Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アリストテレスの奴隷観 人間らしさと倫理

アリストテレスの奴隷観


「自然的に支配する者があり、また、支配される者がある事もまた、生の保持のためである。
なぜなら、思惟の力(διανοια)によって先を見る(πρωραν)事が出来る者は、、自然的に支配し主人である者だが、肉体(σομα)の力によって主人の命じる事を為し得る者は、支配される者であり、自然的に奴隷である。それ故に、同じ事が主人にとっても奴隷にとっても有益なのである。」15

「魂が肉体からかけ離れ、人間が動物からかけ離れているように、それくらい[理性の所有者]からかけ離れている者は、自然的な奴隷である。肉体の使用が彼らの仕事であり、それが彼らから引き出せる最善のものであるような、そういう者たちは、このようにかけ離れている。彼らにとっては、主人の支配を受ける事が最善なのである。こうして、他者に帰属しうる者、それ故に、事実、帰属する者、そして[命令を]認知する(αισθανεσθαι)程度にはロゴスに与るが、ロゴスを所有はしない者が、本性的な奴隷である。なぜなら、他の動物たちはロゴスを認知せず、感覚的受動(παθημα)によって服従するからである。だが、彼らの有用性はほとんど異ならない。というのは、奴隷も、家畜も、肉体の力によって、生のための必需品(τα αναγκαια)の供給に従事するからである。」

「自然は何事も無駄には作らない。ところで、動物たちのうちで人間だけが理性(ロゴス)を持っている。声なら、苦痛と快楽の印であるから、他の動物たちにも帰属している。つまり、かれらの自然は、快苦の感覚を持ち、これを互いに知らせ合うところまでは到達したのである。これに対し、理性は有益な事と有害な事、従って、正しい事と不正な事(το δικαιον και το αδικον)とを示すために存在する。というのは、善と悪、正義と不正、その他の倫理的価値について認識を持つということだけが、その他の動物たちに対して人間に固有だからである。そして、これらの倫理価値の共有が家とポリスを作るのである。」28

「一定の技術には、もしもその仕事を成し遂げようとするならば、必ずそれには固有の道具が帰属するように、家を治める事についても同様である。ところで、道具のうちのあるものは生命のないものであり、他のものは生きているものである。
例えれば、船長にとって舵の取手は生命のないものであり、見張りは生きている道具である(なぜなら、技術においては、奉仕する者は道具の部類に入る)そのように、所有物は生きるための道具であり、また、所有物は様々な道具の全体であり、そして、奴隷は生きている所有物である。すべての奉仕する者は、もろもろの道具を先導する道具のようなものである。」17

「主人は単に奴隷の主人であって、奴隷に帰属することはないが、奴隷は主人の奴隷であるばかりでなく、まったく主人に帰属しもするのである。
奴隷の本性がなんであり、その能力がなんであるかは、以上から明らかである。即ち、人間でありながら、本性的に自分自身に帰属せず他者に帰属する者、それが本性的な奴隷である。他者に帰属する者とは、人間でありながら所有物であるような者である。」18

奴隷には倫理的自律性が認められず、奴隷は独立の人格とは見做されない、という帰結が不可避的に生じる。
#この奴隷観でゆくと、奴隷が間違って主人の壺を割ったり、主人を傷つけても不正を犯してはいないことになる。だが、実際には鞭打たれるのが普通であったろう。動物を馴らす過程でもムチは用いられるが
彼は「奴隷や動物は幸福に与ることができない」と言っている。その理由は「動物や奴隷は理性的選択(προαιρεσις)に従って生きることができないから、としている」
それでも彼は奴隷の理性を認めざるを得ないところがある。

アリストテレスが奴隷について、徳や理性というときには、ポリスの民会(εκκλεσιά)に参与するに値するだけの思慮分別のことを含む>


「人が思慮(βουλευεσθαι)を巡らすのは、大抵はそうであるとしても、実際どうなるか不明であるような事柄、即ち、無限定なものが含まれている事柄についてである。そこで、我々は、重大な事柄に関しては、我々自身を信用せず、状況を見分けるのに十分な力を持たないと考えて、共に思慮する者を呼ぶのである。」26(ニコマコスⅢ)

恒常性を基本原理とする能力であれば、機械がとって代りえる能力であり、本来の人間理性の為すべき仕事ではないことになる。・・これに対して本来の人間理性は、不定不明の人間行為の世界の中で、未知の他者と出会いながら、何を為すべきかを選び取る倫理的能力なのであ(る)、・・




所見;彼の奴隷観には、実際の人間というものとの乖離が見られる。そこはアリストテレスらしからぬということではないのだろうか?
それだけ往時の奴隷観という偏見が強く社会に固定化されていたということなのかも知れない。(ピグマリオン効果)
こうした資料を通じて、古代の奴隷、それもギリシア圏における実際を垣間見ることができ、それはαγαπηという慈愛の意味を探る材料と提供するものと成り得るように思う。
今日なら差別主義の汚名を免れないところながら、一面では今日の民主主義に於ける衆愚の実態を指摘するような箇所も散見される。古代の奴隷観念は、教育の可能性を過小評価しているだけでなく、古代の人々の置かれた下層民への啓蒙の薄い状況を知らせるものではある。しかし、今日においても教育されるだけですべての人に同じように徳性や理性をもたらすことは出来てはいない。その根底には、個人の中の「何か」が反応しない人々もどうしても現れるからのように見える。「衆愚」というものを形作る「何かの作用」が普遍的に働いているのであろう。
現代に於ける奴隷のような境遇を作っているものは、古代と変わらない不可抗力的状況も今日同じように作用しているように見えると同時に、個人という中からも選択的に起こっているものがあるかもしれない。
例えれば、教育の価値の不認識で、これは教える側にも教えられる側にも有り得る。加えて、本人の資質もあって、それは先天性なのか後天的なのかよく分からない。幼児期に形成されるようにも見えるが、それだけでもなさそうだ。幼児期には母親の、その後は父親の資質が関係するのかも知れない。だが、人の資質の形成には教育の成果とは異なる分野がある。根本的な「精神の基本構造」のようなもので、これは遺伝しないらしい。また、周囲の人々からどのような影響を受けるかでも相当に異なる。特に成長期の仲間の及ぼすものは他では得られないほどの力を及ぼす。(アレクサンドロスと学友たちが挙げられるが、父フィリッポスの教育への見識は驚くほど高い)
それにしても、今日、様々なタイプのロボットが現れて、人間から単純肉体労働はもとより、自動運転車から農作業ロボット車まで登場しようとしているこの状況をアリストテレスが見るなら、どう考えるだろうか?
彼はこう書いている『機織り機が自ら機を降り織り、爪が自らキターラを爪弾けば*、棟梁は下働きを必要としないし、主人は奴隷を必要としない』25
彼は奴隷や職人の知恵を「道具的理性」と呼び、倫理的価値と対照しているのだが
では「生まれながらの奴隷」とは何であるか? *(これは演奏という行為を単純化し過ぎている)
直感的理性と思考が異なるか?
今後、人間はますます人間らしい創意を持たなければ仕事にありつけないという、当時とは真逆の新たな難問への知恵を彼は語れるものだろうか?というのも、職種によって失業が必然を迫られる事態が今、現に進行しているからである。今や、職の転換を適切に導く必要と、同時に、非常に有効な教育が求められている。おそらくは、どちらも後手後手に回ることであろう。
加えて、今日の社会に於ける個人は専業を専らとしていて、横断的職種は非常に少ない。個人を社会が紹介する際には、凡その住所と氏名年齢と職業が提示されるのが習慣化している。つまり、人のアイデンティティに職種が位置付けられていると言える。社会からのその人認知の方法に於いて、専門に特化するほどに実は奴隷化していると観ることもできる。職種が人格をある程度以上には形成しているのではあるが、では、AIの発達と共にこれはどうなるのか?また、そもそも人としてあるべき姿とはどのようなものか?


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L.Walras(1834-1910)
市場均衡の模索過程に「競り」を行う者を介在させて説明した。
実際には存在しない「競り」を行う者ではあるが、実際に居るかのように需給調整が行われてゆく。
価格は家計と企業のバラバラな意志によって、需給関係を正確に一致させる不思議さがある。そこで価格を変化させる導き手は誰かを捜してワルラスは「競り」を行う者という抽象的存在者を想定して解説をしたが、価格は実際にそのように動いている。

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ダヴィドの歌(詩篇17:14)
『あなたの御手によって人々から、おおYHWHよ、この世の人々からお救いください、彼らの受け分はこの世の命であり、あなたは隠された宝で彼らの腹を満たされます。彼らは子らに満ち足り、蓄えた相続物を子らに残して行きます。』
文脈では、邪悪な者=この世の人々となり、彼らはダヴィドの命を狙っている。聖徒らの直面する終末の事態を予見するような意味あり、この世の基礎的概念ダヴィドの『義』が対照され、彼は神の御顔を仰ぎ見る。

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倫理の発現
食すれば死という「善と悪とを知る木」を神はエデンの中央に「永遠の生命の木」と共に植えた。
前者に禁令を与えたが、アダムらは死という不利益を避けるべく従順である以外に有り得なかった。
そこで神は、彼らも禁断の木も監視することなく、誘惑する第三者さえ許している。
これは神の全能さの不行使であるが、単なる神話と捉えるよりも、何等かの理由があると見做すところから論理的深まりが生じる。
それが人間の主観的な倫理上の決定であり、そこで初めて人は倫理の決定を下したとみることができる。神は誘惑者に裏を掻かれたというよりは、人間が従順を離れて倫理的に自立するためにこそ、悪の原初である誘惑者を用いたのであり、神は善悪に関して圧制では有り得ない。自由なくして倫理決定は行われないからである。
実際、事後になってから神は『人は善悪を知ることに於いて我々の一人のようになった』と霊の存在者らに語り、次いで『永遠の命の木からも取って食さないように』と永遠の命の木の周囲に燃えて回転する剣と、ケルヴィムを配置し、彼らは次の世代を残したら寿命を迎えて創造界を去ってゆくべきものとした。
これは人が倫理上の主観的決定を下すものとして創られたと言え、その結果が悪ければ倫理という他者との関係性に瑕疵のある存在、他者とどう関わって生きてゆくのかを弁えない者に永生を与えるべきでないことをも示唆している。
人間には倫理不全が明らかであり、争いを止めることができない。そこで法と権力を要する存在となったが、それは創造の神の意図するところではなかった。
従って、神が人を裁くというのは、個人の悪行の程度を問題とするのではなく、アダムから伝えられた倫理不全を各人がどう見做すかという点に収斂する。
これがキリスト教で言うところの「信仰」であり、悔いる者には本人の努力の及ばないところでの赦しが与えられ、アダムの血統に生きることから離され、『とこしえの父』となるキリストの贖罪にただ一つの希望を託すことを意味する。
従って、人が『神の象り』に創られたのは、この主観判断を各人が要する者、「信仰」を選び取る事によりアダムの罪とは逆の選択を行うことを意味している。
それは誰も、他の者が代わって行えず、強制もできない個人決定である。
自らの『象り』への神の忠節な愛





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