Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

密集1


申命10:21 賛美されるべき
ネヘミヤ9:6 天の天、地と海の一切を創られた
詩82:1 神々の集いの中で
詩89:6-7 誰がYHWHに似るか
イザヤ45:18 天地を創られた方は他にない
エレミヤ10:6 他に居ない
ローマ1:20 創られたものからその神性が見える (25創造物を崇めて→♅)
黙示4:11 すべてのものを存在させたゆえに崇められる
黙示15:3-4 全能者、唯一忠節








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自然状態に於ける人間は極めて危険であり、利己と奪略の精神が常に勝利してしまう。神はそのような者の永生を認めないことがもう一本の木の名称に表れている。
善悪の知識の木から食した後、人が法を必要とする者と変じたのであれば、創造神を否む選択の結果をその木の名称が示していたことになる。
法が必ずに支配を存在させるように(実際は逆)、域内最強暴力の保持者が求められる。従って、アダムが善悪を知る木から食べたときに、人類は法と支配を必要とする者に堕ちたことを意味している。やはり、二本の木の選択は「倫理」が関わっており、アダムは倫理的に堕ちた。
それを「神を否む木」としなかったのは、「善悪を識るの木」【文語】の方が非常な含蓄に富んでいるからではないか?或いは、エヴァへの誘惑の隙を与える名称であったのかも知れない。 この観点で見るなら「善悪を知る」とは「倫理不全」の言い換えになる。
「善悪を知る木」【口語】
「善悪の知識の木」【新改訳】
「善悪の知識の木」【新共同】
「善悪を知る木」【岩波委員】
"the tree of the knowledge of good and evil "NKJV
וּמֵעֵ֗ץ הַדַּ֨עַת֙ טֹ֣וב וָרָ֔ע】ウメエツ ハダアット トヴ ヴァアラー 「しかし木から 知識の 善 と悪」
[ἀπὸ δὲ τοῦ ξύλου τοῦ γινώσκειν καλὸν καὶ πονηρόν]LXX 「から つまり その 木 ところの 知る 善と悪 」
法が善悪を仮に規定し社会に秩序を与えるものなら
神が与えた「法」とは神から離れたこの世のひとつの生き方を与えたと言えるが、そこには神の倫理基準が込められていたのであれば、人に守ることは初めから無理があったろう。しかし、幾つかの条項に於いて神は人に譲歩している。また、律法以前には「神の人」に対しても咎められなかったことも含まれている。
イスラエルが荒野に出た段階で、何らかの秩序付けは必要であったに違いない。イスラエルは家族的風習だけでは運用できない規模に達しており、エジプトの法が彼らを治めていた。聖書が「城市」と言うときには「支配」を意味していたに違いなく、その延長線上に「神の王国(支配)」もくるのであろう。つまりはポリスであり、その創始者はニムロデであった。しかし、族長たちは(イブリとして?)神を建築者とするポリスを待ち望んだとパウロは述べ、それを(将来)遥かに見たとも言う。(イブリとハモナは両極か?)
そうなると、この意味でも「エルサレム」という言葉には神の支配が含意され、それを乗せるシオンが地を表すだろうか?ならば、「新しいエルサレム」が天から降るのは、支配権行使の開始を意味するのであろう。その王国でも善悪の知識が必要であるかどうか?その詳細は測りかねる。だが、支配である以上、善悪規準たる「法」は避けられないはずであろう。法が無くなるとき、人は永遠の命の木から食していることになろう。それが千年期のいつであるかは分からない。しかし、千年の期間を要するのであれば、無駄をしない神の性質からして、その末期なのだろうか?それとも第二の復活に証しとなるように地を整えるために必要な十世紀なのだろうか? 或いは「千年王国」は本当に「千年支配」なのかも知れない。それはかなり異なるが、現時点ではどうにもわからない。

(バビロンがバビルを引き継いでいて、エルサレムと対置されるのなら、俗と聖の対立に象徴付けられていることになるが・・それでニムロデの初めの城市をバベルという掛詞で言い表したのか!そこに安息日が絡んでくる。長く続けども必ず終わる俗なる城市、サタンと悪霊の導いたシュメール以来の支配)
支配の特質は利己心であり、例え主権在民であっても、強欲のせめぎ合いが政治の姿である。一致や平和は表面上の貪欲の調停によって均衡が保たれた危うい状態にすぎない。隣人とさえうまく生きて行けない人間の性質そのものという他ない。


「善悪を知るの木が、善と悪とを決定する権限が神にあることを損なったことを表している」とすると、モーセ律法が守られることのないものであったところに矛盾が出る。
それでは、神は倫理的に完全な(堕罪以前のアダムのような)人々に善悪の決定を行う必要があることになる。
だが、善と悪を知ることになったのは木の実を食した後であるだけでなく、はじめから倫理的完全者に善と悪を知らせる理由がない。
上記のような教理は、誰かの浅知恵の思い付きだろうと思える。幾らか考えれば気付きそうなものだが、つくづく宗教的圧制とは賢い信者をも権威ある愚者の蒙昧に引き留めるものだ。その愚者の求めるものは神に代って善悪をとやかく言う権威だけではないのか?実に馬鹿々々しい。

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