Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

何の為の裁きか?、試みか?

倫理と能力とを区別しないものみの塔


エイレナイオスは、千年期を挟んだ二つの復活について述べている。一つは天の者らへの裁きであり、もう一つは地の者らに関わるものとなり、復活は共に裁きを伴う。これら二つの裁きを通して神はキリストの許に『天と地のものを一つに集める』こうして自由意思を与えられたすべての者が『神の象り』として創造された本来の姿に復帰し、神は創造の業を完遂することになる。
アダム以来、サタンの試みを経た者は、善と悪の選択を試され、千年期後の諸世紀の人々の裁きが終わると『死』も『火の湖』に投げ込まれることになる。これが意味するところは、永生の到来であって、『もはや死はない』また『最後の敵である死も無に帰する』。
したがって、完全者であっても自由意思を持ち続けるのだから、その後もサタンに生じたように誰でも引き続き罪に陥る危険を孕み続けるというようなものみの塔の解釈は間違っている。
そうでなければ、エデンの園の中央に二本の木が設けられた意味がない。二本目の木は『永遠の命の木』と呼ばれていたのはなぜか。
それはアダムらの前に置かれた選択を表しており、そこには他者とどう関わって生きてゆくかという倫理の問題が問われていたのである。
ひとりのケルヴがサタンとなったのは、この完全な選択をする者としての一度限りの試みが天使にあっても必要であったことを示しているのであり、サタンはそこで『偽りの父』となって、他者を試みる器となった。そのために、すべての『神の象り』を誘惑することがこの者に許されたと同時に、この問題を試す誘惑者として用いられている。そこではキリストも例外とはならなかった。
キリストは死を以って『試みを経た石』また『隅の頭石』となったのは、神が『その苦しきを通して完全にされた』からであり、『死をもたらすサタンを滅ぼす』ことをも可能としたのであり、「完全であっても離れる可能性はある」とは言えない。『神の子』とされる『聖なる者ら』もそれに続く忠節を示していったのではないのか?
それはおそらく、アザゼルのための山羊に前表されているのであろう。誘惑者は避けられないにせよ、それは同時に罪を去らせる役割も負っている。
ともあれ、理知を持つ創造物が『神の象り』に相応しく『神の子』と認知されるには、倫理の問題、即ち、他者とどう生きてゆくかについて一度答えを出さねばならない。この答えの提出はサタンの誘惑を要するものの、選択であってその者のポテンシャルの問題ではない。そうでなければ、一度『罪』に陥った人類に御子の犠牲が差し伸べられる理由がない。なぜなら、『罪』に汚れ、自力で出ることのできない人間であっても、『義』を望むことはでき、そのゆえに赦されるからである。この点で以下のものみの塔の解釈は大いに間違っている。

千年統治が終わった時の最後の試みの後にも人間は依然として倫理的に自由な行為者です。(啓示 20:7‐10)人はその時にも,自らの自由意志で引き続きエホバに仕えるかどうかを選ぶことができます。アダムがしたと同じように神に背を向ける人が決して出ない,と言い切ることはできません。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2006607?q=%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%B2%E3%83%89%E3%83%B3&p=par#h=6

神がアダムの前に二本の木を置いた時点で、アダムらは無垢であり、自らの源である創造者に対する第一の倫理問題に於いて試されていなかった。だが、彼らが誘惑に遭い、欲に惹かれて一度限り利己心の道に入ったのであれば、同じく一度限り神との絆を選び取ったときに、完全に意志を制御できる者としてその決定を保ち得るに違いない。しかし、ものみの塔の解釈者は「完全」という言葉を「不完全」に変えてしまっている。そもそもアダムの未選択の状態を安直に「完全」と描写するところに問題がある。その「完全さ」とは何に関する「完全さ」なのか。能力ではなく倫理ではないのか?
ここで神に"仕えるかどうかを選ぶ"という「意志の自由さ」と、その者の「倫理上の決定を下す」事とが置き換えられており、エデンの問いの意味が理解されていない。こう解釈するなら、ものみの塔は無慈悲にも信者をして神との永遠の緊張関係に立たせることになる。
しかも、「神に仕える」という発想そのものがアダムの本来置かれた境遇への無理解、またキリストの犠牲を掛けた『神の子』の立場への復帰、神の創造の意図、を無視している。これは欧米キリスト教界に在りがちな「主権をかざす神」として神を圧制者とし、その前に人間を卑下して、圧制されることで神を高めようとする永年に渡る著しい教会の病弊をそのままに引きずっている。「崇拝」とは人が罪に陥っている間にのみ必要なものであり、アベル以降のものである。完全な倫理を持つ者には政治も宗教も必要がない。双方共に『罪』への応急処置だからである。キリストが人を引き上げようとされたのは『罪のない』の領域『神の子』である。神が支配を望んで創造物を設けたというなら『子』ではなく『奴隷』にすると書かれたであろう。しかし、キリストの言葉はその逆であった。
支配されたい者の動機は、支配したいのではないのか?「統治体」という名称そのものが、何が恥ずべきものか忌むべきものかを知らないかのようである。支配というものには人間の『罪』が刻印されている。支配や統治は、抑え込まれるべき悪が存在するところで必要なものである。
ものみの塔は、上記のような自分と異なる聖書理解の一切を「背教」と断じたいのだろうが、その独善の理由はやはり「支配」を占有したい強欲にあるのではないか?その指導部が愛するものは真理などではなく支配ではないか。情報開示は理解のため、情報統制は支配のためである。真理を追究するとは、如何なる訂正も恐れず、より広く深く情報を求めることであって、圧政国家のように誤りを隠蔽し、正解を唱えていた者を忌避しておきながら正義を装うようなことではあり得ない。

やはり、キリスト教理解というものは、既存のキリスト教から一旦はまったく離れる必要があるのだろうか?他の宗派の誤謬から清められたと思うらしいが、ものみの塔もまた、旧来の宗教の暗さを一向に免れはしていないことが観える。


神は人の何を裁くか

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エス・キリストは地上におられた時,アダムから受け継いだ罪の結果である,あらゆる種類の病気や疾患をいやす力のあることを証明されました。

(永遠に生きるp164)

王国の支配下では老化も止まります。老人は若返るのです。そうです,『人の肉は若いころよりもみずみずしくなる』のです。朝起きるたびに,前の日よりも健康になっていることに気付くのは,どんなにか胸の躍ることでしょう!
若々しい,しかも完全な健康体で楽園の地上に住んでいるのですから,死にたいと思う人などもちろんいないでしょう。それに,だれも死ぬ必要はありません! 彼らが贖いの犠牲の益を受けるということは,最後に「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」という神のすばらしい賜物を享受するということです。

(永遠に生きるp164-5)

以上の要約

間も無くハルマゲドンが起こって、今の邪悪な世界は終わりを迎えて新しい世が来るとされています。
新しい世では神が支配する王国のもとで、全ての人が健康になり、病気も死もなくなり、永遠に幸福に生きるとされています。
あらゆる邪悪が一掃され、神から引き離すあらゆる宗教が一掃され、神から離れるように人間を誘惑する悪霊たちが一掃され平和な世界になります。

神の経綸に対するこの捉え方には決定的に欠けているものがある。それは神との絆の回復であり、神の裁きという深遠な人の倫理の問題である。それが一足飛びに倫理問題の解決から起こる利益に注意を向けてしまっている。これでは益を求めるばかりで、内心では既に倫理に関わる試みを通過してしまっているに違いない。
だが、人間の苦難の原因は『罪』であり、それゆえにもキリストの犠牲が捧げられた事を恰も人類への奉仕であったかのようにされてしまっている。これではものみの塔の信者はキリストや聖なる者らの犠牲を自分たちの幸福に仕えたコンパニオンのように見做すことであろう。彼らが上記のように「裁き」の概念なく「完全者もサタンのように脱落しかねない」と論じるのも、このご利益信仰において種が撒かれているというべきであろう。つまり、倫理の問題の重さを理解していないためであり、「楽園」の希望を、恰も政治家の公約のように捉え、自らを省みてはいないからである。
年代計算を行って時を予告することも啓示を待たない人間主義であれば、ご利益の確定を願望して裁きを度外視し、倫理問題となる神の裁きを二の次に、キリストの贖いを自分たちへの奉仕であると錯覚するところもまた人間主義の羅列という他ない。
しかし、人には永遠の命や幸福に勝るものがある。それが『子』として創造物に復帰するという神との関係であり、それがあれば祝福となる事柄さえごく付随的な副産物でしかない(詩63:3)。どうしてこれが最大の願うべき事とされないのか?益を求めて与え主を見ないというご利益信仰だからであろう。その人間主義はこの教団のあちこちに見えている。その最たるものが統治体の横暴であり、情報統制である。どうして指導部が高圧的かといえば利己的だからであり、なぜ信者がそれを許すかといえば、ご利益目当てで利己的だからである。この宗教団体であれば、奇跡の聖霊が到来するときに強く反対を唱えるのであろう。


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[ὃν γὰρ「これがなぜかと言えば(33節を証し)」 ἀπέστειλεν「送り出された(アオ)」 ὁ θεὸς τὰ ῥήματα「神に属する宣告(複)を」 τοῦ θεοῦ「神に属する[者(単)]は」 λαλεῖ,「話す」 ]
「これがなぜかと言えば(33節を証し)、送り出された(アオ)神に属する宣告(複)を神に属する[者(単)]は話す。」


[οὐ γὰρ ἐκ μέτρου δίδωσιν τὸ πνεῦμα.]
「なぜなら、秤によって霊を与えない」


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