなく,力にある』と言っている。これは黙示録の最初の三章に示されるように、聖徒に対する裁きの権限を有するキリストの力を述べているのであって、そこまでエホバとするなら、王国の主としてのキリストの権威を無視し、何が何でも支配や権威は神が扱うものだと言うことではユダヤ教的後退になり、しかも、そのユダヤ人派からも御名発音で支持されない愚かな記述をパウロがしていたことになる。
これはもはや支離滅裂なばかりか、キリストの権威を低めており、当時のキリスト教の状況を理解しようとするのではなく、とにかく「使徒らは御名を発音していた」という妄想の実現に躍起になっているだけになったものみの塔の姿を曝している。その動機はキリスト教というものを鋭意理解することを越えてしまい、ものみの塔という宗教団体が神の御前に唯一正統であることを立証しようというところにあろう。



・キュリオスを神名に置き換え実害を誘う句
Eph6:4 『エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい』
まずパウロが律法継続を否定する急先鋒であったこと、また、エフェソス書がはっきりと異邦人対象に書かれている背景を考慮しながらここは読まれる必要があるが、そこで『エホバの懲らしめと精神の規整』とすると非常に律法的印象を与えるが、このキュリオスがイエスであった場合に受ける印象は一変することになる。
即ち、弟子らの悟りの遅さを忍び、失敗を恫喝しない態度を見倣うことを指していることになるが、例えれば新共同訳は『主がしつけ諭されるように、育てなさい』としている。
ペテロは主について『彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁く方に終始ご自分をゆだねました。24 杭の上でわたしたちの罪をご自身の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです。』(1Pet2:23-)と述べているので、上記エフェソスの句の『主』をキリストとするなら脅し付けるような教育を避け、実際的で有益な効果を上げるであろう。
しかし、ここを律法的に理解すれば、鞭打ちなどの刑罰課す旧約の圧制的教育に舞い戻ることを意味する。要求するのは親の強権への従順であり、自律的愛の掟ではなくなる。しかし、ものみの塔の指導部の子供に対する見方は律法支配的で鞭打ちを以前から勧めており、懲罰的またサディスティックであったので、この句の『主』をエホバとすることに躊躇いも無かったか、あるいは、その入れ換えがこの宗派の子供への扱いを過酷なものにしていったとも言えよう。


・場面の実情と整合しない句
『それで今,わたしたちは皆,あなたが話すようにとエホバから命じられているすべての事柄を聞こうとして,神のみ前にいるのです』(Act10:33)
これもひどい、ヤッファでペテロに幻を与え、コルネリウスの家令らが到着した時に『共に行け』と語ったのは主イエスではないか。ここの『主』を神名に入れ替えるのは、文脈がどうかではなく、ただ神名を挿入したいばかりの目論見が露見してしまっている。
また、使徒10:30-43で、コルネリウスがペテロを招いた理由が語られており、コルネリウスに天使が何と語ったかが引用されている。天使の言葉の中では『あなたの祈りは聞き入れられ,あなたの憐れみの施しは神のみ前で覚えられました』と引用し、それは起こった事柄を記した10:4とも一致して神名が用いられていない。つまり、天使は神名を発音していないし、コルネリウスもそうしていない。
だが、新世界訳ではコルネリウスの他の発言の中に「エホバ」とキュリオスを入れ替えているが、これはこの文脈にひとつぽつんと取って付けたように存在していて、しかもまったく不似合である。無割礼の聖所に入ることのない異邦人がどうして神名を唱えたりするだろうか?ましてその場は異邦人の自宅であり、ペテロたちに大いに遠慮しているローマ人がわざわざユダヤ人の反発を煽るような神名発音を試みたりするだろうか?これがペテロの発言の部分であればまだ言い訳もできようが、ペテロの方は遂に神名を挙げずにコルネリウスの家の場面が終わっている。使徒10章で新世界訳が一度だけ神名を用いている箇所であるが、それは蓋然性からすると最悪の場所に挿入されている。どんな理由があってこうなったのだろう?

マニュフィカート(ルカ1章)の中ではまったく矛盾する
『するとマリアはこう言った。「わたしの魂はエホバを大いなるものとし』(1.46)とNWTはしているが、その後でマリア自身は神名の発音を避けて『その方の御名は神聖』と聖霊によって詠っている。(1:49)
ここは聖霊によって語るマリアの言葉にさえ、つまりザドク系祭司の家でも神名の発音を避けていたとすれば、46節のShMの挿入は超自然な発言をも歪曲していることになる。神の神秘をそこまでして良いものか?
『わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主なる神に喜びます』。岩波委員訳


・もう一箇所(ルカ1:77)
バプテスマのヨハネは『エホバのみ前を先立って行く』のだろうか?ここを『主(イエス)のみ前を先立って行く』がどれほど自然に、且つメシアの紹介者としての彼の働きをそこに読み取れることか。
新世界訳もこの部分でマラキ3:1を参照しているが、そこでの『使者』は確かに『わたし』というYHWHの前に道を整えるが、それも『契約の使者』たるイエスを後に迎えるためであり、このマラキではイエスを神は自ら同一視して象徴的に語っているのである。それでも『使者』と呼ばれる者は『契約の使者』の前に登場することがマラキの文章の述べる主眼に置かれている。したがって、ルカの方でだけ現れるギリシア語[προπορεύσῃ]「先立って行く」は直接的には「キリストの前を先立ってゆく」を表しているのであって、マラキの方では『先立って行く』という文言は無く(LXXにも無い)、神の御前に『道を整える』という部分だけについて象徴的に語られているのであるから、ここをわざわざ前後関係とは別にYHWHに変更するよりは、写本の通りに『主』と訳して、神とメシアのいずれにも意味し得るように訳す方が、よほどマラキの象徴表現との調和も精密である上に、素直な理解も促すものとなる。(三位一体説の反動としてここに神名を置く更なる動機があったか?)いずれにせよ、ここでの神名の置き換えの影響は大きなものではなく、却ってマラキとの関連を印象付けることにはなる。しかし、読み手は一瞬ながら意味を心中で読み替え、ヨハネの役割の意義は薄められることになる。



・明らかにYHWHを指す霊感された預言であっても発音、または記録されなかった例
マニュフィカートの中でやはり発音されずに『そして、御名は聖也』[καὶ ἅγιον τὸ ὄνομα αὐτοῦ,]とされている(Lk1:49)
場面はユダの山地にある都市とされる。(ヘブロン?)1:39
そこではこの時代のユダヤ人の御名の扱いの習慣に従っている。
新約の御名を記さない例外のない習慣を度外視しても、もし、マリアがここで神名を発音していたなら「聖なる御名はYHWH」とされたであろうが、語順にその痕跡はない。但し、この文脈には折句のセム語法が指摘されており、マリアがヘブライ語アラム語の中でShMを発音した可能性は0ではない。しかし、そこはユダヤ南部のレヴィ族の都市であったのなら、やはり当時のユダヤ人の習慣からしてそれは極めて低いというべきであろう。当時は大祭司だけが僅かに年に一日に三度それを唱えるばかりであったからである。Nun6:22-27



◆なぜこの箇所でも用いられていないのか
頭書の、リュカオニア人らへの制止や(Act14:8-18)、またアテナイのアレオパゴスの丘での弁明の場面に加え(17:22-31)
・1Th1:9-「偶像から神(ホ スェオス)に転じ、生けるまことの神に奴隷として仕え、また、その御子の天からの現れを待つようになったかを、彼ら自身が語り伝えているからです。その[み子]は[神]が死人の中からよみがえらせた方,すなわちイエスであって,来たらんとする憤りからわたしたちを救い出してくださる方なのです。」
この前の8節にNWTでは「エホバの言葉」(NA27本文"ὁ λόγος τοῦ κυρίου")が在るのだが、如何にも取って付けた印象は拭えない。肝心要の本論のところ『偶像から神(ホ スェオス)に転じ』に是非とも、どこのものであってもヘブライ語還訳に『偶像からエホバに転じ』とShMがあってくれたらどんなに良かったことだろう。NWTの関係者にはここもたいへん残念な事例であろう。しかも、アテナイの市民に向けて『知られていない神』を知らせているパウロが神名を挙げなかったのはなぜだろうか。



・イエス自身が御名の使用を推奨した形跡がない
NWTの中でも引用を除いたイエス自身の発言としてエホバが登場しているのは僅かに3回だけであること。(マルコ5:19/13:20/×2、ルカ20:37×1)
エスは神YHWHについては専ら『父』と呼んで、自らとの関係に多くの注意を向けている。当時のユダヤのShM不発音の習慣をキリスト自身が安息日のように糾弾してはいない。弟子らもそうであり、今日にこの習慣を非難する謂われがない。むしろ、神名の不発音は神の御旨であった可能性も視野に入れるべき理由が生じる。



・[主]であっても明らかに神を指している句
Act2:21 これはヨエルの引用でもあり、どの名が救いに関わるかを述べている以上、YHWH以外にない。
1Cor4:4 (5節との関連) 1Cor3:23はキリストを神を並べているがこれは書簡挨拶文でよく見られる。



・もう一か所
1Cor4:4『わたし自身,責められるようなことは何も意識しないからです。しかしそれによって,わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べる方はエホバなのです。』
この続く5節では『それゆえ,定めの時以前に,つまり主が来られるまでは,何事も裁いてはなりません。[主]は,闇の隠れた事柄を明るみに出し,また心の計り事を明らかにされます。その時,人は各自神からの称賛を受けるのです。』となっているので、『わたしを調べる方はエホバ』であるとすると、定冠詞付きの「来られる『主』」が誰であるのかについて、神かキリストかの問題を誘発している。
5節が述べるように『闇の隠れた事柄を明るみに出し,また心の計り事を明らかにされ』るのが「定めの時に」「来られる」『主』であるのなら、パウロを調べるのはキリストということになる。即ち、『聖なる者』としての資質を問う『主』であり、これは最後の晩餐に於けるキリストの役割と整合する。(Lk22:30)
ここをユダヤ教の背景の強い人物が読む場合、『エホバは心がどうかを見るからだ』というサムエル第一16:11を意識するであろうし、「神以外の誰も罪を許せない」という思考習慣(Mrk2:7)の影響もあろう。しかし、キリストは『人の子が罪を許す権威を地上で持っていることをあなた方が知るために』と奇跡を行われた。(Mt9:6)
これらを勘案すると、本来の写本に出て来ない神名を挿入することで、聖書理解が進むのではなく、どちらであるのかに迷うことになる。

この前の章では、コリントスの聖なる者が、アポロやパウロなどに属して派閥を構成することを非難しており、コリントスの人々がこれをどちらに捉えたかは、ユダヤ的背景を持つか、まったく異邦人的観点を持っていたかで異なったかも知れない。
しかし、この文脈でパウロは『神』の語も用いているので、はっきりさせたかったなら、『わたしを調べる方は神なのです。』と書いたであろう。
この文脈を総合的に判断する場合、パウロを調べる方は『主』キリストである蓋然性の方が相当に高そうに読めるが、明確に断じるまでの理由を持てそうにない。


・この神名を新約に出すか否かに関わり無く悩ましい問題
Rm10:12『ユダヤ人にもギリシア人にも差別はない。すべての者の上に主があり・・』Rm10:12 NWTもShMを記載していない。
定冠詞を伴う『主』[ὁ γὰρ αὐτὸς κύριος πάντων, ]
この『主』は神かキリストか?文脈からはどちらか判然としない。Isa28:16をパウロが直前で引用しており、直後にはJoe2:32を用いているためである。
この問題を「三位一体」の証拠とするなら、思考判断からの逃避以外にない。



・[主]であってイエスを指している誤解され易い句
Act22:12-16 『立って,バプテスマを受け,その名を呼び求めてあなたの罪を洗い去りなさい』。
⇒この場合のパウロの罪とは迫害を行ったことを指し、『その名』つまりイエスの名によるバプテスマを受けることでユダヤ教徒からイエスをメシアとして認める信仰への変化が促されている。〈これはものみの塔も認めている〉



◆総論
総じていえば、ものみの塔による新約聖書へのテトラグラマトンの挿入は「証拠がある」とか「権利がある」とか弁解がましい割に「おそまつ」であることが調べるほどに明らかになってしまう。
この顛末を総括すれば、欧米のキリスト教にどっぷりと浸かっている中で、自派の信者を獲得してゆくために強い差別化を要したであろうから、ものみの塔がかつては信者に「種痘」を禁じ、次いで「輸血」を禁じるようになったように、正統を装うためのヒステリックな差別化の一環として歴史上の実情を無視してまで神名とされる「エホバ」を唱えるだけに留まらず、遂に新約聖書にまで「復元」と称して、新約聖書の奥義に通じてもいない人々の推論の結果を検証せずに取り入れてしまったので、却ってその理解のなさを曝してしまったということであろう。
現に「エホバの証人」と名乗ることをアイデンティティに据え、新約聖書にさえ神名を挿入したことを誇っている以上、これは「1914年臨在説」と同様に、自ら後戻りできない行き止まりの道に邁進していることを表している。
もう幾らか謙虚に「間違いもあるかも知れない」という前提を信者に設けていれば、このような袋小路に自らを追い込むこともなかったであろうが、もう改善は相当に難しいようである。この謙虚さの無さは信者の落ち度ではなく、指導層のミスであり、改善できるとすればやはり指導層の人格と英断にかかっているのであろう。

新約聖書の全体を俯瞰すると、『新しい契約』に属する聖徒らにとっての『仲介者』であり、『命の主要な代理者』即ち『彼と共に死に、彼と共に生きる』ことに於いて聖徒らの浄めの根源(Heb2:11)であるという圧倒的な『主』であるキリスト・イエスの大きさが描かれていることが分かり、且つ、聖徒らが伝えるべき音信はユダヤ教という神に信仰を働かせる宗教ではなく、ナザレ人イエスがメシアとして来られたことを伝えること「福音」により、同じく聖霊注がれる聖徒らを集め出すことにその新たな宗教の意義があったことが明らかである。したがって、そこで神の名に固執することは的外れであり、実際、使徒や直弟子らはユダヤの作法に従って神名ShMの発音はしていないと見るべき多くの根拠がある。

ともあれ、御名が無いと理解が通じないような箇所は新約中に稀であるようだ。新約の書かれた当時の読者らは、『主』と書かれたところで理解できたからこそ筆者らもそう記したのであろう。
そこで今日の読者が理解の便宜のために御名に入れ替えるとすれば、それは本来註釈で済ますべきであり、本文に手を付けるのは余りにも大胆なことである。それは訳し方の範疇を超える改変になる。

それにしても、ギンスブルク等のヘブライ語への還訳聖書に「復元された」という神名の位置はあちこち妙なものが多い。それぞれ根拠は何だろうか? おそらくはキリスト教に通じていない人の手になる「復元」のようである。それを「確かな根拠」という新世界訳やものみの塔は、その確かさを説明しているようには見えず、ただ自分は正しいとしか言い張らない。内部の人々はそれで良いのだろうか?

ものみの塔がこれほどまでに神名を前面に出す理由というのは、何ら聖書に立脚するものでもなく、ただ、自分たちの宗派の差別化と正義の捏造にあるらしい。アメリカのような強くキリスト教で支配された状況で、一つの派が絶対的正統「神の経路」を自称するときに、他の許多の宗派から目立たせる必要があることは理解できる。しかし、そのために新約聖書を操作するとなれば、ユダヤ教を超えるキリスト教の優れた教えを歪めることは避けられず、実際、新約聖書中での『主』をエホバに置き換えるときに、キリストの働きを打ち消している。どれほど三位一体の誤謬を知らせようとしても、これは行き過ぎているし、却って彼らの教理に限界をもたらしている。




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新世界訳を読み込むと、他にもこうした箇所が出てくると思われる。キリスト教界に在って真の神を主張することの非常な難しさからこうした行き過ぎが出たのであれば、そこに幾らかの共感も覚えはする。だが、やはり実態の真相こそが求められねばならない。
以下に見るようにものみの塔の弁明には相当に強引で苦しいものが感じられる。何か押し通すべき別の動機さえ感じられるのだが、それはこの宗教組織の独善性のためではないのだろうか?


・塔の弁明--
「マタイとしては,神の名の含まれている箇所を引用する際,忠実さを示して,ヘブライ語によるその福音書の記述に四文字語<テトラグラマトン>をそのまま含めざるを得なかったでしょう。マタイの福音書ギリシャ語に翻訳されたとき,当時の慣行に従い,四文字語<テトラグラマトン>は訳されずにそのままギリシャ語本文にとどめられました。」
所見:前半はまだしも、後半の論議は「当時の習慣」の写本一枚だけのほかには証拠材料もまるで無いのにここまで断言してしまって本当によいものか。この強引さをもたらす確信はどこからくるのだろう。


・新約期ではユダヤ教との関係でSHMを前面に出すことよりもメシアを知らせることが先決事項であったろう。新約の筆者らは旧約の引用にセプチュアギンタを用いており、ヘブライ語本文に無いニュアンスが時折現れている。(例:イスラエルが海の砂のようであっても・・)従って、新約諸書が書かれた当時のLXXの状況ではShMを筆写できなかった蓋然性の方が遥かに大きい。それにユダヤ人の正義感を伴った習慣が加われば、新約でのShMの記載の無かった蓋然性の方が圧倒的に見える。そして実際の写本がその実態を指し示している。もし、初期キリスト教徒がShMを口にし、また書物に記していたのなら、ユダヤ教徒側とその件での大きな論争になってしまい、イエスの名を知らせるどころではなくなってしまうことは明らかで、それはとても空想することさえ難しい。

ここで起きる疑問は、却って「ものみの塔」がいったいどこをどのようにして新約聖書にShMが存在し、且つ当時の人々がそれを平素から用いていたと主張し始めることが可能だったのか、という事になってくる。19世紀の趨勢では依然として「ヱホバ」を旧約聖書中に用いる習慣があり、これを拡大解釈して新約にも用いるべしとの、事情に疎い単純な発想から、ユダヤ人の還訳聖書から拾い集めてきた、ということなのだろうか?やはり、NWTの註を見ても、ユダヤ人のヘブライ語還訳聖書にどのような意図があるかについて深い考証を加えたようには見えない。却って、キリスト教への優越感を目論む危険性の高いユダヤ教の勢力に力を貸すことにはならないものか?


しかし、終末ではYHWHを知らせる必要性がより大きい。その理由は、キリスト教は既にユダヤ教を凌駕しており世界は充分に御子の名を知ってはいるが、その間に神名が発音を失い、以後三位一体が横行する中で、未だ明かされていないSHMが人類の救いに直結することは新旧の聖書が明らかにするところだからである。但し、その名を示して宣明することは、けっして人間から発するものにはならない。⇒ 「シェム ハメフォラーシュ」http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51837238.html
新約聖書にShMを置こうとすることは真相を「復元」するのではなく、実際の有様が示す神の意向への抵抗となってしまわないだろうか?それは偉大な神の行動指針(経綸)から却って目を逸らさせ、その御名の不可侵性とそこに込められた人類救済の目的に対して、単なる人間が正義感を奮って自らの功名にしようとする余りにも不遜な行為とはならないものだろうか?




・思うに、一冊の「安心できる訳本」を印象付けるよりは、様々な訳や写本の違いを読者がその場で確認できる方が遥かによい。異なる訳文や複数の写本の照合は理解を助けるだけでなく、そこに注意を引き付け、より深く知ることを助けることが多い。NWTにもあちこちに政治的手加減の痕跡があり、そこは気落ちもするのだが、概して理解し易い工夫がいろいろとされてもいる。
多訳参照の便宜の点ではデジタル化が有利であり、既に多くが試みられ日本語環境のものも登場してきている。
古来、オリゲネスらが苦労していたことだが、現代はこれを容易に読者に示すことができる。聖書と読者の間には、できるだけ人間を介在させないに限る。
また、多くの写本や本文のタイプをネット上に公開している人々の寛容さも感謝すべきことであり、これを利用することこそが、その善意に答えることであろう。




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至聖の御名についての「塔」側の裏付け資料の一部と主張

○英国トリニティー大学の学長,J・A・モトヤーは次のように言葉を加えています。「代用語[主や神]の背後にある神ご自身の固有の私的な名を見過ごすと,聖書通読の際に多くを得そこなうことになる。神は,ご自分の民にみ名を告げることにより,ご自身の内奥の特質を民に啓示しようと意図された」―「エールドマンズの聖書ハンドブック」(Eerdmans' Handbook to the Bible),157ページ。<旧約聖書については確かに同意できる>

○インペリアル聖書辞典(The Imperial Bible-Dictionary,第1巻,856ページ)は「神」(エローヒーム)と「エホバ」との違いを説明してこう述べています。「[エホバ]はいずれの場合にも固有名であり,人格を有する神ただおひとりを指す。一方,エローヒームは普通名詞の性格が強く,実際のところ一般には至上者を指すものの,必ずしもそうである必要はなく,一貫してそのように用いられているわけでもない」。<固有名の重要さを解説している>

ギリシャ語聖書から神のみ名の除かれたことが多くの人の思いをいかに混乱させて,イエスとエホバの区別をつかないようにしてしまったかを示しています。疑いなくこのことは,三位一体の教理の発展に大きな影響を及ぼしたことでしょう。<聖書を実際に熟読すると、ここに言うほどの混乱は三一信者だけに起ることである>

ギリシャ語聖書についてはどうでしょうか。聖書翻訳者や研究者たちは,神のみ名がなければ,クリスチャン・ギリシャ語聖書のある部分を正しく理解するのが非常に難しいことに気づくようになりました。<具体例は?脚注で済むのでは>

パウロがここで(Rm10:13)意図していたのは,わたしたちはエホバのみ名を呼び求めなければならないということでした。ですから,わたしたちはイエスを信じなければなりませんが,わたしたちの救いは神のみ名に対する正しい認識と密接に結びついているのです。<これはヨエルのLXXの引用であり、『主』であってもユダヤ教の背景を持つ人の多いローマのエクレシアが誤解することは有り得ない。誤解するのは三一の教会員ばかりであろう>


×(第四世紀)このころまでに,イエスによって予告されていた背教が明確な形を取るようになり,み名は,写本に出ているにもかかわらず,しだいに用いられなくなりました。
<キリストの頃にはセプチュアギンタ抄本からほぼ例外なくShMは消えていた。残っていたのはヘブライ語聖典(旧約)これを「背教」と言うなら、ユダヤは前二世紀からそうしていたことになる>

×クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちがそれ以前のヘブライ語聖書から引用している箇所では,ヘブライ語原文に神のみ名の出ている部分のキュリオスという語を「エホバ」と訳す権利が翻訳者にはあります。
<新約筆者は明らかに当時のLXXから引用しており、そこにShMは無かった。それでも「権利」というのはどういうことか?>

×正当な権威のもとに神のみ名を大胆に復元している翻訳の一つはクリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳です。日本語を初め,現代の11の言語で現在入手できるこの訳は,ヘブライ語聖書中の神のみ名を含む句がギリシャ語聖書に引用されているすべての箇所で神のみ名を復元しています。ギリシャ語聖書のこの翻訳では,確かな根拠に基づいて合計237回み名が出てきます。
<では、その「正当な権威」また「確かな根拠」が何かを示すべきでは>

×聖書中に神のみ名を復元しようとする多くの翻訳者の努力にもかかわらず,み名を消し去ろうとする宗教的圧力も常に存在してきました。ユダヤ人は,み名を聖書にとどめてはいましたが,それを発音しようとしませんでした。西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除き,聖書の翻訳を行なった時にもみ名を省いてしまいました。
<新約の古写本でShMの記されたものは一葉も発見されていない。当時のLXXにもShMが無かった以上、それを「背教」の影響とすることはできない。写本の作者らは当時の趨勢に従っている。また三位一体説がキリスト教界に登場するのは第四世紀からで、ShMを除く内的な動機が生じるのは後の時代のことである>

×彼らはこれら小さな問題につまずき,かえって大きな問題を作り出しています。宇宙で最も偉大な方のお名前をその方の霊感による書物から取り除くという行為によって問題を引き起こしているのです。詩編作者は次のように書きました。「神よ,いつまで敵対者はそしり続けるのですか。敵はあなたのみ名を永久に不敬な仕方で扱うのですか」
<古代の抄本作者らは、ShMを取り除いたのではなく、既に無かったものをそのままに記していたのであり、ユダヤ教の神名の作法がそうさせていたのであって、この断罪は当たらず、却ってものみの塔が信者に自己義認の感情を煽る意図が透けて見える>




所見;
結論から言うと、「三位一体説」と「新世界訳の新約部分の神名の扱い」は両極端であると思える。
どちらも戦闘的な状態にあり、それぞれの陣営の信徒たちは、互いにどちらを採用するかで敵味方の判別しかしないかも知れないが、史実は両者の中間にあったと思う。
ものみの塔側は、敵を作り出すことに専念しているかの観が否めない。それは御名を用いて自己義認の根拠を作ろうという意図ではないのだろうか。
ユダヤ人は御名を消し去ろうとしていたわけではなく、神聖に扱おうとしていたのである。それを消そうと思ったのは三位一体論者であって、ユダヤ人の風習が彼らに利用されたであろう。しかし、旧約からも固有名詞を除こうとするのは、初心者にも明らかな行き過ぎと見做されるような扱いである。

初期キリスト教徒は、神名をはじめユダヤの習慣の幾つかを維持しており、ShMの無発音やシェモートの利用が異邦人教徒にも伝播したのは歴史的に疑う余地はほぼ無い。「塔」はユダヤ人のこの習慣が「迷信」であるとしているが、福音書のキリストもこれを問題視する発言をしていない以上、単なる迷信以上のものであった可能性が高い。もちろんイエスギリシア語では話さなかったであろうから、あるいは神殿祭祀に関われなかったかも知れない収税人らにも、ヘブライ語のままの御名を知らせたことは考えられる。(Joh17:6.26)ただ、それがどのようにしてかは聖書中に確認できない。なぜなら、イエスは神を「父」と呼ぶことがほとんどであったからである。そこにもイエスが「子」であり、神とのイエスの絆が強調されており、神の名がどうこうということは問題外であったろう。

「塔」は躍起になって、自分たちこそが御名の担い手、擁護者であるように書き立てるが、御名を最も気遣うのは神ご自身であられ新約期の御名の状況を許されたのも『専らに我が名を顧みる』と言われる神ご自身であろう。ギリシア語では母音が存在しているゆえに発音が次第に除かれる時代の趨勢が形成されたということが考えられる。もちろん新約の筆者らは聖所の庭に入るユダヤ人であるゆえに神名を知ってはいたが、発音も記載も憚られた、その理由は当時のユダヤの習慣であり、ヨセフスに同じく神聖にして冒し難いものへの畏敬であったろう。それはセプチュアギンタの訳者も神名を例え記しても、音訳を避けたところにも表れている。
そこへやがて「ピピ」と読み間違えることを嫌った。なぜなら神の名は口にすべきものではなかったからであり、それを避けるためか「イアオ」と省略形で記されもした写本もあるが、やがてはっきりと「アドナーイ」に相当する「キュリオス」、または「エル」に相当する「テオス」へと書き換えられていったであろう。したがって、新約聖書文書が記されている時代には、ユダヤ人である初代の弟子らもその慣習の下にあったに違いなく、二百年以上も前からテトラグラマトンの無くなっていたセプチュアギンタから引用し、やはり自身の著作にも御名を如何なる言語でも記してはいなかったと見る方がよほど現実的であろう。御名を記した新約文書の写本は一葉として発見されていないことがこれを強力に裏付けているように見えないだろうか。キリスト教の主要な論点はそこに無かったからである。
関連⇒[「神名YHWHに関する雑考」http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20111021/1319215664]
『神が御名を置く処』であった神殿の破壊はユダヤ人に神名の発音を二度と許さず、地上からそれが引き上げられることを決定的とする出来事であったが、それはメシア拒絶に対する神からの肉のイスラエルへの絶縁状であったろう。初期ユダヤキリスト教徒もユダヤ人と同じく御名への神聖な畏敬を保って発音を避けたであろう。そのゆえに世界は神名を失い「夜」の時代に入ったが、これは当時の関係者にとって避けがたい事態であった。その一方でナザレ人イエスの名は世界で最も知られたものとなっていった。(Rm15:20)この二つの名の広まりと喪失が神慮でなかったとも言い切れない。そして今日、御名の回復は終末の聖霊を待たねばならないように聖書は読める。(Ps102:21/Act2:21/Isa52:6)
また、その発音を証しするのは真実にメシアの兄弟、即ち『聖なる者ら』であることは詩篇とイエス自身の祈りの言葉から明らかであろう。(PS22:22/Jh17:26/Isa52:6)
ただ、殆どが三一派で覆いつくされたジャングルのようなキリスト教界にあって、「塔」が新約中の御名の問題を提出できたところは評価されるべきであろう。旧約に実在する神名と新約の整合性は、どう考えても問題にされるべきであり、神は誰かということを曖昧にして聖書の理解も在り得ない。

新約聖書還訳のすべてがシェムハメフォラシュを記したわけではない
Category:Translators of the New Testament into Hebrew - Wikipedia


新約聖書中での神名の扱い方法の試案
新約聖書においては、旧約(ヘブライ語)の引用箇所に本来ShMがあれば、その「主」の文字を工夫することができる。(新改訳の旧約部分の様に)
但し、引用が第1-2世紀の状況でセプチュアギンタから為されていることに鑑み、旧約のように神聖四文字に相当する扱いはまずできない。それは「ヤハウェ」でも「ヤハ」でも変わらない。
その他の明らかに固有名としての神名が示唆されているようなところ(数少ないとは思うが)には読者を助ける註を設けることで、相当はカヴァーできるのではないだろうか。
これは神の至聖の御名を消そうとするものでなく、神自身が御名を神聖に保たれようとなさった通りの歴然に従おうとするもので、御名は神が自ら宣明される時に至れば、その発音は『シオンから知らされる』ことになろう。(PS:102)(旧約については「YHWH」或いは[יהוה]をそのまま記載してもよいように思える。註として誰も読めぬ事を知らせる。朗読のときは残された音「ヤハ」と読めばよい)


それにしても・・
塔に反論するサイトには、三一派教会の息のかかったようなものが多く、そこには塔と同様の政治的配慮が見え隠れしている。
学術的陳述の部分に正確さを見せた後に、その中立性を踏み越える内容が続いているのを見るのは二重の苦痛である。結局のところ「どちらもどちら」と云うべきだろう。畢竟、要点は「自分が正しい」ということであり、双方とも真相も神意を探ることも捨て置いている
確かに塔の解釈も新世界訳も政治的配慮が為されているところは多い。だからといって、あの組織上層部にそれを間接的ながらそう促しているのもまた教会側の頑迷さではないか。塔の行き過ぎを糺すだけならともかく、そこを通り越して中傷し、なお不確かな自論に誘導しようとすることもまた政治的配慮というよりほかない。
また、塔の説明にはその写本が旧約なのか新約なのかを読者に曖昧に示し誤解を促す節があり、恰も新約の写本にもShMが記されていたかのように出版物の図面が構成されているところは政治色が濃い。これは「ものみの塔」一流の差別化に利用されているようにも見受けられる。彼らは、自分たちが唯一神の是認の下にあると主張しているところで、「エホバ」の発音に拘り、それを周囲が嫌気してますます両者が乖離しつつあるが、却ってそれが狙いなのではないのだろうか?
そうして、それぞれが独断を頑固に言い立てるから、探求者を右往左往させるに違いない。それぞれが人々をそれぞれの選択に任せず、強引に自分の側に付かせようとするばかりで探求者の人格を無視してはいないだろうか。そこに生み出されるのは敵意や憎しみばかりではないか。可能な限りに人を自分の味方にできればそれで良いのだろうか?それが神の名の真相を探ろうとする姿勢にはとても見えない。
背景にあるのは互いの自己義認であろう。自分だけは正しいなどと死すべき人間が言うべきだろうか。まして、これほど聖なる問題において。⇒「神名浄化の至上命題
いずれにせよ、神名の発音は相争う肉なる者の誰にも手の届かないところにある。そのことは却って安堵をさえ抱かせるではないか。 確かに神は『その名を専らに顧み』ていらっしゃる。






・Act3:22

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・最近になってようやくに気付いた点
それはメシアニック・ジューがエホバの証人の新約でのShMを用いる習慣の近親性を狙っているようなところが観察されること。これはいよいよ注意しないと、彼らはものみの塔からの脱落者を吸収しようと待ち構えている節がある。だが、キリスト教の神髄への認識が浅ければ、その危険もある。既に元証人目当てのサイトが長らく存在していたことに驚かされる。(その閲覧者も少なくないらしい)
それというのも、新世界訳が「確かな根拠」と呼んだ新約聖書ヘブライ語還訳版は元々ユダヤ人でキリスト教帰依者に向けたものであり、そこにはキリスト教に対するユダヤ人の優位を印象付けようとの意図が感じられなくもない。NWTを見直して感じられることは、ShMの位置の不自然さで、そこに「復元」した訳者が「新しい契約」の意義についてどう捉えているのか頚を傾げたくなるようなところが散見される。この点で明確なことは、ユダヤ優越を唱えれば、「新しい契約」の理解を進めた「奥義の家令」たるパウロの見事な論議と正面衝突を起こす。即ち、ユダヤ優越主義はキリスト教とは決して両立しない。彼らは「新しい契約」での異邦人の「接木」を「置換神学」と蔑むが、そのこと自体が「新しい契約」の本質的意義である聖霊を注がれた「聖徒」やイエスの例え話の数々を認めない事になる。
これらキリスト教内でユダヤ人の優位を望む人々は、今やメシアニック・ジューという隠然たる勢力に育ってきているのであり、この分子が世界700万のエホバの証人の存続の危機や大量脱落を見込んで、これを取り込もうとしても不思議はなく、証人らが新約に不釣り合いに「ヱホバ」を強調していることが、彼らにとってこの上なく好都合であるに違いない。離脱した証人を装って紛れ込んでもいるように見えることもある。
この21世紀に入ってさえ、古にパウロが戦ったユダヤ優越主義はキリスト教界で息を吹き返し、相当数が世界各地から台頭してくる兆候が見えている。
結局のところ、御名YHWHは無視されるにしても強調されるにしても、それぞれの人々の思惑に塗れたものになってしまってはいないだろうか?そこに最大の論点があって然るべきではないのか?御名は神に属するものではないか?

神名を巡って様々な見解が枝分かれして、そこにはそれぞれの「正義」が主張されている。これがもっとも問題とされるべきのように思える。なぜなら、神については神自身とその啓示を受ける者以外の誰が正しく理解できようか。自論を唱えるのは自由ながら、自分の正義を振り翳すなら、その人は「神を語りつつ、神を超えている」のであり、その人は神名を語るべき謂れを自ら失っていよう。神名までをも使って自分の正義のために利用しようとすることをどうして恐れないのだろう。そのような人が多すぎる。
神の御名をどうこうと云う前に、神ご自身はなぜ御名の発音を残されず、使徒らも記載しなかったのかを考えてみるべきではないのだろうか。もちろん、それは三一を支持することにはならない。却って三一はユダヤ教徒にとってのニサン14日のような「神の罠」に成り兼ねない恐るべき誘惑を孕んでいる。



・⇒ サルキンソンとギンスブルクによる新約聖書のヘブライ語への還訳
 
・⇒ 神名YHWHに関する雑考


結局、ものみの塔の問題は神の御名がどうこうというところにはなく、自分たちの教えが絶対で異論を一切認めない体質にある。その証拠としての差別化に神名が利用されたのであり、その名に対する敬意に思いが向いているとは言い難い。この点では、輸血禁忌や兵役拒否にも同じことが言える。彼らの規律的行動がアダムからの罪には影響するとは言えず、やはり誰であってもキリストの犠牲に拠らなければ人の本質は変化しない。キリストの犠牲の貴さではなく、自分たちの道徳性が『新しい人格』をもたらされた証拠とすれば、それはユダヤ的律法主義に後退してしまっていることになる。彼らの努力に価値があるとすれば、それは『人に対するもの』であり、キリスト前のノアやロトの裁きの次元に留まるもので神の裁定に何ら影響しない。(Job35:7)

ものみの塔は自分たちを「神からの経路である」としてしまったために、誤謬を訂正したり、行いの誤りも改められなくして、自らを縛ってしまった。
その結果、人々の持つ能力を生かすことができなくなり、少数者の誤謬に多くの信者が右往左往する組織を作った。
これは独裁体制に見られる弱点であり、使徒や直弟子の時代の在り方とは大いに異なっている。当時のエクレシアは中央集権的ではなく、聖霊が各地に降り、パウロやペテロばかりかヤコブまでもが分裂することなく極めて次元の高い教えを共有しており、それは使徒ヨハネに於いて絶頂を迎えている。
ペテロは弟子らへの支配欲とは無縁の言葉を残しており、パウロは自らを『最も小さな者』と言っている。ヨハネは自分の考えでも思い付きでも達し得ない聖霊の導きの啓示を語っており、どこにも「統治体」のような絶対的な支配をしようとする者らの姿もない。
そこで、彼らはこの記事のような内容を「背教」と呼び、徹底した無視を信者に命じるのであれば、それは彼らの敗北の隠蔽であり、自らの絶対化の末路がそこにある。人は人の限界を越えられず、皆が同等にアダムの罪はすべての人に有る。それを超越するのは聖霊を真に注がれた人々だけになろう。そのような人を世界は千八百年このかた見ていない。
しかし、聖書は旧約からして終末での御名の高揚が予告されているのであり、それはこの世から神名の発音が去って以降、上からの介入なくして起こり得ない状態となっている。




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