Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

神名YHWHに関する雑考

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旧約諸書に見る通り、神名の機能は多岐にわたり、イスラエルの重要局面で関連付けられている。

特に重要な機会は一民族との関わりを深めた律法契約の締結であり、それまで『全能の神』『至高の神』また『父祖の神』として族長らに現れていた神は、明解に固有名を示し、律法授与の権威者となった。
固有名はホレブに於いてモーセに初めて明示され、以後律法の保護の下に置かれた。*
契約当事者としての神名の明示は殊更に重きを成している。

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アメンホテプ 3 世(紀元前 1402 年 - 1363 年)の時代のエジプト語の碑文にある" Shasu of Yhw " (エジプト語: 𓇌𓉔𓍯𓅱 yhwꜣw ) という語句に彼の名前が最も古い可能性がある<< 
https://en.wikipedia.org/wiki/Yahweh#cite_note-FOOTNOTEFreedmanO'ConnorRinggren1986520-30


神名はモーセの以前には伝えられていなかったと神自身が言明している。
創世記などのそれ以前の歴史部分にシェムが登場しているのは、少なくともヤハウェストを含めた編纂が王朝時代以降に行われているためであろう
実際、ソフェリームによる書き直しとされるハ テクネは創世記にも存在している。
加えて、士師のヨシュアとヨケベトにヤハの音があることを根拠にホレブの柴の件の前からYHWHが発音されていたことの根拠にする識者もいるのだが
まず、ヨシュアの元の名がホシュアであったことを民数記13章が二回述べているので、モーセが自分に近い者をヤハにちなんで呼んでいたことが分かる。
そこでヨケベトはモーセの母親であることを考慮すれば、やはりホレブ後に初めて神名が示された蓋然性がある。
モーセは神名YHWHについてレヴィ族から民の間での浸透を図り、以後ヤハの音を名に含むよう促したことが推測される。


但し、神名の神聖は人に汚されるべきものではなく終末での著しい清めについて預言され、また、神自身も自らの名の神聖を守るために度々行動している。
これには「神を神とする」という命題が関わってもおり、人類の益にも関わる事柄であろう。

それゆえ、神名は単なる名称というだけではなく、神の属性ばかりか謂わば「法的」な(神としての)正当性が関わっており、しかもこれは係争中である。

しかし、それは「主権」の証明ということではなく、より次元の高いものであるようだ。
むしろ、それはあらゆる権威を消滅させるための、最終的には「法的」な手段をも超越するための究極目的を持っているように思われる。即ち、神が創造の唯一神であるということの明示のための名乗りと言える。それは主権がどうとか、被崇拝権がどうという事を超え、事の真相が関わっている。そこで『真理』とは、この神名と不可分の関係にあるとも言える。


メシアが近づく時代からLXXにおいて神名YHWHが次第に「キュリオス」に置換されたことについては様々な要因が存在する。

ひとつには、ギリシア語をネイティヴにした人々に読めず、かといって沈黙するに堪えなかった。また、pipiと恐ろしく間違った発音されるのをユダヤ人が到底受け入れなかったことは容易に想像がつく。セプチュアギンタで僅かに省略形の音訳を施した形跡があるが、これは初期の写本に僅かに見出される。

その以前、ユダヤ中央の宗教領袖たちが神殿を「御名を置く処」と見做し、他所での発音を禁じ始め、これにパリサイ派の敬虔を競うような主義が同調してしまうであろうことは福音書の描く彼らの姿勢をを見るに、然もありなむと思えるところ。異邦人を聖所から締め出していたので、イスラエルの中庭でだけ発音を聞く機会が年に一日だけあった。
そこで、神名の発音が聖域以外で禁じられる習慣の確立と、上記LXX中でのシェムのシェモートへの置き換えが進んだ時期とには関係があると見てまず間違いないと思われる。
ごく古いLXXにのみテトラグラマトンが僅かに存在しているところは、前三世紀から前二世紀というヘレニズム文化の進む間に聖域外での発音を禁じる動きがあったと見るのは的外れではないであろう。
ユダヤ民族から神名への閉鎖性が高まった背景には、民族の交流が深まりヘレニズムがユダヤに脅威となる中で、ズーゴートからタナイームへとモーセ教の純粋性への擁護と契約の民としての優越性を担保する目的の内に、差別化が進んだとしても不自然ではない。彼らはモーセそのものがレヴィ記第六章で述べるヨム・キプルでのイスラエル男子の前で大祭司が神名を三回口にするのを妨げることまではできなかったが、イスラエルの中庭以外での発音を一切禁じることで、異邦の異教徒らからの軽蔑から神名を守ること、また、イスラエルの中庭に入る男子だけがその名を知ることでの差別化も図れたであろう。

その間にマケドニアの二つの王朝に挟まれ、ユダヤは激しく揉まれ、特にセレウコス朝のエピファネスからの干渉は前167年12月7日に崇拝そのものを停止させている。そこにハスモン家というレヴィ王朝が前167年から抵抗運動を始め、その王朝は前140年に成立し、約七十年に及んでいる。その以前ハスモン家は前166年から指揮を執ったイェフダの下に神殿を奪還し、前164年のキスレウ25日に神殿の再献納を行って以後、これがハヌカーとなっている。従って常供の犠牲が絶えたのは三年間になる。神名についてはこの時代以前からLXXから記載されなくなっており「主」[κυπρος]に置き換えられている。従って翻訳聖書から言えば、外地から神名の置き換えが推進されていることは明らかに見える。聖域内に発音を限定する作法については、正確にいつから始まったのかを断言するのは難しいが、ハスモン家治世中の可能性が高いように個人的には思える。それ以後に設定すること、例えればヘロデ神殿建立後は、ミシュナーの存在とハスモン家の衰退からしてかなり無理があるし、あまりにも遅すぎる。

このユダヤ王国は、近隣へのユダヤ教への改宗を強制する征服を行っており、イドマヤがユダヤ教を信奉するようになり、サマリアは前129年にYHWH神殿を破壊され、その後には首都を焼かれている。ユダヤ人の強圧的な宗教政策は王朝がレヴィ族であったところに推進される理由があった。
特にサマリアエルサレム神殿の祭祀を認めなかったために、ゲリツィム神殿跡地での崇拝を続けていたため、ユダヤ人のサマリア人蔑視は猛烈なものとなっていた。その件と神名が聖域に限られた習慣の成立とに関係があるものと見える。なぜなら、ユダヤ宗教体制はサマリア人の聖域への入場を認めなかったからであり、世代が進むに従い、サマリアを含めた諸国民の口からシェムが聞かれることがなくなってゆく必然があった。
従って、捕囚以前の古代イスラエルで日常によく聞かれた神名も、メシアの時代には神殿外で発音することは「恐ろしいこと」になっており、ヨセフスもそのように描写している箇所がある。

ミシュナーでは、贖罪の日に関して「神殿の中庭に立つ祭司たちや民は大祭司の口から発せられて言い表わされたみ名を聞くと、ひざまずいてから身を伏し『その王国の栄光の御名が定めない時にまで褒め称えられますように』と言うのであった」。(ヨマー6:2)
は祭司が日ごとに述べる祝福の言葉について「彼らは神殿ではみ名を書かれている通りに発音したが、地方では代わりの言葉で発音した」。(ソーター7:6)⇒「ソーター篇
冒涜した者も『み名を発音したのでない限り』有罪とはならず、また冒涜の罪が関係する裁判では、証拠がすべて審理されるまで代わりの名が使われ、その後主な証人が神の名を用いて『自分の聞いた事柄をはっきりと言う』よう個人的に求められた。(サンヘドリン7:5)
「来たるべき世に何の分も持っていない」者たちを列挙しアッバ・シャウルはこう言う「また、み名をその正しい文字で発音する者も」(サンヘドリン10:1)
但し、タンナーの活躍時期は大ヒレルの生涯からすると前50年以降であり、ミシュナー編纂期には既に神名に関する作法は出来上がっていた。

しかるに、メシア自身が弟子に「神名を知らせた」と言うことは、当時のユダヤ社会では画期的であった。だが、その場面を新約聖書に確認できないので公での発音は控えたに違いない。イエスは専ら神を『父』と呼んでいる。そこで「神名を知らせた」と言うことはおそらくは収税人や娼婦のように聖域への入場を拒絶された人々に個人的に神名を教えたということを指すものと思われる。
また、イエスが会堂でイザヤを読んだときに御名を発音していれば、そのために紛糾したであろうが、ユダヤ人の反感はイエスが「今日、成就している」と付け加えて語ったところにあった。
それに先立つ、母マリアのマニュフィカートの中でも、『御名は神聖』とされており、霊感による発言であった場面でもShMは発音されていない。これはルカが発音を控えて記したという可能性も無くはない。

神名について今日の指導者が、イエスの教えた神名とは「神の属性」のことだと教えて済まそうとしても、それは旧約の厚い歴史に存在するSHMの重みをあまりに軽視したことになる。
メシアの弟子たちも神名を発音を知らなかったとしたら、ヤコブがわざわざ「御名のための民」と呼んだり、「御名が讃えられるように」と祈ることも空念仏となっていたであろう。ヤコブの神殿への崇敬には一方ならぬものがあり、それゆえにも彼は「義人」(ツァデーク)と周囲のユダヤ教徒から見做されていた。ヤコブ書ではやはり発音は記されておらず、これらを勘案すると「新約聖書は神名を含んでいた」との主張は荒唐無稽の域に達するものとなる。

主の祈りについては、「王国」や「神の旨」の施行に先んじて第一に挙げられており、実に「神が神となる」ことはエデン以来の争論の帰結であり、メシアが最も熱心に擁護した「父」の神性であろう。

それはサタンによって、自ら「神」となり真の神に対抗されたからには、固有名は、議論の余地無く重要で欠く事のできないものである。

異神のひとつが「全能の」あるいは「創造の」神を僭称することがあったとしても、SHMについてはYHWHがこれを「誰にもこの栄光を与えない」と断言して保証を与えている。

したがって、全能者が自らの名の発音を地上の人の間に保存できなかったわけはなく、今日発音が失われたのには余程の事情があってのことであろう。

すなわち、律法契約下での聖性の保護の条項が契約の破棄によって実効を失うこと、そして、キリストの教えそのものも、異邦人の所有と化してしまい、蹂躙される「夜」の到来に備えて、ユダヤ人の間の習慣が許容なり流用なりされ、地上のどこからも正規の発音を引き上げた、と見ることは否定しきれるものではあるまい。

もちろん、「新しい契約」の当事者が聖霊を受けている間は、専ら彼らによって発音はされたことであろう。
しかし、初代教徒が歴史の舞台から去った後、契約の当事者が居なくなり、律法契約以前のように、神名を聖性の保護もなしに人類に与える必要が無くなったと結論できるように思われる。

であるから、神の全能性は、名を保存することではなく、名を地上から引き上げることにおいて発揮されたと見ることができるのではないか。
発音ができなければ、少なくとも口汚くののしることは不可能である。
また、その発音できない名に慣れて漫然としてしまうことがなく、現在も余分に注意が払われることになり、将来再現されるときには鮮烈な印象を与えるに違いない。


もちろん、原初史において神名を「崇める?」行為が始まったとはあるのだが、その事柄についての良し悪しを聖書は語っておらず、これについては何とも明瞭ではない。あるいは、人間のその行為は神の悦納するところではなかったのかもしれず、その蓋然性は小さくないようにも思える。


初代キリスト教徒が去ったあと、やがてキリスト教の担い手は異邦人となり、同時に聖霊の賜物が失われていったであろう。
それに同時進行していたのが、ギリシア語を中心とする教理の進展であり、ユダヤ人からの執拗な攻撃は異邦人キリスト教徒をますます反ユダヤ的にした形跡は歴史文書に克明に刻まれており、彼らがキリスト教をますますユダヤから切り離し、自分たちの受け入れやすい教理や習慣を盛り込ませる影響を与えたこともまた否定しようもない。

そうなると、キリスト教は異邦人の宗教として(世界教というよりはグレコローマン型が強引に広げられ)再出発したようなところがあり、その過程でアブラハム以来の流れが断ち切られている。

クレメンスalxは、著書で神名を[Ιαουε](イアウーエ)であるとしているが、これはチュービンゲンのG.エーラー博士の提唱した「ヤハウェ」に近い。しかし、このような使徒後教父期の暴露は他にも例がある。しかし、音は必ずしも一致しておらず、この時期のヘレニズム人士らの思想的背景を考慮すると更に信用は少なくなる。
あるいは、この第二世紀の時期になるとユダヤ人の中でも神名の発音が不明となってゆく過程にあって、分裂し始めていたことが異邦人の暴露の不一致の原因とも考えられる。

ともあれ、新約聖書写本に神名が現れないことは非常に示唆的であり、その著者がヘブライ人であって異邦人ではなかったこと、また神名に問題で一度もユダヤ人同士の争論になった場面が無いことからすると、神名が後退しメシア名が表に顕れてきたことは神慮であった蓋然性を感じさせる。

さて、神名の発音喪失の背景として、キリスト教時代に入ってからの背景にあるものがもうひとつ挙げられる。
異邦人キリスト教徒のユダヤ嫌悪は初期において激しく、確かにユダヤ人のキリスト教攻撃は陰湿で卑怯なことろがあったように資料は証す。それゆえユダヤと神を同じくせず別の宗教にできることがあるなら、異邦人キリスト教徒は大いに歓迎したであろう。つまりキリスト教の神をユダヤ教の神とは替えることである。「幸いにして」神名の発音は不明である。更にギリシア語やラテン語で教理を展開すれば、彼らに先輩面される必要もない。実際、ローマ国教化に伴ってユダヤ人は帝国での特権を失い「主殺し」の下手人ともされてゆく。時代は異邦人キリスト教を要請していたようだ。

様々なユダヤの習慣は否定されてゆき、その過程では当時の所謂「メシアニック・ジュー」にすら、その持てるユダヤ的習慣の放棄を異邦人が迫ったという。こうして、崇拝の中心たる誇り高き「エルサレム」はまさに異邦人の蹂躙を受けたといえる。
ユダヤ的とされた小アジアキリスト教が周囲から排撃されたとき、この地方は依然、神名を有していた可能性があるだろう)

この不和に中で、神名がどう扱われたかについては、双方ともに無頓着であったと言ってよいようだ。
ユダヤ教徒にとっては崇め奉り過ぎて発音できなくなり、異邦人キリスト教徒の方はユダヤ教徒のせいもあってユダヤの神に馴染めず、結局はこの神に近づかなかった。彼らは自分たちに親しみ深いメシアの方を神に選んだ。

そうしてどちらも創造の全能神の名の発音を失い、神名の持つ重要性の意味も曖昧になり、以後キリスト教界は古代イスラエルと同様に「バアル(主)の名を以って」神の名を忘れ始めたといえよう。双方の道は違えども、この点だけは共通している。
つまりは、キリスト教ユダヤ教も、自らの宗教に専ら専心し、神には無関心を示してきたということであろう。



しかし、全能の神が名を再び示すことができないはずがなく、しないはずもない。その重い意味を伴って人間に再び啓示する日が来るだろう。
即ち、聖霊を通じてキリスト教が再興される日には、これが明かされないわけはない。

なぜなら「新しい契約」の当事者の現われに伴い(それが契約である以上)固有名を明かさない理由がない。加えて創造神という「神を神とするか」という根本的裁きの問いは、固有名なくして識別できず、意味を成さないからである。

現在、発音を我々が知らない、否!知らされていない大きな理由のひとつは、だれも契約の当事者が居ないからであり、裁きのときではないからであろう。

今、もし知らされれば、人々はその名を無用に汚さずにはいないに違いなく、それは我々罪深い人類がよくよく知っていることではないか。

しかし、将来の裁きのときに神名を汚そうとする者が出ることは、そのまま裁きとなるゆえに、むしろ自由な、しかし確信的選択において許されるだろう。それは「エデンの問い」と不可分の関係を持つからである。

その裁きのときに、神名の冒涜があっても、それは数年以内で終わるように黙示録とダニエルは読める。
逆に言えば、今後、人類が神名を知らされたなら、裁きまで然程の猶予は無いということになるだろう。


⇒「シェム ハ メフォラーシュ」http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51837238.html


⇒「新約での神名の扱い」http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20140416/1397642099

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聖書に出てくるすべての名について同じようなことが言えます。わたしたちはそれらの名を自分たちの言語で発音し,もともとの発音をまねようとはしません。例えば,“イルメヤフ”とは言わずに「エレミヤ」と言います。同様に,預言者イザヤは当時おそらく“エシャヤフ”という名で知られていたものと思われますが,わたしたちは彼のことをイザヤと呼びます。これらの人の名のもともとの発音を知っている学者たちでさえ,彼らのことを話す際には古代の発音ではなく,現代の発音を用います。
そして,これと同じことがエホバのみ名にも言えます。たとえ,現代のエホバという発音が厳密にはもともとの発音どおりではないにしても,それは決して神のみ名の重要性を損なうものではありません。

「神のみ名」p11 その意味と発音 「ものみの塔」協会 ⇒ 「新世界訳での神名の扱い

ヤハウェを提唱したチュービンゲン大学エーラー博士の見解

グスタフ・フリードリヒ・エーラー教授はほとんど同様の理由で同じ判断をしています。同教授は様々な発音について論じ,結論としてこう述べました。「ここからのち,わたしはエホバという語を使う。なぜなら,事実上,この名は今では我々の語彙の中でいっそう国語化されており,他の語に代えることができないからである」―「旧約聖書の神学」(Theologie des Alten Testaments),第2版,1882年発行,143ページ。

正確な著書名は ”Prolegomena zur Theologie des Alten Testaments” 1845 より詳しくは 

ものみの塔では元の発音が知られている事と、知られずに代替されていることが混同され、その正当化に神名の重要性を挙げているが、この論理でゆくと何らかの発音を何であれ当てはめるなら、その名を用いていることになる。しかも、その名が終末の救いに関わるにも関わらずであるからには、けっして重要視しているとは言い難い。
「何であれ、とにかく発音するのだ」と言っているのだから、ならば、なぜ省略形で残されている「ヤハ」を用いようとはしないのか?
この発想の根拠はJehovahの流行した19世紀までに留まっているが、信者の手前変えられなくなってしまったように見えるが・・


ヤハウェスト資料
資料仮説が登場する18世紀以前から、トマス・ホッブスのような人々により、モーセ五書の中にモーセ以後に書かれた内容が含まれていることが指摘されていた。
また創世記12:6では、書かれた当時にはカナン人が居なくなっていることを記しており、創世記の完成がかなり後代であることを指し示していることにも気づく人々が出てきていたが、迫害され、スピノザはそのために同朋から殺害されるところまで圧迫されたが何とか免れた。(彼は「人は人を生むのであり民族を生むわけではない」と言っている)

ヤハウェスト資料は神の固有名YHWHを含んで、神を普通名詞のエロヒームと呼ぶエロヒスト資料と共にモーセ五書からヨシュア記にかけて今日の旧約本文を手掛けていると考えられている。

私見では、ヴィルヘルム・デ・ヴェッテ (Wilhelm de Wette) が1805年に提唱したという、「どの資料もダビデ王の時代以前には遡らない」という説について、同意する箇所を挙げられる。それはモリヤの山を『YHWHの山で備えられるであろう』また『YHWH イルエ』と呼ぶ習慣は、ダヴィデがアラウナの脱穀場を買い取るまでなかったと結論できるからである。

モーセへの神の現れの中で、エジプトという異教国家の、それも多神教の中に居るイスラエル民族に全能の神も固有名を名乗る必要性が高まっていたと捉えることは合理的であり、族長時代には氏族の神という扱いでエル・シャッダイでもエル・エルヨーンでも差支えまなかったろうし、ハガルはエル・ロイと呼んでいる。これが後には変化し、ファラオの前にモーセとアロンが立つときに、神名を唱えない不都合はエジプトの宗教事情にとって大きなものとなったろう。
それはモーセYHWHの御名を知らせる直前まで『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と繰り返している点も見逃せない。その後、「モーセの神」「ヨシュアの神」と続けてゆく不都合は明らかであろう。しかも、エジプト人からはその神名を尋ねられることは必定であったろう。
十の災いによって御名は高められる結果となっており、それもモーセ以降に御名YHWHが知らされた時期的整合性がある。

一方で、モーセ以前に神名YHWHが語られていたかは、慎重に言って不明であり、おそらくは知らされていなかったと思われる。まだ神自らが名乗っていなかったからである。
創世記にヤハウェスト資料とされる部分が在って御名が記されている理由は、後代の人物の敬虔さによるものであろう。そう類推させるものに「ハ ティクネ」がタナハ内に散在していることが挙げられる。

そうであれば、モーセ五書とあるいはヨシュア記を含んでの文書の相当量は、モーセの時代からの文書や伝承を再構成したものであり、旧約の古い諸書が初めから編集されることなく現在の形に綴じられているとは言い難い。それは旧約に散見される書名で、今日では発見も同定もできないものがあるところにも見えている。

敷衍して、原初史もセツの息子エノシュについて『YHWHの名を呼び始めたのはこの頃のことである』との一文は、これがヤハウェストに含まれることからすれば、ラビらの言うようにそれは冒涜としてであったという見解も考えられる。だが、ラビらはモーセの祭祀を高めようとの意図からそう言う誘因を持っている。
この句について考えられることは、原資料が『(全能の神)としての名を呼び始めた』という内容であったか、あるいは創世記編者であるヤハウェストの敬虔さ余っての『名』にYHWHを付け加えたということも「ハ ティクネ」の例からすれば十分に考えられる。
この『(神)の名を呼び始めた』という言い回しは、列王記や歴代誌略の善王らにも用いられているかと言えばそうではない。そこでやはり創世記の原初史では、俗的な流行としての神の名を唱えたことの痕跡である可能性が高く、YHWHが発音されていたと考えるにはモーセ五書の前後関係や、アブラハムら族長について『わたしは常にアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル シャッダイ)として現れたが、わたしの名YHWHについては知らせなかった』という神ご自身の言葉は決定的にその辺りの事情を明かしている。出エジプト記6:2の


人間は、自分自身の存在という不思議を抱えていきており、アダムから離れる世代になると、神の現実性が薄らいでいたことは間違いがなく、また、アダムの堕罪と自分たちに顕現されようとしない神への『罪』を負ったままでの気ままな崇拝心が起っていたであろうことは、今日の諸宗教、特にご利益信仰に逸れたキリスト教界に見て取れる。
カインとアベルは既に犠牲を介して神に向き合う行為を行っているのであるから、早くもアダムから三代目にして、今日に見られるような人間本意の宗教というものの興りを創世記は述べている蓋然性もあろう。




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