Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

またひとつ別の教理体系では

引用-------------(省略在り)


・わたしたちの成長期に両親がしたように,神は最も大切なこと,安全であるための方法にわたしたちが注意を向け続けるよう,戒めを与えておられます。
神の導きはすべてわたしたちの安全を図り,わたしたちがいつも神の近くにいるよう助け,最終的に いっそうの 自由と幸福を与えることを目指しています。
神の戒めは制限を与えるための規則ではなく,わたしたちを危害から守り,より正しい生活へ向かわせる神の導きです。

・これらすべての「行うことと行わないこと」の中心にあるのが,神とわたしたちの周囲の人々を愛することに集中することであると,イエス・キリストはこれら数行の言葉で教えておられます。

・わたしたちはしばしば祈るように命じられています。神と語れば語るほど,直面する諸問題について神の導きが与えられるからです。これは,戒めのもたらす祝福がそれを守るのに必要な努力に比べてどれほど大きなものであるかをよく示しています。

・聖文を研究するようにという戒めは,しばしば祈るようにという戒めによく似ています。聖文は神の御心を知るのに役立つため,神はわたしたちに,神の言葉を読んでほしいと思っておられます。わたしたちは神の御心に従うことにいつも大きな関心を寄せています。聖文には,神が預言者たちを通じて神の子供たちに啓示してこられた事柄が記されています。

・日曜日,すなわち安息日は,神を礼拝し,日々の務めを休むときです。神は6日間で地球を創造された後,7日目を分けて安息と記念の日とされました。わたしたちは日曜日に友人や家族と一緒に時間を過ごし,病気の人や一人暮らしの人を訪問し,聖文の研究に特別な時間を割き,また教会へ行くことができます。教会で歌い,祈り,ほかの会員たちと福音について話し合います。また,救い主を記念して聖餐を受けます。

バプテスマと確認の儀式は,イエス・キリストの御名を進んで引き受けること,すなわちクリスチャンになり,常にそれにふさわしく生活するように最善を尽くすことを示す一つの方法です。まず,わたしたちは,神からの権能を持っている人によって水に沈められ,水から引き上げられることによってバプテスマを受けます。この行為は,イエス・キリストの死と埋葬と復活を象徴しており,またわたしたちが以前の生活に終わりを告げ,イエス・キリストの弟子としての新しい生活を始めることを表しています。バプテスマを受けた後,権能を持つ人がわたしたちの頭に手を置き,聖霊の賜物を受ける権利を授け,また末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に確認します。

・わたしたちは,今日もわたしたちを導くために神が預言者を召しておられると信じています。ジョセフ・スミスは教会の現在の神権時代,すなわちこの時代に召された最初の預言者でした。それ以降,地上に預言者が置かれてきました。今日,神に代わって語るために,また神の教会を導くために召されている人の名前は,トーマス・S・モンソンです。神は預言者に従う者たちが「神の王国を受け継ぐ者」となることを約束しておられます

・最もよく知られている神の規範である十戒は,モーセに与えられたときと同様に今日にも適用されます。

・神はわたしたちに清い思いを抱き,慎みのある服装,言葉,行動を求めておられます( マタイ5:27−28 )。わたしたちはまた,ポルノグラフィーを見ること,同性愛の関係に入ることを避けなければなりません。純潔の律法の原則は,末日聖徒イエス・キリスト教会を世と切り離しています。ほかの人々にとっては厳しいと思われるかもしれません。しかし,この戒めに従うことによって平安,自尊心,自制の大いなる祝福が与えられます

・自分の体に配慮する最も優れた方法について,神はわたしたちに導きを与えてくださるとわたしたちは信じています。神は1833年に知恵の言葉と呼ばれる健康の律法をジョセフ・スミスに啓示されました。知恵の言葉はアルコール,コーヒー,お茶を飲むこと,たばこを吸うことを禁じています。不法な薬物の使用や処方薬の乱用を避けることも含まれています。

・わたしたちは主から祝福されたものの一部をお返しすることによって,地上における主の業に貢献します。什分の一を納めることは,この地上における神の業のために使えるように,収入の10分の1を教会にささげることです。それは苦難ではないかと思う人もいるでしょうが,そうではありません。それは祝福です。昔から神は,什分の一の律法を守るようその民に求めておられます。

・断食し,信仰をもって祈るとき,わたしたちはいっそう謙遜になり,神の愛を感じやすくなり,御心を理解しやすくなることに気づきます。断食はまた体の欲望を自ら進んで抑え,それが可能であることを明らかにします。そのような強さを必要とする試練を受けたときに立ち向かう力となります。末日聖徒イエス・キリスト教会は毎月の第一日曜日を,会員たちに断食を求める日としています。

・わたしたちは住んでいる国の法律に従うべきことを信じています( 信仰箇条1:12 )。モルモンは善良な市民となり,政府と政治プロセスに参加し,積極的で,社会意識を持つ市民として地域社会に奉仕するよう勧められています。

・神はわたしたちが神の導きに盲従すること,あるいは罰を恐れるあまり従うことを望んでおられません。自由意思に基づき知性を使って従うことを望んでおられます。戒めがほんとうに神から与えられ,わたしたちの生活をいっそう幸せにするものであることについて,自分の証すなわち信念が必要です。この証を得るために信仰を働かせなければなりません。心からの望みを持ち,これらのことを知るために必要な努力を進んで払うのです。



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所見:
安息日十戒などの扱いに見られるように、律法契約と新しい契約の異なりがはっきりしていないところは、19世紀のアメリカンテイストの芬々と香る折衷的キリスト教というべきか。つまり、聖書以外の経典を持ち出した割には独創性に大きく欠ける。「クリスチャン」の語で信者が専ら語られ、聖徒と信徒の区別もないようであるから、新しい契約と聖霊の関連も明瞭ではないのであろう。
道徳観念や雰囲気についてはセヴンスデイアドヴェンティストやジェホヴァズウイットネスに非常に近く、サイトの様子からすると錯覚するほどであり、主張はそれぞれ違えども、信仰者の一定の道徳性の保持、禁忌摂取物の存在、規則遵守、組織中央への恭順、伝道活動の強調、元信者への忌避など、本質的行動は極めて近似しており、同じ時代のエピステーメーであったことが窺える。

つまり、19世紀当時のピューリタンWASPの一般庶民が受け容れ易い教えであったので、その後の隆盛を見たといってよいであろう。その共通点は「どうすれば救われるか」という英語の"How to"ものに原型があるようだ。それぞれの派によって、幾らかずつその方法が異なるばかりのことだけで、それぞれの信者の関心の在り処は見事に一致しており、主人公は間違いなく神ではなく自分である。

また、指導的立場にある人を重視し、その人間臭い判断に人々を合わせようとするところも19世紀アメリカで起こったこれらの教派に共通するところで、当時のその強い傾向が依然として尾を引いているかのように見受けられる。やはりアメリカ人はヒーロー好きなのだろうか。
人はどこかしらで規則に縛られて安心したいところがあるようだ。この人々は「戒め」がたいそうお気に入りのようであるが、それも「罪」意識の為せる業なのであろう。その性向なくしてこれらの宗派は成り立たなかったのではないだろうか。ストイックなピューリタンの土壌も作用したのであろう。結果として19世紀の一般的な道徳者を今日的に仕立て上げ、それで神の是認なり幸福な生活なりが達成されると教えるところはやはりご利益信仰と呼ぶべきだろう。このロマンテイックな人間主義には、神意が眼中に無いかのように観察される。
だが、この教派の過去は問わないにせよ、この手際良くまとめられたページには書かれていないことがあった。それはこの教えの究極目的で、それは到底聖書との関連も認めることができず、キリスト教であるとも思えないほどのものである。







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Νικηφόρος Κάλλιστος Ξανθόπουλος
18巻に610のエピソードあり
但し、大半はエウセビオスソクラテス、スコラティクス、ソゾメノス、テオドレトス、エヴァングリオスに依拠する。
そこから911年のレオⅥ世まで彼の仕事は延長された。
その内容は迷信的なところが多いが、彼だけが伝えているエピソードも残っており、その希少さが彼の仕事の価値を保った。
一部の学者は、彼の仕事は10世紀の無名筆者のものの焼き直しに過ぎないとも主張する。
東の皇帝とコンスタンティノープルのエピスコポスのリストは彼によって伝えられた。


Νικηφόρος Γρηγορᾶς c. 1295-1360
ビザンティンの高位僧職者とは別人
















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