Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

何某の教理

新約聖書には,神殿や秘密の儀式については何も述べられておらず,神の国に立ち返るために必要な″合図″や″握手″や″合言葉″に関しても,言及は全くない.
むしろキリストは,「わたしは世に向かって公然と話しました.わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で,いつも教えたのです.隠れて話したことは何もありません」と言われたし(ヨハネ18:20)
また,「隠れているもので,あらわにならぬものはなく,秘密にされているもので,知られず,また現われないものはありません」と教えておられるのである(ルカ8:17)
初代のクリスチャンたちが神殿を建てたり,秘密の儀式を行ったり,先祖の系図を探求したりしたという記録は,新約聖書にも教会史にも皆無である.従って,モルモン教の″福音″は明らかに,″回復された福音″ではなく,″新しい福音″なのである.
使徒パウロは,そのような「ほかの福音」に注意するように教会を戒めており,それを伝える者はのろわれるべきである,とはっきり述べている(ガラテヤ1:6‐9)

それは教義のと聖書の矛盾を末日聖徒が説明できてからの話であろう。たとえばあなたが証人になってもらうが、これを聖書を用いて反論できるだろうか。
伝統キリスト教は信じることで救われる信仰義認は聖書では揺るぎのものであり、モルモンのように律法、行いによる救い(律法主義)は異端ということでは共通している。


「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行ないがともなわなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブの手紙2:14)

 モルモンはこのヤコブの手紙を「救いの条件として行ないがなければならない」と、解釈してしまい、知恵の言葉や什分の一の律法を持ちだして、徹底的な律法主義に走っている。  
モルモン教義の特徴は、律法を守り続けなければ、救われるという確証が得られないところにある。今の時点では救われるかどうかは確信がないのである。
「神は、私たちが行った義のわざによってでなく、ご自分のあわれみゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救って下さいました」(テトス3:5)

要するに「教派の聖書解釈の違い」と「異端」の違いは、前者は聖書(行間の解釈を含めて)に反するとまではいえないだけの神学は有している。しかし後者は聖書との矛盾を説明できないということである。

「戒めを守ることが自己努力主体であることから、安易に偽善に走る教会員がいる一方、何もかも抱え込んで罪意識で心を病み脱会する教会員が少なくないという批判が反モルモン側から提出されている」というこの箇所は、正統派とされる一般のキリスト教宗派でも報告されているものであり、モルモン特有の問題ではなく、キリスト教という心的内面を重視する規範性のない宗教自体の問題としての認識も必要であろう。

他教会の腐敗ぶりを指摘し末日聖徒の正当性をアピールしている。
プロテスタントでは牧師が祈ってしまうので信徒は自分で祈れる人がいない。神父牧師は神と信徒の間に権威者として入ってしまうので直接の関係を保てるのはモルモンだけである」など




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Novum Quartodecinum

イェヒディームはトーラーの原理と意図から導かれたのではない独自の注解を持っている。
・・様々な理由を以て、それを超える解説は大衆のためでないので、そこには知る者と知らざる者との区別が生じる。
哲学者にはこれらの言葉を真実なものとすることに関してより大きな完全性がある。ただし、哲学者はこれらについて文字にせよ口頭にせよ一切解説しない義務がある。(エリヤ・デルメディゴ「ブヒナット・ハダト」9)

「人間は服従のみによっても救済される」⇒理性的に証明されないが、「道徳的確実性」(certitudo moralis)によって受容され得る。Spinosa 150




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