Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

新しい契約へのエレミヤの宣告

・新しい契約についてのエレミヤの宣告-


その心をかけてわたしに近寄ろうとするその者は誰か
彼らは泣きながら来る、私はその嘆願と共に彼らを連れてくる
わたしは彼を近付かせ、彼は必ずわたしに近付く
わたしは正しい道によって彼らを水のある谷へと導く、イスラエルにとってわたしは父となったからである
わたしはあなたらの神となり、あなたらはわたしの民となる
わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる
その内に私の律法を置き、その心に書き記す
わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を思い出さない
彼らは皆わたしを知るので「YHWHを知れ」とは言わない

その威光ある者は必ず彼らから出て、彼の中から彼の支配者が出る

いま、わたしはヤコブの天幕の囚われ人を集め、その天幕に憐れみを示す

彼らはその神YHWHとわたしが起こすダヴィデとに必ず仕える
ヤコブは必ず帰り、これを慄かせる者は居なくなる。


あなたは自分のために道標を立てよ
心を街道に、通るべき道に留めよ
イスラエルの処女よ帰れ
イスラエルの処女よ、わたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される
『義なる住処よ、聖なる山よ、YHWHがあなたを祝福されるように』


エフライムの山々の見張りらが「諸人よ、さあシオンに、我らの神YHWHの許に上って行こう」という日が来る
悦びつつ、ヤコブに向かって叫べ、賛美を広めて言え、「YHWHよ、あなたの民イスラエルの残りの者をお救いください」と
わたしの祭司たちの魂を肥えたもので飽かせ、わたしの民は佳いもので満ち足りる
彼らから、感謝と笑う声が必ず出る


見よ、YHWHの陣風、憤怒、進み出る嵐があり、邪悪な者らの上に渦巻く、YHWHの燃える怒りは、その想いを遂げるまで引き下がらない、あなた方は末の日にこれを心に留める


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集められる者らには悔悛がある
それを神は受け入れられる
彼らから威光ある者である聖徒が現れる
彼らは回復された聖なる状態に戻され
その「罪」は問われない
それは律法条項を不要とし「愛の掟」に集約される
彼らは「YHWH」の発音を含めて味わい知り広く賛美する
彼らはその帰還の道に思いを留め
その帰還を諸国民は喜びつつ神を讃える
しかし、この者らを虐げた諸国民には復讐が臨む

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YHWHは言われる、その日その時、イスラエルの民とユダの民は共に帰ってくる。彼らは嘆きながら帰ってくる。そしてその神、YHWHを求める。
彼らは顔をシオンに向けて、その道を問い、『さあ、われわれは、永遠に忘れられることのない契約を結んでYHWHに連なろう』と言う。

YHWHは言われる、その日その時には、イスラエルの咎を捜しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく者らを赦すからである。


あなたを知らない国民と、あなたの名をとなえない人々にあなたの怒りを注いでください。彼らはヤコブを食い尽しこれを食い尽して滅ぼし、そのすみかを荒したからです。

耳を傾けて聞け。高ぶるな。YHWHが語られたからだ。
あなたがたの神YHWHに栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗闇とされる。


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・神はなぜ苦悪の時を長く待たせたか?
この世の苦悪の理由を支配がうまくゆくか否かの実証だとするとサタンばかりか神にまで過酷な性質を与えてしまう。それでは地獄を作った神と然程変わらない。
現状の「この世」は支配の方法云々が問題でこうなっているわけではない。神を無視し、創造の意図から逸脱しているのである。
神が時を待つ理由は、神に属するところであり、神が明らかにされない以上はその答えは「待つべきもの」なのであろう。
もし、幾らか推測できることがあるとするなら、それはすべての魂の出揃うこと、そして裁きの結果として『地に満ちる人口』が定まるとしたら、これは究極的倫理問題となり、我々人間の口を出せるようなものでは無さそうである。
いずれにせよ、我々個人の苦衷が如何ばかりであれ、その一生で必ず終わる。人類はそうして苦悪を文字通り「分担」してきた。さもなければ、穴のあいた桶に水を満たせと命じられたその女、また、坂の上に丸い大石を何度も運ぶあの巨人のようになりはしないか。
また、人はその貪欲や強情など「罪」の害悪によって疎まれ排斥され尽くす前に舞台を去ることで、誰かしらに恩恵さえもたらしてもいるかも知れない。
そして完全な生命のために魂は神の御許に取り置かれている。あとは本人次第ではないか?
(突然に意識を失った経験ある者には、その甘さが分かるであろう。意識が去るに従い痛みと苦しみが消え眠りに落ちる瞬間のような晴れやかな感覚に迎え入れられる。これも神の恵みのひとつのように思える。イエスもこの感覚を味わったのだろうか。そこに地獄などはない。神は御子の人としての死を通して最大の栄誉を受けられた。如何に死そのものは敵であっても、この世にあっては死の安らかないこいは恵みともなり得る。なぜなら、それほど「この世」とは時に過酷だから、そして永遠になど生きるに値しないのではないか?我々というよりは、難儀の多いうえに争い続ける「この世」の方が。確かにサタンは過酷な現状に人間を誘ったが、神はそこでせめてもの安らぎを人に与えてこられたとは言えないだろうか。『YHWH与えYHWH取り給う。YHWHの御名は誉むべき哉』これは単なる言葉に留まらない)







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