Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アリヤーと定礎

ゼカリヤには定礎に於いて礎石には七つの目を神自身が彫り込むという。

これは当然、前536年(神殿喪失から50年後)には実現しておらず、更なる将来への予告となっている。
その同じ文脈で、『その地の咎を一日の内に取り去る』と言われる。これが聖霊降下である可能性は低くない。
<加えて、咎がバビロニアに向かうというのは『三分の一』への糾弾が込められているように読める>
黙示録では、封印を解く子羊に七本の角と七つの目があり、この目についてはこの二か所が共通する。但し、その封印が解かれ理解が為されるのは何時かという疑問は解けていいない。

しかし、ユーフラテス河畔からの解放よりは、定礎の方に重きがあるのは明らかになっている。

荒野に道を拓け、とは聖霊の降下の以前を云うとすれば、バプテストとの整合性も得られる。

しかし、問題は大いなるキュロスの働きが、その臨在に先んじることになる点にある。

もちろん、王権領受は顕現であろうから、臨在の始まりは必ずしも聖霊降下の時ではないのかも知れない。
当然ながら、臨在と王権領受の時は異なるのだが、いまひとつ徹底して考えていなかった。

また、聖霊降下が臨在の後になるという点に、本来不都合はない。もちろん王権領受が後になることは元々明白なことだった。

そうなると・・・この辺りの時系列はもう少し辿り出せるように聖書は書かれていることになる。

ここで更なる問題は、王たちが懐に入れてシオンの子らを運ぶという記述がどこに当てはまるのかになってくる。



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