Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

神の裁きの回避

・聖書に神の裁きは避けられない
これはキリスト教徒に特に強い強迫観念となる

そこで宗派毎に、この危険を回避する方法が案出されている。



1.神の裁きや終末などは無く、それらを教えているのは異端の証拠であるとする
⇒ 神を崇拝している罪のない信徒が裁かれるわけがない


2.神の裁きは死後すぐに行われ、生前の行いにより天国と地獄に分けられる。
⇒ 善行者が報いを受けるので、普段から品行方正な生活を心がけるべし


3.終末も神の裁きも有るが、自分たちの信仰を持つ者は救われる。
⇒ 神の是認のあるこの宗派を信奉しなければ救われない


4.終末の裁きの滅びの前に、是認された信者は携挙されて難を逃れる。
⇒ 救われる「クリスチャン」は患難に遭わず滅ぼされない


5.神の裁きは、遠い過去から決まっているので、誰もその結果を知らない。
⇒ 自分で救いを決められないが、救われるよう努めることはできる



聖書の神が「裁く神」であることは不可避である。
むしろ、神の意図は裁くことによってすべてが愛を選び取り、被造物が永遠の存在となることにある。
従って、「神の裁き」を逃れようと、また、自分だけは救われようとするなら、神の意志からは遠ざかるばかりになる。
却って、裁きを神の側に着き、その意志を敢然と支持する機会と見做すべきであり、信徒にあってそれは困難な事ではないにも関わらず
裁きを回避しようとするなら、はじめから自分が神の是認を逸すると思い込むことであり、そのような信者らには道徳律を守ることで安心を得ようとする誤りが伴うものとなっている。
それは表面では敬虔さを表しながら、実は自分の救いを第一にするところで利己的なのである。

だが、キリストは確かに『人は、あらゆる罪と冒涜を赦される』と言われる。(マタイ12:31)
なぜなら、人が「アダムの罪」を遺伝によって負っており、誰もが神の御前には同じく『贖い』を要する罪人であるからであり、そこで行状の程度を云々することには意味がない。
十戒」を含むモーセの律法を完全に成就して終わらせたのがキリストである以上、誰も律法を守り切ることは期待されていない。

だが、ほとんどの「キリスト教」では
信者になることで、裁かれることを意識せず、その神からの恩寵に与り、是認に入ると教える。
それが信仰を持つことのメリットとされており、根拠としては、1Jh5:13/1Tm6:12などを『新しい契約』を意識もせず自分に適用するためであろう。

これらは聖徒について述べられた、既にキリストの贖罪を受けた『初穂』である人々について述べられた言葉を、部分部分で、普通の人に適用してしまい数々の誤解を招いている。
根底に『女の裔』の理解がないためであるが、その原因を作っているのは、キリスト教会の教師と信徒それぞれの利己心である。
即ち、神の意志ではなく、自分の救いにばかり気を取られ、それを第一にしてしまっているので、神の人類救済よりは、自分の救済を急ぎ求めて神の救いを自分たちに狭めてしまっており、その利己心そのもので、神の是認から自ら遠ざかっているのである。
キリスト教会とは、これほど神を誤り伝え、内外の人々を躓かせ、また救いそのものを台無しにしている。その真実の姿は恐るべきものである。

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ヘブライ書は、申命記を引用して『神はご自分の民を裁かれる』ことに注意を向け『生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。』とも言う。(Heb10:30-31)

そこでペテロも『この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい』と弟子らに書き送っている(2Pet3:14)

エスは山上の垂訓の中で『狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。』と言われている。


キリスト教」では、信仰する者は既に神との関係に入っており、裁きは彼らについて終わったかのように見做す。

それは『新しい契約』に入った聖徒らの『神の子』としての『今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。』また『だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。』等の言葉を、単なる信仰者にまで広げて適用しているためであろう。

だが、これらの聖徒であっても、終末には著しい試練と裁きが待っている。その務めを全うしようと努める聖徒ですら『かろうじて救われてゆく』のであれば、努めない者の『終りはどのようであろうか』?


ほとんどの「クリスチャン」が自分たちに裁きが及ばないと信じる動機は、その裁きの実態、何がどう裁かれるのかが分からない恐ろしさから来ると思われる。

そこでは、神の意向を探ることを諦め、とにかく自分は安泰であるという保証を得ることに腐心してしまう。

そこで神の裁きを恐れて、神の怒りを買うと思われる事柄を避けるなら救われるであろうという、危険回避のほぼ本能的な感覚から、教条化、規則化によって、救いの安心を実感しようとするところを宗派は利用し、また、そこで各宗派の差別化が起こる。その差異が、救いの具体性であると錯覚し、またさせるからである。

それぞれの宗派の「義」がそこで捏造され、その「義」が神のものであるかのように装われ、それが裁きに救いをもたらすものとされる。

しかし、この裁きの回避の仕方は非常に間違っている。なぜなら、それでは保身が目的であり、神の意向や精神を理解しようとはしないからである。そこで教理はご利益に傾き、専ら、「この世をどう生きるか」という、成功願望に注意が集中し、神の偉大な意図に無関心となってゆく。
この精神は、即ち利己的であり、そこを狙われた詐欺でもある。なぜなら、神の精紳はキリストの自己犠牲に顕れており、「クリスチャン」の懐く精神とは正反対だからである。

教会のキリスト教とは、ほとんどがそのようなものになっている。即ち、「裁く神を回避しようとしている」。むしろ、無くしてしまえるなら、そうもするであろう。
クリスチャン方に「終末や裁きを言うのは異端」との思いが強いのも、なるほど頷ける。保身の宗教だからである。キリストの時の宗教指導層がそうであったように、『突然に神殿に来て裁く』メシアなど望まない。(マラキ3:1-3)

そこで『裁き』は無いものとするか、既に自分たちは救われていることにするのである。どこの宗派も、ほとんどがこのようである。
だが、本当に終末が訪れ、イエスの言われるように『すべての国の人々が彼の前に右と左に分けられる』とき、その救いのご利益が効くとされたその差別化は功を奏するだろうか?元々が保身の動機での信仰であり、信じるのは自由ながら、正反対の精紳にある自己犠牲のキリストの意向をどれほど理解できているか。また、その時から理解に努めるのでよいのだろうか?




YHWHは、刃向う者を打ち砕き、天から雷鳴を響かせられる。YHWHは地の果てまでも裁き、ご自分の王に力を授け、神に油注がれた者の角を高く上げられる。』とも言われる。-ハンナの歌〜-(サムエル第一2:10)


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宗教を並べて見ると幾つかの主張に集約される
・物事がうまくゆき幸福になる
・従順に正しく振る舞い神を味方につける
・自分と交友支援してくれる仲間を得る
・死後(終末)の幸福の請合い
・冠婚葬祭の司式

但し、「正しい宗派」に帰依し貢献する必要がある
また、上記それぞれの反対動機もまた存在する




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