Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

創造神探求の成果としての信仰か

キリスト教は、信者に益があるから信仰するのか?
益が有ろうと無かろうと、神を探ることは別問題ではないか?
自分がどうされたいかを念じながら神探求ができるか?
たとえ益なくとも神探求には価値がある。なぜなら、創造神を探求することは、自分という存在を問い、探し当てることになるのである。
しかも神は人を超えており、我々の価値観を刺激し試すのである。
ただ従順にしようと思う者は退けられ、この価値観を共有する者と共になろうとされる、それが創造神である。
その価値観は信仰というものに結実するが、それは単に信じることではなく、神と双方向的に信頼を培うことであり、それは罪人である人間であっても、神の側からの配慮(恩寵とも是認とも言えないが)によって、我々がこの世の一部である現在でも可能である。
そこに優れた経綸の理解を持つ必要は必ずしもは無い。問題なのは、その人がどのような倫理観を持つかだが、より深い理解によってこの世の蒙昧を去り、視野を鮮明にできるなら、神の意向をより良く捉える機会は得られる。
神はすべての魂を世に置いたが、魂が世と共に終わってしまうように意図されたわけではないし、空しいこの世の奴隷となるよう人を創ったわけでもない。
では、この世を上手く生き、来世や将来も盤石であるというのがキリスト教徒の目的か?・・だとすれば、神との邂逅は拒絶されるだろう。それはキリストの生き方とは正反対であって、ただ利己的なだけであり、それは「この世の神」の性質そのものではないか?その神が喜ぶ者とは、その性質を同じくする者ではないか?

信仰とは、神との双方向的信頼であるから、人には試みとなることもあるかも知れない。しかし、アブラハムの例からすると、その過程をも神は導かれる。彼は神の言葉を信頼しながらも、自分なりの行動を妻と共に行ってゆく、しかし、神意が別のところにあることを知らされる度に、その信頼性を深めていったと言える。
我々は、聖書にある様々な例を通して、その信頼性を培うことを学べる。そこに様々な信仰(信頼性の醸造)が記されている。

信仰が相互的信頼性であれば、それは倫理でもあり、忠節な愛とも言える。これが無ければ、何を信じようと意味は無い。

アブラムに神が声を掛けたとき、彼は何かの契約に居たわけではなかった。彼の家は、川向うで異神を崇拝していたのであるし、それはエジプトのイスラエルとて同じことであった。(ヨシュア22:4.14)

それをこの神YHWHは多くの奇跡を通し信頼性と善意とを示して、アブラハムの裔に信仰をもたらした。だが、すべてがそうはならなかった。ヨシュアとカレヴが示したのは双方向の信頼性であり、ただ信じたということではない。それは何かの教理を信じ込むことでもなければ、規則を守ることでもなかった。
ユダヤの体制は、これを勘違いして信頼性を示すことにはならなかったのである。




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以下、教会員の観点から、信者になるについて

1.クリスチャンになるのではなく、聖霊によってされる
2.キリストがすべての苦しみや罪を荷ってくれるのが魅力
3.信じるだけで救われるところが仏教に勝った
4.聖書は科学と矛盾するようなところもあるが重要ではない
5.聖書の御言葉に魂が捕らえられる経験をし、霊的体験もした
6.教理を理解するのは難しく、不合理なところも多い



ものみの塔信者の教会員への見方

1.神の名を覆い隠している
2.異教と混合させたのは背教である
3.戦争を容認し流血の罪を負っている
4.不品行や不道徳が横行しているので裁かれる
5.福音を伝えているのは自分たちの方である
6.教会は大いなるバビロンの一部なので滅ぼされる


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ニサン
7 エリコ発ベタニヤ
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10 イチジク 家を清める
11 二つの質問 指導者層を糾弾 終末預言
12 祭司長派の策略
13 マリヤの肝油 ユダの応募 晩餐の準備



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