Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

主権という暴力

国家主権は被治者から、徴税や収用として、富者からも貧者からも私財を強奪し得る。
国家主権は被治者に法を施行し、違反者に報復でき、殺害し得る。
(ここまではヤクザと変わらないがさらに超越するのは)
国家主権は被治者を、徴兵し殺人暴行傷害を行うよう強要し得る。
しかも、以上を正当であると被治者に認識させる教育・宣伝を施す権利を持つ。これは一種の洗脳であるが、実際悲惨な戦闘が行われ敗戦する度に、人々は幾らか目覚めかける。しかし、「罪」という倫理上の欠陥のために人は皆、権力の行使から逃れることはできない。
国家主権の及ぶ範囲は、その暴力では排除し得ない別の暴力の範囲が始まるところ(例:国境、戦線)で終わる。つまり国家主権の本質は暴力である。
それでも『万人が万人に敵対する』自然状態よりはましである。被治者はこれを受け入れなければ際限のない暴力の危険に曝される。そのような最高権力を主権と呼ぶが国家、特に民族・言語による絶対王政国家はその必要に対して都合がよかった。(西英仏)

「背後に剣の無い契約など空しい言葉に過ぎない」Hobbs
「国家とは、ある一定の領域内での正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である」weber

国家主権を支えるのは被治者から見た正当性と、国家間の正当性である。何者にも優る強力な暴力の保護なくして人は安全を確保することが難しい。なぜなら人には「罪」があり、互いに対して危険な存在だからである。

但し、主権の暴走が起こるときにそれが全体を害してきたことに、人々は歯止めをかけようとしてきた。これはマグナカルタに象徴的第一歩を見る。(以後、英国では経験則が重視される)
三権分立制は主権の暴走を制御する構造として考案された一例である。その最高位を占めるのが立法権だが、それを制定するために時間が掛かる。ローマでも互いの権力を牽制する制度がもうけられていたが、時を争うような場合のために随時に限定任期の全権者を任命していた。しかし、カエサルが共和政から王政に向かおうとした動機は、おそらく自身の野心であったろう。この全権者の立場を利用した。

また、主権同士の衝突でも大きな害が及ぶことが歴史に明かされ、内政不干渉の原則でこれを乗り切る方便がなされた。これは宗教戦争後のウェストファリア条約に始まりを見る。その結果、宗派の強制は地方政府毎のものとなり、住民は移動することでその強制を逃れることもできた。これはフランス革命後の共和政体の中で遂に公共の無宗教に至り、国家そのものが宗教の干渉を振り払い、信者の移動の必要もなくなってゆく。日本やアメリカであってもフランスほどの公共の無宗教性には依然到達できていない。その一方で、イスラームはそのタウヒード(政祭一致制)の原則に基づくまったくの宗教権力が教えられ、公共もシャーリア(宗教法)によって規制されるものとしている。(実質的にこれを目指すような教えを持つ旧約的なキリスト教も少なくは無い)

権力の本質は暴力にあるが、この権力は在野では家庭をはじめ小規模にどこにでも見られる。以前は学校の教師に権力があり、生徒に暴力を振って支配したが、今日ではこれは不法と見做される。
人を支配する方法には、直接的暴力の他に精神的圧力、経済的圧力、優秀性による権威、また法を利用(悪用)した強制など様々なハラスメントがある。これは主権者ばかりでなく、人は日常これを用いて対人関係を処理している。警察への取り締まりの依頼や法的争いだけでなく、立場を利用した圧力、職場の嫌がらせや、買い物の値段交渉もそのひとつと言える。今日では家族虐待やブラック企業の圧制上司がこれに端的な例として加わる。これらは権力の行使の末端における使用(悪用)と見ることができる。

小学生の学級で尊敬されるのは、暴力で勝るか(権力)優秀性で勝るか(権威)が主である。これらの点で強がる子供には、他の強いものと競争させ比較することで、その威勢(権勢)を削ぐことができる。そうしなければ鼻持ちならない人格を作ってしまい兼ねない。他方で教師や大人の威を借りようとする子供の交渉的有利さや、持ち物の多さで秀でようとする場合にはほとんど尊敬には至らない。ただ、何かの才能がある場合には尊敬とはゆかなくとも有用視はされる。人間はこれほど早くから子供社会の中にあっても上下関係を尊敬心と関係させている。(突出した者を容易に作らないためか?)

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人権というものが認められるために西欧は多年の流血を要した。しかし、これを立証することは簡単ではない。それが倫理の範疇に属するからであろう。
そのため、人権蹂躙の起こっている場所の国家への干渉を度々行っても、そこで内政不干渉を盾に抵抗されることが多い。しかし、元来西欧でのこの原則は、戦闘を回避し、被治者に安全をもたらす目的があった。だが、近年では独裁国家などが主権の暴走の口実として内政不干渉を唱えるという逆説に直面している。
「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」Acton


絶対正義が無いなら、人間は様々な正義を陳列しなければならない。権力に求められるのは正義でありながら、もし人間に正義があれば権力は必要が無い。
「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか」⇒ [ http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51748265.html「罪」に対する対症療法]



即ち、「政治(権力)は宗教(権威)と並んで人類の必要悪である」。Carl?



「神は主権を望むか?」⇒ 「主権者なる主エホバ」という翻訳に関して










人間は国家以上の主権を確立したことがない。(いや、しかけたが失敗させられている)もし、人間の最高主権が登場したなら、その暴走を止めるものは誰もいない。その場合、人を保護するために主権を必要としても、その最高主権が人を保護する働きを果たすか否かは極めて不明確となる。そこでは競争原理が働かず、まったく腐敗しても代替する主権が存在しない。(これは宗教指導者にも起こり得る)



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