Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヘブライ10:14から

キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な[τελειοω]者となさった。Heb10:14<新世界は時制に無理あり、何故「神聖にされつつある者たち」☆としたか?>

[μιᾷ γὰρ προσφορᾷ τετελείωκεν# εἰς τὸ διηνεκὲς τοὺς ἁγιαζομένους+.]

#直完了能3単 +現受対男複

☆"For it is by one[sacrificial] offering that he has made those who are being sanctified perfect perpetually."NWT

"For by a single offering he has perfected for all time those who are being sanctified."ESV

"For by one offering he hath perfected for ever them that are sanctified. "KJV

"For by a single offering he has made the sanctified perfect for all time."NMT



ギリシア語に現在進行形が無い分、訳者の判断に任せられる

では、著者の真意は何であったか?

進行形として捉える場合、聖徒らの神聖さが完成されるのはその後のことになる。
これは契約遵守の観点から見る場合にその通りにはなる。
そこまで意味していたか?これは個人の判断するところか

訳者や読み手が意味を補いつつ本文の意味を探らねばならないところはあちこちにある。
どうしても、訳者や読み手の信仰が意味を分けるところが出て来る。

「それまでの伝統的な訳では頻出する引喩や隠喩など独特表現を一般読者が理解するためには、聖書が書かれた当時の事情に十分精通していない限り、大変むつかしい。したがって近年の学術成果に基づいた何らかの聖書訳を提供しなければ、否、提供すべきである。そのためにはそれまでの英語聖書訳を改定するのではなく、具体的で分かりやすい新しいオリジナルの訳が必要であると確信するに至り、この聖書訳を行った。」

NMT 1926年版の序文











別意
翻訳の難しさのひとつは、初心者的読者のために理解を助けるべく訳文に幾らかの手を加えるか、それとも、まったく素のままがどうであったかを明らかにするか、という

原典版と校訂本の違いに分かれる分野は既に存在している。
だが、今や紙媒体に限られないので、即座に双方を参照できるものが求められる。

まず文面の意味を知ろうとするのか、著者の発言の本旨を探ろうとするのかで聖書の使用法が異なるのは明らかであるのに、双方にひとつの媒体で応じるものはまだ見当たらない。

それぞれの宗派が、自らの理解に則した訳に添えて、底本の原語や写本の異なりを読者が即座に確認できるようにしてはどうだろう。
自派の理解の背景や根拠を信者や求道中の者が確認できる備えを設けることが、自派の論拠を高められるであろうし、誤謬を避ける動機も得られよう。

カトリックの修道会なら、この膨大な作業を無償で行い無償で提供できるのではないか)

旧来のキリスト教信者はそれを望まないのかもしれない。
信仰箇条が固定化されている事を望む人は多いと思う。その理由は、探求心の枯渇であり、日常生活に重きが掛かると、神に関心を向ける意欲も機会も奪われるからであろうと思う。大衆化の要因もここにあるように見える。

聖職者と信者の区分けが「万人祭司」と称えるルター派でも起こるのであれば、それが当然の在り方と思うのであろう。この観点から「エクレシア」を考えると何かある・・

                                    • -




.