Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ハ ティクネ

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マソリームの警告する18箇所の改竄
ソフェリームはタナハ筆写に際し、自己の敬虔さから判断し、神への不敬を恐れた箇所を自発的に書き換えている。
これは、九世紀以降にマソラと称するユダヤ学者らによって指摘されているが、改竄以前の古い写本が稀で、多くの翻訳聖書ではそのままにされている。
(日本語の主要な翻訳も同様、以下では例として新改訳[上段]と比較)



01.Gen; 18:22
「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムまだ、【主】の前に立っていた。」
「ここでその人々はそこから向きを転じてソドムの方へ進んで行った。しかしYHWHなおもアブラハムの前に立っていた。」
(神が人の前に立つことが不敬と思われた為)

02.Nub; 11:15
「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」
「もしわたしにこのようになさるのでしたら、どうか、わたしを殺してしまってください。もしあなたの目に恵みを得ているのでしたら、自分の災いを見ないですむようにさせてください」(命令文にも読める)

03.Nub; 12:12
「どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」
「どうか彼女を死んだ者のように、わたし共の母の胎を出た時にその肉を半ば食い取られた者のようにはしておかないでください」
(アロンと大祭司の権威のため)

04.1Sam; 3:13
わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
それでお前は、わたしが彼の知っている咎の為に定めのない時までもその家を裁こうとしていることを彼に告げなければならない。その息子たちが神の上に災いを呼び求めているのに彼はこれを叱らなかったからである。

05.2Sam;16:12
たぶん、【主】は私の心をご覧になり、【主】は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」
おそらくYHWHはその目で見て、YHWHはこの日の彼の呪いのことばの代わりに、わたしにまさしく善いことを返してくださるだろう」。

06.2Sam; 20:1
たまたまそこに、よこしまな者で、名をシェバという者がいた。彼はベニヤミン人ビクリの子であった。彼は角笛を吹き鳴らして言った。「ダビデには、われわれのための割り当て地がない。エッサイの子には、われわれのためのゆずりの地がない。イスラエルよ。おのおの自分の天幕に帰れ。」
たまたまそこに、どうしようもない(ベリアル)男で、名をシェバという者がいた。ベニヤミン人ビクリの子であった。彼は角笛を吹き鳴らしてこう言いだした。「我々はダビデに分け前を持ってはおらず、エッサイの子に相続分を持ってはいない。イスラエルよ、各自自分の神々のもとに帰れ」

07.1Kng;12:16
イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見て取った。民は王に答えて言った。「ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう。エッサイの子には、ゆずりの地がない。イスラエルよ。あなたの天幕に帰れ。ダビデよ。今、あなたの家を見よ。」こうして、イスラエルは自分たちの天幕へ帰って行った。
イスラエルは王が彼らの言うことを聴き入れなかったのを見ると、民は王に返答してこう言った。「我々はダビデにどんな分け前を持っているだろう。また,エッサイの子に相続分はない。イスラエルよ、あなたの神々のもとに帰れ。ダビデよ、今、自分の家に注意せよ!」 こうして、イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。


08.2Chr;10:16
イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見て取った。民は王に答えた。「ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう。エッサイの子には、ゆずりの地がない。イスラエルよ。おのおのあなたの天幕に帰れ。ダビデよ。今、あなたの家を見よ。」こうして、全イスラエルは自分たちの天幕へ帰って行った。
イスラエルについていえば、王が彼ら[の言うこと]を聴き入れなかったので、民は王に返答してこう言った。「我々はダビデにどんな分け前を持っているだろう。また、エッサイの子に相続物はない。イスラエルよ、各々あなたの神々のもとに帰れ。 ダビデよ、今、自分の家に注意せよ」。こうして、全イスラエルはその天幕に帰って行った。


09.Job; 7:20
私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。
私が罪をおかしたのでしたら、人間を見守る方よ、私はあなたに対して何を成し遂げられるでしょう。 どうして、あなたは私をご自分の的として立て、私があなたにとって重荷となるようにされたのでしょうか。

10.Job; 32:3
彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。
また、その三人の友に対しても彼の怒りは燃え盛った。これは、彼らが答えを見いださず、かえって神を邪悪な者としたからである。


11.PS; 106:20
こうして彼らは彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた。
彼らはわたしの栄光を, 草木を食べるものである雄牛をかたどったものと取り替えました

12.Jer; 2:11
かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。
国民が神々を,神でもない者と取り替えたことがあろうか。ところが,わたしの民はわたしの栄光を,何の益をももたらすことのできないものと取り替えてしまった。

13.Lam; 3:20
私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む
あなたの魂は必ず思い起こしてくださり,わたしの上にかがみます(注視するために前のめりになる)。

14.Ezk; 8:17
彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。
彼らはこの地を暴虐で満たし,わたしをまたも怒らせなければならないのか。彼らはわたしの鼻に向かって若枝を突き出しているのだ。

15.Hos; 4:7
わたしは彼らの栄光を恥に変える。
わたしの栄光を彼らはただの不名誉と引き換えにした。

16.Hab; 1:12
「【主】よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。【主】よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。」
YHWHよ。あなたは遠い昔からおられる方ではありませんか。わたしの神、わたしの聖なる方、あなたは死ぬことがありません。YHWHよ、あなたは裁きのためにそれを置かれました。岩なる方よ、戒めるためにそれの基を据えられたのです。」
(神に死の言葉を用いた為[三位一体を擁護するために変えられた])
17.Zek; 2:8
あなたがたにさわる者は、彼の目の玉にさわるのであるから(口語)
あなた方に触れる者はわたしの目の玉に触れているのである。

18.Mlc; 1:13
あなたがたはまた、『見よ。なんとうるさいことか』と言って、それを軽蔑する。
しかもあなた方は,『見よ,何とうみ疲れることか』と言って,わたしを鼻であしらうようにさせた。



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マソリームは以上のようにソフェリームによる改竄を指摘する。
しかし、これらの指摘以前の段階で五書を中心に、書き換えが為された他にも危険性は拭えない。
この件については、古い写本が必ずしもより正確であるとも云えないようだ。聖書そのものの由来が余りにも古いために、その歴史のどこで写本に何が起こったかを正しく説明することは誰にもできない。それどころか聖書が現在の形をとった由来をユダヤ人を含め人類は知らない。現代までのどこかからユダヤ人も古い単語が何を指しているのかが分からなくなった語が旧約に散在しており、それに加えて、母音をどう適用するかで意味が変わり、どちらでも意味が通じる箇所も存在している。
最古の死海写本も前二世紀を遡らないとのことであれば、セプチュアギンタに更なる意味の正当性が有るということがあり得る。BHSが万能でもなく、余りに語句に拘るのは却ってよからぬ方向に進んでしまうということも起こり兼ねない。

但し、ユダヤ人はヘブライ語本文に手を付けるのは畏れ多いと思う反面で、願望から「できること」は行ってきた。上記のソフェリームの「敬虔ゆえの」書き換えなど、それに比べればまだ純心な方であり、古代ソフェリームの書き換えを指摘した中世マソリームは、キリスト教に反対するために、本文にニクードを付けるついでに「できること」を行い、句読点を不自然な場所に意図的に置いた。
このように「神の言葉を託された」ユダヤ人であっても不純な願望がまるで働かなかったわけではない。殊に、セプチュアギンタという、「ある程度自由が効く」場では、愛国主義が高揚し、実際にユダヤが独立を果たしていった前2〜1世紀に、あからさまにハスモン朝やアンティオコス・エピファネスに退けられた大祭司オニアスがメシアであったかのように改変することがセプチュアギンタの抄本の上で流行したようだ。

同様に、中世キリスト教からの無慈悲な迫害に面したマソリームにとっても、エシュアをメシアと認めないように改変することは抑えがたい願望であったことであろう。だが、やはり神の観点を保たなければ神を崇敬していることにはならない。幸いにヘブライ語本文の方で、それ以前の趣旨を確認することができる。
結論として、誰にせよ、「より正しい」文章を提出してきたとしても、常に一歩引いて熟考検討されなくてはならず。従来のものはそのまま保存しておく必要がある。上記の「ハ ティクネ」についてもマソリームの根拠が検証される必要もあることだろう。

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筆者上の誤りとされているほかの箇所
Jos21:24&25 『ガト・リモン』は二回繰り返し書かれて『イブレアム』に訂正されなかったであろうとされている。2Chr6:70

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ソフェリームは、理由の分からない空白を設けることがあり、マソリームはそれをピスカー・エムツァ・パスークと呼んだ。
タナハ中に28か所、あるいは35か所あるという。
例えれば「カインは兄弟アベルに語った〇」の後に空白「○」があるという。そこに失われた文言があるとも

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イェヒディームはトーラーの原理と意図から導かれたのではない独自の注解を持っている。
・・様々な理由を以て、それを超える解説は大衆のためでないので、そこには知る者と知らざる者との区別が生じる。
哲学者にはこれらの言葉を真実なものとすることに関してより大きな完全性がある。ただし、哲学者はこれらについて文字にせよ口頭にせよ一切解説しない義務がある。(エリヤ・デルメディゴ「ブヒナット・ハダト」9)

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この他の書き換えがあったと考えられる箇所
Lev24:15-16の「ハ シェム」は元々YHWHが在ったのではないかと言われる。理由は「あしざまに言われる」という箇所から御名YHWHを除くことに自己の義を見たのであろうという。同様の例がヨマー3にあるという。












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