Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

J牧師の解釈について

とりあえず答えて


×「人類の罪への隷属は終わった」
パウロはなぜ自分は惨めだと言ったのか。Rm6:13-25
信仰にない人とどう異なるのか。
終わったというなら、神の王国の贖罪を差し置いている。Rev20:6
もちろんアブラハムの裔への契約と約束も理解していない。Gen22:18
終末の裁きを無視することになる。2Cor5:6-


×「世の罪のすべてをイエスの上に移すのがメシアへのバプテスマ
神の言葉はナザレ人イエスへのメシア任命を言い表している。
ヨハネによるバプテスマとヨムキプルの日の大祭司の山羊への按手とをどうしても一緒にしたいようだが、これは無理だ。
キリストを象徴的に屠ったのはやはりカイヤファである。Joh11:49-52


×「バプテストはイエスに按手した」。
バプテストはイエスに按手した場面がない
また、彼はゼカリヤの息子であって大祭司の家系にはなく、対型的大祭司というにしても彼ではなく明らかにメシアの方である。Heb4:14
まして「履物の紐さえ縛るに価しない」というヨハネがどうして、キリストに按手して大祭司の役割を果たせるものか。キリストに聖霊を注いで任命したのは神であり、その権威をバプテストに移す道理はない。
むしろ、聖霊の油注ぎによってイエスをキリストに任命したのは神である。
「新約の時代の大祭司」という概念があるとしても、それはメシアになるし、イエスの浸礼の時点ではアンナスとカイヤファ(ヨセフス)が居た。
Heb8:4はイエスさえ地上では大祭司ではない事を述べるのであれば、どうしてバプテストが大祭司に成り得るか?



所見;かえって疑問が起きる
聖書を知っているならどうしてそのような解釈が出て来るか?
また、解釈の目的と動機は何か?
それを信じる心境というのはどんなものか?

多分、信者に高揚感を与える目的があってのことではないか
教理が「薬剤」のように作用するのであれば、信者もそれを望んでいるのではないか

現状での幸福感を得るというのを目的にキリスト教を用いているようだ。

この手の「キリスト教」は宗派も信者も少なくない。
神意を探るよりは人間の幸福の追求が目的なのであろう。





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