Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ジョン・デユーイ 「新しい信仰」

John Dewey

彼は時折に神と理想を入れ替えて語る。

旧来の宗教では
1.崇敬の対象がバラバラに捉えられている。
2.服従と畏敬の念が表現される方法も雑多で正反対なものもある。
3.何のために、何を得ようと崇拝するのかに統一性も無い。

諸宗教の中からどうしてもひとつを選ばねばならない、とすれば宗教の普遍性について論じる余地はない。
どれほど迷ってもひとつの優れた普遍的宗教に出くわさなかったという不可能性にも直面し兼ねない。
彼は新しい宗教を提案するのではなく、新しい信仰を提案している。古い宗教制度や組織から解放し、民主主義を理想化することを考えている。

今日の宗教観の相違は著しく、共通点を引き出してもほとんど意味が無い。
「特定の教義を植え付けるための装置」=教会
精神を安定させるという成果は何にも増して貴重であり、その感情が生活に充満してゆく。その成果が帰せられる原因は、たいていは起こったことの繰り返しとなる。⇒これはより良き適応である。この経験の作用が宗教的的価値を決定する。
(見えて来た:彼は旧来の宗教のエッセンスと取り出し、適応に用いようとしている。デューイはそれを「より良く生きる態度」として論じる)
1.適合(自分を変える) 2.適用(環境を変える) 3.適応(環境と自分とを変える)

<J.ロック曰く「信仰とは、ある提言者に信頼して同意すること」>

デューイにとって事実に関与しない宗教というものは有り得ない。
彼は科学とドグマやドクトリンが対立していると見做す。

彼の「信仰」とは、「イマジネーションにより、包括的な理想的目的に献身することによる自我の統一」


所見;スピリチャルに近い(「最高道徳」にも似る)。だが、この「信仰」はまず広まらない。その理由は、旧来の信仰に慣れた人々には斬新過ぎで、科学系の人々にも、それが理解できたとしてもあまり意味を成さない。
彼自身が云うような意味とは少し異なるが、やはり「中途半端」である。民主主義を理想化したところで、民主主義自体が汚れを免れず中途半端である。
人間主義的なところが多く、新しそうでいて、その「理想」を掲げるところはプラトン的に古臭い。
彼は、宗教の旧弊を打破するために、信仰の目的をよりよく道徳的に、また自由で知性的に生きるという人間からの視点におき、その手法を科学に類似させる。この目的に於いて既に見るべきものはない。





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