Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

オイコノミアの観点

オイコノミアの観点

・「覇権」
諸国の盟約を牛耳る主要な国家の意
牛の耳の血を以って盟約が発効し、牛は地中に埋められる
必ずしも力を行使して覇を唱えるのではなく、ある程度まで成長した国家同士が一定期間の和約を結ぶこと

・世界覇権[hegemony]
軍事力によって、或いは国力によって周辺諸国を従え、世界の趨勢を作る
大国主義、帝国主義植民地主義

新興覇権は現状への不満を懐きやすく、主要な覇権に対抗して登場する。

ヨーロッパ近世史
スペイン オランダ フランス イギリス

オリエント
シュメール アッカド アッシリア バビロニア メディア ペルシア

ヘレニズム
ギリシア マケドニア 四王朝 二王朝 ローマ

ローマ 該当者なし 再建者としてフランク 三王国(仏伊独) 神聖ローマ オスマン朝 ロシア



終了する「定められた期間」が七つの時であれば、それはニムロデ以来の覇権を表しているだろう。

その期間が満了したときの管理(オイコノミア)が七つに分割されることの無いメシアの下の一致であれば、それは「天にある諸政府」までをも一つにまとめるものとなる。つまり、天界においてもサタンの存在のために不一致があり、彼はキリストの兄弟らを日夜訴えているのであろう。彼らはキリスト権威の実現によって地に落とされるが、

それによって創造界の一致の実現は地の問題に集約される事になる。あるいは、天の一致とは聖徒の完全な立方体的一致を意味するのかもしれない。
最後に出現する神の王国によってこれまで続いた「七つの時」、つまり分割され遂に世界統一を成し遂げることを許され無かったサタンを頂点とする支配が終る前、全てを治める機構が現れることになる。但し、それは一国家ではないようながら、それが何かは不明。

他方、神の支配については、それを聖霊の霊感は「支配」とはせず「家政」と呼んでいる。天と地の全てが、これによって一致をみるからであろう。そこでは「支配」のように権力の強制を特色とはしないのであろう。アガペーの原理が推動する世界だろうから。



近世ヨーロッパ史のみをミクロ視すると
覇権の流れはローマ イギリス
対立覇権は英国勃興後を見ることになる











覇権者の目指したものは世界支配であった
相当領域を入手した者はその先に世界支配を観るようになる
これを「制覇の貪欲」を名付ける。そのため内向的エジプトはここから除かれる
ヨハネの言葉によりこれは時代の流れに沿うものであることが示されている。
①シュメール
アッシリア
バビロニア
④ペルシア
ギリシア
⑥ローマ
英米
一時的覇者(モンゴルのような)は在っても一連の流れの中で以上を辿る。いや、一時的覇者こそが「対立覇権」なのかも知れない。
第一の頭は原初史に於いて打ち砕かれている
七つの頭を揃えることは、世界支配の願望の総合であり決算のようなものでは?
十の角と王冠については七頭の獣そのものに属する事であるから、歴史上を追う必要はない。
これらの野望の果てに聖徒らに支配が与えられる。それが世の基が置かれる前からの家政(オイコノミア)であったろう。
ギリシアとローマには特殊な事情がある。ギリシアの対抗覇権は同一の覇権の争奪であり、ローマの対抗覇権としてペルシアも挙げることはできても、ローマの後を襲ったのは「無覇権」であり、ローマ覇権は消滅せずに変容して存続し、今日の西欧から諸国に伝播しつつあり、それは現在も進行中と言える。(これは驚くべき長命)
第八はこれらに属しながらも特殊なもので、自己崇拝と聖徒攻撃と崇拝の停止を専らにするかのようである。しかも、七つに数えられずその終わりはハルマゲドンまでもたない。
支配権の確保は人によらない。それを教えた理由は?


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・「対立覇権」乃至「対抗覇権」なる言葉は存在していないようだ。
覇権主義」と「パワーポリティックス」は、中国が米国のことを指して使用するえん曲表現となっている。
覇権争奪を目指すという意味で「対抗覇権」とい語が明瞭に見える。
対立覇権が正覇権となるか否かには様々な要素が絡んでおり、ひとつの「流れ」のような人間に不可知の事柄が方向を決しているようにも見える。人間からはアレクサンドロスなりナポレオンなりの傑出性に依拠するようにも見えるが、どうもそれだけではない。

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・第八の王
第七から出るが異形であり、非常に大きくなる
第七に属する十王国とは異なり、そのどれよりも大きくなり、涜神の発言を為す。「大仰な発言」は神よりも自己を高め、神を認めず恐れず、人間の限界を踏み越えようとする。


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キリストが現れて語ったのは譬えであった。
弟子らは譬えでなくミュステーリオンを聴いた。
パウロはその家令を務めた。彼は聖徒に奥義が与えられたと述べ、いまやエクレシアを通して神の知恵が知らされる時となったとも言う。
従って、キリスト教の完成、またはキリストの教えが現れたのはイエスの刑死後、それも五旬節を経て徐々にであった。
しかも、いまだ終わっていない。キリストの現れ、また彼の厚保現はその教えを到来させてはいなかった。それはモーセの体制に優る規模のものであり、キリストの三年半の宣教で知らされたことは僅かであった。しかも、まだ犠牲は捧げられず、聖霊も無かったのである。それまでの間、イエス使徒以外には譬えで語り奥義を守った。ユダヤのすべてに公にされるものではなかった。
しかし、聖霊が現れるに及び、その奥義が聖徒に知らされた。しかし、それでもまだすべてではない。したがって、聖書に記された啓示を超える部分が未だ残されており、しかもそれはこの世が存在している間に必要とされる啓示であり、それは「裁き」に関わるものとなるだろう。
第一世紀のイエスの現れによってキリスト教が誕生したわけではない。それは秘められており、ユダヤの拒絶に及んだ。
そこで試されたのはユダヤ人の価値観であろう。メシアを前にして聖書を知り尽くしていながらそれを退けた。彼らにとってミシュナが現れてはいても、やはりモーセがすべてであった。だが、その聖書優越性はイエスの発言によって退けられる。つまり、ユダヤ人の価値観には「奥義」を容れる余地が無かった。
価値観については「真珠」が例えとして語られた。また、豚に真珠を与えてもならないと。そして新しいエルサレムの城門は真珠でできているとは示唆的であり、その外には犬がいる。つまり『異邦人はそこを通らない』






オイコノミアの観点から「七つの時」を見る
それは聖なる者らの要請による
つまり、そのときにネブカドネッザルが覇権を得てはいても
諸覇権の時代は何時か終了し、最も身分の低いメシアにでも神はそれを与えることができることを、彼のの身の上に一度示した。
その後、金銀銅鉄の諸覇権を示したのは彼以後の四つの体制があることを示した。
世界覇権はその以前にも存在しであろうから、総数は四つではないはず。そこで関連付けられるのはダニエルに同じく黙示であるヨハネの黙示の「七人の王」となる。
使徒ヨハネの当時、既に五人が倒れており六人目が存在中であった。それはローマ帝国と見るのが自然である。そのあとに最後の七人目の王が来るが、これを英米と見るもの歴然であろう。
従って、ネブカドネッザルの前に三つがあり、これらが何かを知るのにやはりヨハネがヒントを残している。それが「七つの頭の野獣」であり、そのひとつは屠られていたが、癒されていることである。
これは、この七つの頭を持つ野獣そのものの持つ野望、つまり権力を人類全体に伸張し、世界統一権力の実現を目指したものの神によって断たれたニムロデの野望を示すのだろうか?(権力欲とは本来そのようなものである)
ならば、七の頭を持つ野獣の正体とは世界統一権力のようなものを表すのだろうか?
そこでヨハネは同意を与える。
『人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」』この「戦い得ようか」との言葉からこれが権力を表すことは間違いなく、しかも、それまでにないほどに強力なものであることが分かる。
だが、ひとつの政権でこれほどの軍力を持つことは、文明的にフラット化してきている今日には、どんなイノヴェーションがあったとしても難しいであろう。
そこで考えられるのは、諸国の軍事部門の結集である。
この点でヨハネは、第八の王についてこう述べている。
『 昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。』ここにはっきりと第八の王の特殊性が見えている。
つまり、第八のものがかつて存在した野獣であると述べている。その滅びが強調され、しかも、この野獣の滅んだあとに、それに属していたであろう十人の王らが生きながらえるのは、この軍事部門の糾合が崩壊してしまうからである。ヨハネの云う『第二の子羊のような獣』が第一の獣のすべての権威を行使するのは、七頭の野獣がもはや存在しないからである。しかもそれはダニエルによれば『人手』によるものとはならない。即ち、ダニエル11章の終わりで現れるセナケリブの対型であろう。
セナケリブがYHWHに対して大仰に語ったように、シオン攻撃においてそれは天の神に逆らう。
この野獣は『北の王』によって据えられるが、急速に消滅した後におそらくは『南の王』である米国を中心とした勢力によって、その精神が評価され、消え去った野獣に似たものが作られる。それがなんであるのかはまだ十分には見えてこないが、それは『像』であり、崇拝が強要されるところからすれば偶像である。
野獣は消滅する前に成し遂げていたことがふたつ挙げられている。ひとつは聖徒を滅ぼすことであり、もうひとつは『大いなるバビロン』を滅ぼしたことである。その余勢を駆ってシオンに攻撃を挑むが、これはセナケリブと同じ結末をかりとることになる。
その時点では、旧来の宗教は存在しておらず、一方で脱落聖徒は地に取り残されている。聖霊は聖徒と共に地を去り、『抑制力となっているものは除かれた』そのとき恐るべき背教が究極的偶像を造り上げる。それが『野獣の像』であろうか?おそらくそのようである。
そこで、最終的で究極的な偶像崇拝が現れる。その偶像が『野獣の像』であるのは、世界主権への挑戦であるからであろう。それはその偶像とされる中心人物がいるからであり、それは脱落した元聖徒のひとりで、北の王から背教に誘われていた何者かであろう。彼はユダ・イスカリオテに同じく『滅びの子』と呼ばれる『不法の人』であり、倫理性をまったく備えていない、彼は脱落聖徒を集めて偽預言者となし、自分をキリストであると称し、象徴的に神の神殿に座し、自分を神として示す。即ち『不法の人』である。
彼こそは超古代のニムロデの対型であり、人類をひとつの主権の下に集めようと欲し、成し遂げかけてところで、創造神YHWHはそれを許すことなく介入し、言語が分散されたことにより、主権は人類の上にずっと分かたれている。その後も世界覇権も世界主権とはなり得なかった。それは常に分かたれてきたのであり、龍と野獣の頭が七つに分割されているのはこれを表していよう。
したがって、野獣の屠られたかのようになっていたひとつの頭とは、その第一のものであり、世界主権の野望を懐きながら神の一撃によって閉ざされ、七つに分割されたと言い得る。
したがって、七つの頭をもつ野獣とは、再び世界主権を目指す野望の再現であり、本来神の立てる王キリストと聖徒による『神の王国』が、聖霊による聖徒の現れと奇跡の業と言葉によって宣明されるとき、サタンは天での立場を失って地上に堕ち、そこで一度はシオンを攻撃するが失敗したところで、北の王を中心にこの軍事力の集約が行われて聖徒に反対し続けて三時半に及びこれを滅ぼす。その後三日半の後残った聖徒は天への召集を受けるが、忠節でなかった聖徒らは地上に残されていまう。それは聖なる者の裁きであり、彼らは王キリストの顕現で、『不法の人』共々滅ぼされてしまうであろう。
しかし、それまでの間は、野獣の像の崇拝において祭司のように振る舞い、神の神殿の聖所を不法の人と共に汚す。
「これを見たなら、山に逃れよ」とは、イエスを亡き者としたエルサレムがその世代の内に滅ぼされたように、神の神殿だと吹聴されても『不法の人』の崇拝に関わってはならず、そこから出てしまうべき火急の必要を訴えているのであろう。つまり、そのようなアンチ(代替)キリストの崇拝はサタンの偽りの総仕上げであり、その誘惑に対してはエデンの園での中傷が重複されたこの世での最後の中傷者による試みとなるからである。それはあらゆる代替物と提出してくるのであろう。若返りや永遠の生命、世界政府による貧困の撲滅や自然への包括的対処など、神の意図を無視した善への最終的な偽物の提示なのであろう。そこで脱落聖徒らはカエルまで奇跡を行って見せるだろうが、騙されてはいけない。
これらの龍、第二の野獣、偽預言者は悪霊の霊感を受けてハルマゲドンに最終的で最も巨大な軍を招集する。その攻撃目標は聖霊の言葉に信仰を持った人々でなるシオンである。
そして、いよいよシオンに逃げ場のない危難の臨むとき、遂に神はシオンで王を戴冠させ、号令を下し、その王は赤馬、黒馬、青馬とハデスを率いてシオンを救うべく神のシャファトを執行する。
人類連合はハルマゲドンで完敗し、山(政権)も丘(自治)も崩壊し、世界はカオスに投げ込まれ、経済活動、貿易、流通が停止、世の人々はその後の予想に気を失うほどになる。その一方でシオンは守られ、この人々が地に出るとき、屍を見る。それらはハモナと呼ばれる象徴的大穴に廃棄される。

この観方は、『七つの時』にもスポットを当てる。
七つの時とは、世界覇権の連なりを表し、最後は最も身分の低かったキリストとその仲間である聖徒が世界支配を受けるということであり、ダヴィデ王朝を倒したネブカドネッザルが如何に壮麗なバビロンを誇ろうとも、それは必ず成し遂げられるということを彼と聖書を読む後の世の人々に伝える目的があり、必ず七つという限界に達したときに、ニムロデに許さなかった世界主権を神は御子と聖徒に与えるということを彼の身の上の奇跡として示したのである。
したがって、「七つの時」とは年代を計算する性質ものではなく、世の支配がどれほど奢り高ぶろうとも、それが際限なく続くことは無いということを悟り、最終的に必ず最も立場の低い者にさえ神は権力を握らせるということに信仰を働かせるべきものであった。
それはネブカドネッザルが見た夢の中の巨大な像にしても同じである。

七つのうちのネブカドネッザルの以前の三つとは
第一にニムロデのシュメールがあり、おそらく第二のものはアッシリアであろう。そして第三にネブカドネッザル自身のバビロニアがあって以降は④ペルシア⑤ギリシア⑥ローマ⑦英米 となろう。
十本の角は、第七の時代に起こることであり、十全な地上の軍事力を指すのであろうから、王朝の二重性などを考慮する必要はない。




これらを説明するとなると、どんなに長い文章となることだろうか!

「七つの時」「七つの頭を持つ野獣」「七つの頭をもつ赤い龍」














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