Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

善悪を知って

以下仮説--
『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる』

この言葉に込められた事柄;
アダムとエヴァは自らの意思で神との関係をどうするかを未だ示していなかった。
この実を食するか否かに関わらず、いずれにせよ、彼らは善悪を知ることになった。食さなければ忠節という善を、食せば不忠節という悪を通してそれぞれ「善悪」を知る領域に入った。したがって、それは倫理選択による自我の確立を意味した。(Isa7:16)〈子供の善悪判断の成立は親の指導と社会経験によるのでは?いずれにせよ、自分に抑制すべき罪の影響があることを知るようになる〉

当然ながら神や御子、またサタンはその善悪を知る、つまり自我ある状態にあった。倫理的決定を下す主体者としての登場?(Gen3:22)

園の中央に置かれた二本の木は、第一に「善悪を知るの木」によって誘惑に屈するも退けるにも、自我を確立して究極的な倫理上の決定を下すこと、第二に、その決定に従って永遠の生命が与えられることを意味した。
これは理知ある魂についてすべて問われるもので、その倫理判断によって神と共に生きるか否かが定められるべきものであった。

したがって、上記の言葉をサタンがエヴァに語ったときに、『食べるときに』という部分にも偽りがあったことになる。
それを食さなければ、その忠節によってエヴァは『善悪を知る』に至った。だが、エヴァはサタンの『食べるときに目が開かれて』の方を信じ『欺かれて罪に至った』。(1Tim2:14)
アダムは、エヴァへの情愛を神への忠節を上回る選択をし、同じ運命に身を委ねた。(Gen3:12)

こうして、アダムもエヴァも不忠節によって自我を獲得し『目が開かれ』嬰児が成長して恥を意識するように、陰部を覆う必要を感じ始めた。したがって、人間はいずれは被服するものとして造られたということができる。神の発言『誰があなたがたが裸であると教えたのか』と、楽園から出るときに衣を与えたことが人の被服の必要を示唆。
(この点でパウロが天に召された後に「裸を見られることはない」といった意味は、彼らが象徴的にではなく実体として霊者になることを単に述べているようだ)


自我を獲得した人間は、自らの言動について倫理的に判断を下すという、(自分を離れて自分を見る)状態に入った。そこで良心が働きはじめたが、自ら良心の咎めを受けないでは済まなかった。そこでは、既に神への不忠節を通して倫理性を根本から損なったので、言行で倫理的に問題なく振舞うことができない。
その状態は神が創造で意図したところではなかった。つまり、神は人間を自らと共に永生するものとして造られていたが、創造者を創造者として認めないなら、創造の目的は果たされないことになり、それを存続させることは神の全能性に関わり、創造物のためにもならないので、倫理性の欠陥の遺伝にも関わらず『罪を犯している魂が死ぬ』ことに定められた。(Ez18:20)

その根拠が、魂の贖罪にあり、キリストの魂が捧げられ、アダムの魂に代替されたが、アダムと同じ倫理的決定を下す者には、その贖いは意味を為さない。
それは、そのキリストの贖いを信じるか否かによってエデンの問いと同等の倫理的選択を行うことになる。そこでは自らに倫理的欠陥があることを認め、それが除かれることを願い(悔い)、神とキリストにまったく頼るという姿勢である「信仰」が求められる。(Joh3:36)
そこで、「信仰」は忠節となり、究極的倫理的決定となる。
我々の場合には既に「目が開かれている」が、それゆえにも自らを倫理的に判断でき、そこには自分でどうにも変えられない「罪」が存在していることを認めることができる。(Rom7:18-20)
それにも関わらず、業によって義を得ようとすることは、『自分には罪が無い』(1Joh1:8)ことを証ししようとすることになり、『善悪の知識の木』から食した行為の正当化に当たってしまう。そこで「業」は「信仰」と対立し、『蛇の裔』と呼ばれたパリサイがイエスに激しく反対した根源的な理由をそこに見ることになる。(Joh8:44)


この件から派生する問題;『神のようになる』というサタンの発言は、不忠節によって神を創造者の立場から引きずりおろしてしまうことを言うのか、それとも、単に自我を得ることを言っていたのか?


Richter「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」


・子供が扮装して遊ぶようになると、そこで自我が形成されている証拠となる。つまり、自分を他者の観点から見ることができる。

・誤信念課題
1.前もって被験者から見えない所で、お菓子の箱の中に鉛筆を入れておく。
2.お菓子の箱を被験者に見せ、何が入っているか質問する。
3.お菓子の箱を開けてみると、中には鉛筆が入っている。
4.お菓子の箱を閉じる。
5.被験者に「この箱をAさん(この場にいない人)に見せたら、何が入っていると言うと思うか?」と質問する。

正解は「お菓子」だが、心の理論の発達が遅れている場合は、「鉛筆」と答える。

多くの場合、4、5歳程度になると、誤信念課題に正解できるようになる。(スマーティ)[質問の仕方によって正解率を上げられるのでは?]

霊長類学者リチャード・バーンのチンパンジーの例を待つまでもなく、ゴミ収集日のカラスは自我を持っている。
子猫が身を潜めてから攻撃行動に移るのは自我形成か攻撃本能か?


自我が形成されると誇りと恥の意識が生じる。
それに関係して良心の咎めと正当化、また自己審判がある。
自分を笑えるのは円熟、または諦めであり、自尊心の平衡または欠損。自尊心はあるバランスを保つ必要がある。卑屈になると自己を卑しめ傷つけることになる。(世はこれを打ち砕く)
自己を意識が責めたり侮ったりすると、能力が落ちたり、免疫力が低下し体調に悪影響が生じる。他人を責める場合は怒り、自分を責める場合には抑鬱。反省の場合には向上心に昇華し得るが、取り返しのつかない事柄には自己糾弾が続くことになる。


木の実を食することで
1.倫理判断を下し自我を得た
2.子供が成長して会得するように善悪を弁えた
3.罪を持ち法律を必要とするようになった

食すことで「善悪を知る」か、あるいは試みを通過することでそうなったのか?
まったく倫理的問題の無い状態と、罪の無い状態とは異なるようだ。
倫理問題が生じない状況では忠節は存在し得ない。
サタンの存在と誘惑の試みは創造の意図からの逸脱ではあるが(にも関わらず)神認識の知的被造物の忠節はそれなくして存在しなかった。
4.試みを悪を以って通過し、忠節を示さず「罪」の状態に入った。

では忠節=愛か?
思うに、神への愛は他に勝り第一義的なものであるべきなのではないか?しかし、それは相互的なものでもあり得る、その理由は神への愛が基礎を形作るからではないか?


モーシェ・マイモニデス;
「不服従の結果、人が完全な知性認識を失い、代わりに善悪の認識を得たこと」「この句は、『あなたがたは善悪を知って神々のようになる』というのであり、「真偽を知って」または「真偽を理解して」というのではない。「人は知性を通して真と偽を区別する・・一方、善と悪とは知性によって認識されることには属さず、知られたものとしてメフルサモットに属する」(「迷える者の手引き」一巻二章)〈宗教的コンセンサス〉つまり哲学的な真偽判断では無いという主張になる。p153⇒人は従順によって救われ得るか







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