Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

信仰の型

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アブラハムは神の約束によってイサクを受けたが、その独り子をさえ神に差し出すことを厭わない信仰をしめした。それでも彼は約束の地を「足の幅ほども受けなかった」。彼は寄留者として約束の地に天幕生活を続けた。それでも、神の約束に深い価値を見出し、それを信仰した。彼はウルに戻ろうと思えばできたが、神が基を据える都市を遥かな将来に見てそれを心から望んだ。それは後の「神の王国」聖なるエルサレムであった。


モーセはファラオの娘の子と呼ばれるよりは、奴隷の民のひとりとなることを望んだ。その結果、宮廷の生活を後にしてシナイの砂漠で遊牧生活を営んだ。ここでも、その価値観は実生活よりも重要なものを見出していた。齢八十で満ち足りて世を去ろうという歳になってから苦労の絶えない、民を導く役割を受け入れた。彼はイスラエルの将来と自らのような預言者を望み見つつモアブの荒野で果て、墓も存在していない。


・エリヤは異教の横行する民の中にあってひとりYHWHを擁護しその名を担った。不信仰な民からの身に迫る危険の中で神との交友を通して支えられ、多くの奇跡を行ってさえ廉潔な生涯を送った。


・イエスは経済的に裕福でない、いや貧しい大工の家庭に生まれた。
質素な身なりと生活は、当時の宗教指導者らと対照を成すものであった。イエスにとっては「父を尊ぶ」ことが主要な関心事であった。その従順の頂点は自らの刑死を以って犠牲の死を遂げることであった。


使徒たちは、与えられた使命を果たし、聖霊をもってキリストの業を続行し、教えを広めるために活動し、多大の労苦を忍んだ後に、ほとんどは遠方の布教の旅先で迫害に遭い殉教している。


・聖徒らも使徒に準じて聖霊の賜物を用いて活動し、多くが過酷な迫害に耐え、残酷な処刑を甘んじて受けている。彼らの信仰がこうして「世を征服する」力となった。彼らは受けた聖なる召しと「新しい契約」による過分の寵愛に相応しく生きようと努め、死に至るまで主イエスに従った。彼らの信仰は、天でキリストと共に神殿を構成する成員となるところにあった。それこそはアブラハムの遠く遥かに望み見た事柄であった。



さて、これらのうち誰が、より良い生活を願ったろうか。
その関心は自分が神の是認や救いを得て「人生で成功する」ことにあったろうか。

そうではない。
彼らの共通点は神のなさろうとする事柄に価値を見出し、それに協働しようとしたところにある。その主役は神であって、自分が間違いの無い所謂「幸福な」生涯を送るか否かは当面の問題外であった。
そこで彼らは全人類の罪を除き、神の祝福の下に復帰させるという壮大な事業(経綸)に沿って働くことを願った。
その関心は神と人に向けられた大志にあった。
この点、今日のキリスト教は何と道を踏み外していることか。これら古代の人々が「自分がどうすれば救われるか」やら「何をすれば成功できるか」など考えていたろうか。
古代の人々は自分の救いや成功を願って生きたわけではない。それよりも遥かに価値のあるものを見出し、それに邁進したのである。
それは「楽園」となった地上で暮らすというような目標でもない。一見社会善を追求するかに見えるそれであっても、やはり人間中心の願望であり、事の本質を捉えた見方ではない。本質は創造物の全体が神に復帰し、こうして神の業が成し遂げられることにある。人類の幸福さえ、神が神となることに比べればまったく些細なことである。
真なる信仰を抱くなら、人に益があるから神に仕えるわけではない。神が神であることは何ものにも勝って第一でなければならない。そうでなければ創造界に倫理の基礎が据えられることはけっして無いからである。神が神で無ければ創造物は正しく存在する意義を持たない。この本質を捉えられないのであれば、それは利己的な精神を宿すご利益信仰であり、それこそはサタンが勧める実を食らうことになろう。
アブラハムの型に沿って信仰する者は恐れる必要はない。その道は必ず成し遂げられる神の意志たる悠久の経綸と共にあるからである。

神は自存者であられ、何事もできないことがない。しかし、ひとたび罪に陥った人類を救済する方法をとる場合には御子の犠牲を、そして現状の創造界を改善する場合には独り子の忠節の証しを必要とした。それらは共に倫理に関わる事柄であり、人の信仰も個人の倫理上の選択となる。信仰を働かせるか否かは各個人の究極的倫理決定といえる。それゆえ、信仰を働かせるか否かが裁きに直結する。それに対し行状や従順や道徳性は(仮贖罪された聖徒でなければ)ほとんど神の終末の裁きで意味を成さない。

だが、恐れに囚われ、自分の救いや永遠の命に固執する人々にこれを聴く耳は無い。それは却って危ういことであるだろうに・・


大衆を含め、耳無き人々に何を言うのも無益なのだろうか?
畢竟、人は自分が良ければすべて良いということか。
外部にはすべてが例えで伝えられ、真意は身近な弟子だけが知った。『耳ある者は聴け』の真意と、最後の晩の弟子への話との関係は何か?





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