Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

幼稚なキリスト教へ

・信じてバプテスマを受けると救われる
救われたのは聖霊の賜物を受けた聖徒。信徒が救われるのは神の王国による
・死後に天国か地獄などに行くことになる
ヘブライに死後の世界の概念は無かった
・死ぬまでにイエスさまを信じれば天国に入れる
  義人にも悪人にも地への復活がある
  異教の天国と天の王国を混同している
・イエスさまが聖霊によって自分の中に住んでくださる
聖徒だけが神とキリストに結びつき子となる
・父なる神と子なる神、聖霊はみな同じように神であり同格
神は父のみ、三者は別の存在ゆえに果たせる役割がそれぞれある
・パンとぶどうジュースを戴くことで本当にキリストの血と肉に預かる
  表象物はキリストの実体ではなく契約の参与の象徴

・愛餐と聖餐は同じように行われた
  愛餐は施し、聖餐はキリストの死の記念
・「教会」はイエスの体で信者の集まり
  教会は隠語からのもの、本来は招会であり、キリストの体を構成するのは聖なる者のみ


・聖書は人生の導きを与える本
個人の導きではなく、人類と神の和解を教える
神の国は信徒の心の中にある
ユダヤ人の間にあったと言う意味を誤解
・聖書を信じ厳密に従うべき
  聖書の字面を追っても読解力がないなら聖書崇拝となる。それは一種の偶像崇拝
・聖書と一致している教会が正しい
  解釈によって「真理」も変わる。また正しさは個人の倫理観によっても異なる。絶対正義を持てないのが人間であり、真理も正しさも神だけが持つ
 そもそも「まったく正しいもの」は信仰の対象に成り得ない

・神はあなたの生きるべき道を教える
この世を裁き、人類を救う
キリスト教の目的は神を礼拝すること
罪を除き、神との自由な交友を回復するのが目的
・信仰は聖霊の働きであり神の奇跡
信仰の要因はその人の価値観であり自発的なもの
・新しい人格を身に着けることができる
  神に選ばれた聖なる者が聖霊の感化によって得るもの


・良いクリスチャンには携挙がある
迫害され、なお生き残った中の忠節な聖徒が天に召される
・イエスは見える姿で再臨される
この世の裁きのために人に姿は見せない 見えるキリストは偽物
・終末にイスラエル民族はキリスト教に改宗する
ユダヤから神の寵愛は去っていて諸国民と変わらず、特別扱いは無い




☆『知恵はその効用により明らかにされる。』
その人が如何なる信仰を選ぶかによって、その人は自らの価値観を明かすことになり、誰もその人に代わって信じる事柄を選ぶことは出来ない。この観点からすれば「正しい信仰」というものは存在し得ない。
また、何が正しい信仰であるかを規定することは、個人の価値観の前に無意味となる。
しかし、ある人が別の人にとって無価値な信仰内容を選ぶことは避けられない。それに気づくよう促すことは出来るが、本人に代わって選び直すことには無理がある。
なぜなら、その選択がその人の倫理判断に深く関わっているからである。そこで人はそれぞれ動機によって倫理的に分かたれているのであり、まして、そこで神に『偽りを信じるようにされて』いるのであるなら、その人の信仰を変えることは全く不可能のはずであり、その努力は無意味であって、却って、互いの価値観や倫理観に凝り固まり、争いを招くが宗教紛争の原因はそこにあり、独断の偏狭さが関わっている。

信仰とは、良くも悪くもその人の動機と価値観の発露そのものであり、そこで神の裁きの意味が生じるであろう怖るべきものでもある。
人の信仰について、ある程度は惹き起こされるよう提醒は出来るが、そこで惹き起こされない人は内面の動機が異なっているのであって、同じ人間という外観を持ちながらも、心の在り方が決定的に異なるのである。その人は聖霊による紛うことのない証しを見ながらも信仰を持たないか、敢えて持とうとしない。しかし、それを裁くのは神であって人間ではない。

人は正しいと思えることを信仰しようとする。しかし、人に完全な倫理判断はできないので、人の正しさとは、人によって異なり、信仰も異なってしまう。そこで神の義を求める必要があるのだが、ほとんどの人は自分の判断による正しさに拘ってしまう。そこに何らかの動機があるからで、我欲が炙り出されることになる。だが、人が求めるべきは「正しさ」ではない(宗教信者でこれを分かってくれる人はまず居ない)

こうして、何を信仰するかは裁きに関わる事態に至る。神の義を求める人は自分の正義に固執することはない。その心は神の意志に向いていて、神の素晴らしさを知るゆとりがあり、我欲を避ける。このような人には神の義の宿る可能性が開かれる。アダムの罪にある人にとっての義とは『愛』(ヘセド/アガペー)の他にもたらせる特質は何もない。ゆえにパウロは『愛によって引き起こされる信仰』と述べる。優越感の信仰などは無意味でしかない。

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キリストの復活について、長々とこの世の知恵を用いて説得する必要があるだろうか?
使徒らでさえ信じ難いことであった以上、未信者が疑問を呈するのは当然の事で、あれやこれやと歴史や科学から説得する必要などまるで的はずれではないか。科学的にキリスト教を弁明しようとすることは教父らがヘレニズム哲学を用いて弁証した姿に重なるもので、詰まるところ、科学信仰を幇助するだけのことになり、キリスト教ははじめから負けているのである。

キリストの復活については、パウロの弁明の言葉を信仰浅い人々に紹介する必要さえもない。あの言葉は信仰者であって始めて受け入れられるものではないか。
ただ一つ、神が創造者であったこと、キリストの死が、その忠節のゆえに神に最大の栄誉をもたらしたので、神が何者にも勝る名と権威、全創造物の一致の要、また絆とされたことを説明する方がどれほど価値観に訴えるか計り知れないものがある。この点でも一般の教会は、歴史資料などこの世の資料を持ち出すことに於いて、的はずれなばかりか、キリスト教の優越性を理解してはいない幼稚さを露呈してしまっているのである。そのような宗派に帰依する信者もまた、その程度の不確かで低劣な信仰以上のものを持ち得ないに違いない。

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日本でのキリスト教の宣教が効果を上げなかったのは、新教一派が言う様な、「一神論が根付かなかった」というよりは、特に日本人には新教の内容に幼稚さが感じられたからのように見受けられる。(新井白石)神道の自然に融合した清浄さにも、仏教の暗い重厚さにも慣れた日本人には、結婚式の雰囲気以外に見るべきものがキリスト教には無く、教理にも習慣にも軽薄さは感じても、衷心から傾倒するべきものを見ることはできない。それはキリスト教に問題があるというよりは、それを実践しているはずの新教欧米人の姿に、日本人は精魂を傾け、打ち込ませるだけの精神的深さを見てはいないからではないか。彼らから学ぶべきものは近代社会と科学であり、精神面では日本人は充足を自覚していたであろう。

まだ、神秘性の伴う旧教になら、幾分かの説得力があるかも知れない。あるいは宗教そのものではなく、宗教芸術ならばまだ幾らか受け容られる余地がある。それは欧米人のキリスト教そのものよりも奥深いからである。しかし、それを持ち出して宣教するのは本末転倒であり、新教そのものの敗北を認めるようなものではないか。日本人は理屈やマニュアルよりは、「道」と呼ばれる精神修養を尊ぶものである。「道」は、深く高く達し難いものであり、自己努力と心身の鍛練を必要とする。日本人においてこの修養性は他の近隣アジア人にも見られないほど際立っている。

これに欧米キリスト教も宣教師も屈しているのであろう。日本人はそこに受身な幼稚さを見てしまうのである。それは日本人だけのことではなく、ムスリムキリスト教を見ると、論理性の欠如が甚だしく見えるという。それはキリスト教が原始的異教を吸収して教理を組み立てたところに原因がある。それぞれの教理があちこちで衝突しているものを神秘主義で覆い隠しているが、その最たるものが三位一体説であり、これは明らかにキリスト教からのものではない。これを玄義として人間には理解できないとしているところから、神が誰かさえ不明にしてしまった。つまり、宗教としては入り口で目隠しをしているようなものである。これが教会キリスト教の幼稚さの第一の原因を作っている。

日本での「ものみの塔」の、一時的であったにせよ短期間での増加のあった一因には、御利益の具体性ばかりでなく、教理の合理的深化と、宣教での自己否定と努力が求められたところも関わっていたであろう。それは日本人の画一性という弱点を意図せずに突いたものであった。それでも彼らでさえ多数派になれなかったのは、逆説的に宣教が強制されたため、そこに人格の埋没を見抜かれたからであろう。これが諸刃の剣となった。また、ネット社会化の進行は、以前のような画一性を日本人から薄めつつあり、今日、信者のメリットに関わる教理までが崩れはじめているので、新たな信者獲得は難しくなっている。今後この宗派は、コミュニティや家族関係の縛りで存続してゆくだろうが、法廷闘争の連鎖的敗北から会計が極端に逼迫してゆくことは避けられそうになく、今後も信者側に損失を負わせ続けるなら、大量離脱を起こす可能性が出てきている。これは醜聞に属するものであり、既にこの宗派の「時代」は日本を含め先進国では過ぎ去っている。教理の時限性が、その原因ともなったが、醜聞は拭い難いミスリードの積み重ねを招いており、これが致命傷になるに違いない。

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・聖書の価値は

最も頒布されたからではない

文化に深く影響を与えたからではない

成功者の多くに聖書を読んだ人々がいるからでもない

これらはみな間接的な事柄、いや蛇足であり、幾らも本質に触れていない。
この種の宣伝をする教会関係者は、その先で碌な説明もしない。
というより、教会の教えに縛られて真相を探るための推論さえ難しい。

それから聖書の恐ろしさに目をつぶってもいる
客寄せの道具にさえしている




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