Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

試論 -魂の裁き-

創造者は被造物について当然の所有権を持つ。
その所有権は『魂』によって保存されている。それは創造神の全知性に支えられていると思われる。
また、創造者は被造物について所有権と共に生殺与奪の権限を有する。
これが裁きの存在する理由であり、現状で老化して死に向かうという現象が起こる理由となっている。
創造者が何者を生き長らえさせ、何者を絶つかの根拠は、その被造物の倫理性の如何による。倫理とは他者とどのように生きてゆくかに関わることだからである。

「魂を裁く」という概念は聖書中にある。Ps109:31

創造の神は、『罪』を負ったアダムを一定期間生かし、子孫を残す時間を与えているが、これは基本的に今日の人類も同様であり、自らの寿命の中で自らを生かしつつ子孫を設ける事が人生の主要な役割となっている。これは即ち、創造神の意図であり、全ての人の魂を生殖を通じて創り出すことにある。
全ての魂が出揃うなら、その全てについて個々の自由意志による倫理性が問われ、何者が永遠の生命に価し、何者が価しないかを判断される。
これは神が人を『神の象りに創られた』ことによる。その思考は創造神からも独立している事に於いて、そこには神に比す程の自由がある。この独立性こそが、神に対してまた互いに対してどう生きるか、その生き方によっては創造界に混乱がもたらされ、創造神の意図が完成されない事態となり兼ねないが、現状の人間社会はそのようになっている。


そこで創造神は、創造を成し遂げるために出揃った魂の全てを裁く必要がある。
しかし、全ての人は尽く『罪』に陥っており、本来なら生きるには価しない。だが、一度アダムを創られた神は、彼を棄却して別の人を創造することはしなかった。その理由は、一つにはエヴァが与えられ生殖による人類形成が確定していた事と、もう一つは個々の創造を繰り返し、生成と棄却の連鎖に陥る事を避けたであろう。?
(もしそうなれば、何人ものアダムを創ってさえ最初の人を創り出すことが出来ない事になり、創造の意義が無に帰する。しかし、アダムの子孫から生きるに値する者も現れるなら、アダムの創造も無意味にはならない。それは誘惑する役割を果たすサタンにしても同様である)

そこで神は創造の協働者であるホクマに創造界に倫理の基礎となり、神の象りとして創られた全ての被造物の要となることを求めた。それが神のオイコノミアとされている。

ホクマは神の最初の創造物であり、創造者と被造物の関係性の礎として相応しい。
魂としてのホクマは処女マリアの胎に移され人の子となって誕生したので、アダムの魂による子孫ではない。
むしろ、その魂がアダムの魂に代替される事により、アダムの全子孫の魂の源となる。それゆえに彼は『とこしえの父』の称号を与えられる事になる。

人が永遠の命に相応しい倫理性を示して裁きに適うか否かは『罪』の対極にある『忠節な愛』を選ぶ事による。
それは利己的か利他的かの相違である。
しかし、裁きには誘惑が伴うので、単純な選択にはならず、個々に非常に難しい状況になることが予期される。

キリスト・イエスは、死に至るまでの忠節を示して『完全なもの』とされた。それは、試されることにより、神の前に倫理性の不謬を認められた事を意味する。
こうして、ホクマは是認され永遠の命を得るべき全創造物の基礎として据えられるに至った。

ホクマが天界の霊者として『完全』であったか否かは別にして、彼が地上で試みに遭う必要はあった。まず、天界には死が未だ存在していない。また、ホクマがアダムの魂の代替となるため、人間として試されることを通して人間贖罪される基礎を据えたと言える。それを通してホクマは倫理上『完全』になり、不滅性が付与された。同時に創造者は神とされるべき倫理上の理由を得たので、ホクマの死は神の最大の栄光となった。創造物がその命を賭しても創造者が創造者であり、神として尊崇されるべきことが立証された。


次いで、イエスの犠牲のもたらした倫理性である『義』の信用の上に『キリストの兄弟』とされるべき人々の仮の義が認められたが、この認証をもたらしたのが『新しい契約』であり、この点でキリスト・イエスは『神と人との仲介者』と言う事ができる。

この人々には、『新しい契約』に参与した事の印として『約束の聖霊』が下賜されたが、その『義』の立場は契約による以上、不確定であり、彼らはイエスに続いて自己犠牲の死が求められ、それは『キリストの死へのバプテスマ』と呼ばれている。彼らはイエスの臨在の(顕現の)日に至るまで契約を守り忠節であることを示す務めを負っている。

死ぬにせよ、天に召されるにせよ、是認を受ける彼らの魂はキリスト同様に霊の身体に復活される。
彼らが天に集められるときには、その契約の成否が確定し、契約に不忠節であった者は地上に残されることになる。

千年期前の人類の裁きでは、『キリストの兄弟』らへの対応により、人は自らの倫理性を露わにすることになる。具体的には、『キリストの兄弟』ら、即ち『聖徒』らの語る聖霊の言葉に信仰を働かせるか否かによるが、それが終末に於ける人の裁きとなるであろう。
終末ではサタンの強い誘惑があり、それはアダムにとって非常に難しい試練となったように、終末の個々の人々にとっても簡単なものとはならないのであろう。


ともあれ、千年期にはその前の裁きに於いて一定の倫理性を信仰を通して表した人々が招き入れられることになる。その期間はサタンは拘束されるために人間の善性を妨げるものはないのであろう。

人々は天の王国の贖罪と腐敗と誤謬ない支配を受け、地上を神の意図に沿った世界へと造り替えてゆき、千年の終わる頃には、その地上世界そのものが神と証のようになっているに違いない。

千年が終わると、『第二の復活』が起こる。それは諸世紀に死んでいった人々の復活であり、何らの選別もなく『義者も不義者も復活する』。
これらの膨大な数の人々にも永遠の命に相応しい倫理性を見せるか否かは問われなくてはならない。
それがどのような仕方になるかは分からないが、復活の後に試されることでは、実質的にエデンの問いと変わるところはないものとなろう。



千年王国の功績が復活者の証しとなるのかどうかはまだ分からない。
サタンが封じられるというのは、試みの前のエデンの背景を提供していることになるのかも知れない。

地の四隅の諸国民というのは、イヴリーとの逆転を意味しているようにもとれる、中心の都市は象徴的にせよ開かれた(城壁のない)ものになるのだろう。










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