Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

時を人が規定出来るか

果たして神は、キリストの臨在の時期を人に教えているか?

教えるとすれば何のためか?
もし、教えたとすれば、人はそれに気付くべきことになり、時の印を知らなかったり、認めなかったりする者は臨在を否定するという不信仰を犯すことになる。
しかし、キリスト教信仰の要諦に年代認識を含めるべきだろうか?
それは三位一体のように、却ってキリスト教の真髄から離れてしまうことになりはしないだろうか?

つまり、「裁き」の要点が不明瞭となる。
一つには、御子の兄弟たちに親切を示すことを主張しながら、臨在の時期にも信仰を持たなければいけないことになる。
つまり、キリストは到来するときに、「真の信仰者」にだけは御子の「兄弟たちの印」ではなく、その兄弟らの「登場の時期」を教えるというのである。
まして、それに年代計算が関わるなら、ますます信仰とは、聖霊のような神からの直接的啓示を離れ人間の知恵や見識に頼ることになってゆく。

まして、もし、御子の兄弟たちが現れる時代が、まだ実際には来てはいなかったなら、時代の印への認識が先走って、偽の兄弟たちに誤導され兼ねないのである。 そして実際「ものみの塔」という宗派はそのようである。

この宗派信者は然程にこのことを意識してはいないかも知れないが、この宗派の言う「キリストの兄弟たち」の印は、表象物に預かることでもなく、実際には何にせよ1914年という年代を一応は言い当てた、というところにあるのであって、現在の上層部の人々は、その立場の継承に在るという理由ばかりでしかない。

実に、この組織の「義」はいまだにそこに在り、考古学と統計を聖書に結びつけた教理を唱えたところに第一次世界大戦が起こった、というところが「現代の奇跡」のように信奉され、「預言」の内容も徐々に修正されながらも、とにかく1914年という年代を言い当ててみせたところに、この組織への信仰が成り立ってきたのである。

従って、「ハルマゲドンまでひと世代」に沸いた人々の拠り所もそこに在ったのであり、慎重に考えれば、ただ時に支配されるという、何とも奇妙なキリスト教であった。

そこで、危険視すべきはキリストの臨在が既に開始されているという、教理の不確かさである。そのことによって、「キリストの兄弟たち」も現れていることになり、その「証し」は実質的に「年代を言い当てたこと」であったとされているからである。
もちろん、その「証し」は真正なものではなく、不安定な人間由来の教えでしかない。そのため、この年代の数字以外では多くの教えの内容を何度も変更せざるを得なかったのである。それは聖霊の裏付けがあり、新約聖書を記した初期キリスト教徒とは大きく異なっている。


従って、時代を特定することには、どんな宗派であれ非常な危険が伴っている。そこには、神からの明瞭な印を待たずに、自分たちから「時代の印」と思えるものを決めてかかる必要に迫られ、そう思い込むことで神の意志を無視し兼ねないからである。

時代の特定よりはむしろ、聖霊の業という主の兄弟たちの特徴を、主の臨在を見分ける方法とする方がどれほど間違いの怖れが小さく、曖昧な時代認識を必要とはしないことに於いて優れているか知れない。

聖霊という御子の兄弟たちの特徴は、時代の特徴より遥かに明瞭であるに違いない。
彼らは『聖なる者』であり、彼らに宿る聖霊が世界に対して論駁の余地の無い証をするからである。

この場合には、時代の特徴の認識と兄弟たちを見分けるという二つの要点がいらず、唯一つ聖霊の声に信仰を表すだけが求められるのである。


「あなた方は天候の徴を知りながら、時代の徴は理解できない」の句は、まるでものみの塔の見解をイエスが述べているように見える事だろうが、そこでは、ユダヤ体制の終末の時代の印への注意が喚起されていたのではなく、文脈からすれば、ユダヤがそのときにキリストの査察を受けているという認識がなかったことをイエスは指摘して言ったのではなかったか?
(但しMt16:2〜3をאとBは省略している)

時代の特徴はモザイクのように、ある絵を描くということは、二十世紀の初頭に該当するように見えたかも知れない。
しかし、その徴が他の時代にも見えたとするなら論議が崩壊してしまう。しかも、そのようなモザイクような歴史のシミはあちこちに散らばっていているのではないか?この反論に対して時代の徴だけでは全く弱体である。

世が荒れ廃れ、末法思想が流行した時代は洋の東西を問わずあったことであり、その時期に宗教は大きく前進している。

1755年のリスボン大震災は、近代思想の発展途上において大きな影響を及ぼし、多くの人々にこの世の終わりの到来を信じさせるものとなっていたが、こうした事態はその後に何度も現れており、第一次世界大戦の前後もまたそのような時期であった。
ものみの塔は1914年の特殊性を黙示録の四騎士と結びつけたが、その1914年頃の趨勢は、黙示録の陳述と然程整合するものではない。⇒「黙示録の四騎士

いずれにせよ、世界的な災厄を「神からの印」とするには倫理的な問題がある。悲惨な被害を神からの知らせとするからである。
そこでものみの塔は、それをサタンが地上に放逐された結果であるとして黙示録の12章の「地と海の災い」を自然災害に援用した。

だが、この12章の「女」を天界のものとしていることもあり、サタンの攻撃方法に地上の自然災害を含めるのは矛盾している。しかし、信徒らは、この矛盾をまるで問題視してはいない。「地と海への災い」を単独の句として理解するように仕向けられているからであろう。
だが、大災害の度合がエスカレートする今日にあって、ものみの塔に沿って考えたとしても、そこでのサタンの目的が何であるのかがはっきりとはしない。サタン自らが主導するという「この世」に大災害を起こしたからといって何かそうする利点があるのだろうか?


そこで、ものみの塔の主張を支えてきたのが、「七つの時」が2520年であるというもう一つの根拠であった。

したがい、ものみの塔の正当性を保つ最後の防衛ラインが人間由来のこの呪術的で単純な年代計算となってしまっている。もちろん、それは人間の思惑であり、聖霊というような神の出番は要請されず、それに対する信仰は無いようだ。

しかも、その起点となる西暦前607年を、今日まで営々と調査されてきたオリエント考古学の積み重ねをひっくり返して主張しなければ、これも成り立たなくなっている。

19世紀から今日まで、考古学が進むにしたがい、オリエント文明の細かな年代が明らかにされてゆくのを横目に、ものみの塔は人間由来の年代に信仰の基礎を置いてしまったが為に、その間に教理上で全く身動きが出来なくなってしまった。
つまりは、道路脇の溝に車輪をとられたバスのようになっていたのである。

その間に人々は、浸礼を受ければ当たるという宝クジに願をかけるように年代計算に信仰を置くようになってバスに乗り込んで来てしまっており、これに変更を加えることは、信者への裏切り行為以外の何物でもなくなっていた。そこでは歴史年代は宗教化しており、科学の裁量では済まなくなってしまったのである。

その原因は、宗教という倫理の抽象概念に関わるものが、考古学という具体的で解明進歩を続ける不安定な畑違いの分野をなまじ土台として採用してしまったところにある。
科学は盤石な土台ではなく、常に途上にあり変化をまぬがれない。

そこで、ものみの塔は神からの啓示を待つ態度から離れ、持論に固執せざるを得ない状況に自らを追い込んだ。

これでは、神ではなく自分について証しなければならないことになってしまう。これはキリストでさえ避けたことである。

ものみの塔キリスト教世界を政治と淫行したというが、自分たちは考古学と交わって裏切られたのではなかったか? 彼らは、「カトリック以降のキリスト教は哲学と融合した」と批難してきたが、ご自分たちも、年代計算を通して、やはり人間の学問と拙劣に融合させて来たのであろう。

19世紀以来、考古学が進み、かつてと変わった年代を研究結果が提示ようになるのについて、考古学は何ら塔に義理立てする理由なく、また、別に塔を攻撃しようとして年代を変更したのでもない。
科学としての当然の使命に忠実であったのであり、科学は進歩に伴い変化するものである。
その一方で、信仰の基礎的内容というものは変化するべきものではない。 それは上からのものであるべきだからである。

この矛盾の言い訳にサタンを持ち出し、考古学をこの世の誤った歴史認識と言うのであれば、塔は何の歴史認識を正しいと唱えるのだろう。神の認識だと言うのだろうか。 神やキリストが、そこまで彼らの尻拭いをするというのだろうか?

また、彼らが正しいと言い切る理由には、例え、聖書記述への信仰というにせよ、間違いの避けられない人間の思い込みである危険性をゼロに看做せるどんな理由があるのだろうか?

そもそも、七つの時が2520年であるという主張も、相当に危うい聖句の強引な連結に依拠しているのが実情であり、それも古くなり廃された考古学の上に19世紀の主観的独断の土台を据えていたのではないか。

それでもなお、「聖書の示す証拠によれば」などと弁解を続けることは、考古学と宗教教理を混同したことへの責任回避と言う以外に、何と言うのだろう。
この点だけでも、もはやこれは神と信者に対する倫理問題であり、不道徳を犯し、咎ある状態というべきであろう。

やはり、この疑念は払拭できない。
つまり、客観的な考古学を援用して時を言い当てるのがキリスト教の為すべきところなのだったろうか?
この疑問にこの件の要点がある。
この問いを回避し続けてきたのが、アドベンチスト系宗派の最大の弱点であり続けてきたし、今後も当分は変わることはできそうにない。そうしなければ、これら宗派は存在意義を失ってしまうだろう。

殊に、予告した1914年に第一次世界大戦が起こってしまったラッセル派には却って大きな悲劇が始まっていたのである。ものみの塔信仰のかび臭くなった19世紀の土台は今日まで存続してしまったからである。
しかし、近年になって「世代が重なる」とした時点で、既にまったく腐敗したその土台のためにこの組織は、一度がっくりとその時傾いたことを信者は悟るべきであったろう。危険が迫っているのである。その後の上層部は、もはや破廉恥にも偽り教理の上塗りをして破綻を覆い隠す以外になくなっている。 もはや以前のような堂々たる自信が統治体に見られるだろうか。
しかし、これは彼ら上層部にとって、どれほど苦しく、不本意な事てあろう。しかし、これを覆す英断を下せる人物が現れるだろうか?いや、そのように聡明な人物はこうした信仰には深くは関わらないだろう。いよいよこの教理の指導には倫理的に問題があるからである。

この宗教組織の先にあるのは、教理の破綻による組織の難船ではないだろうか? おそらくはモルモンやSDAも後に続くのであろう。「大いなるバビロン」に含まれるまで存続できたものか。
既に確固たる航路は信頼の置けないものであったことが操舵室では明らかとなっており、訴訟という浸水があちこちから始まって、タッキングはおろか船体は傾き、操舵し難い漂流状態にあるにも関わらず、乗客には適切な避難誘導もせず、乗務員を信じて船内に留まるように指示しているではないだろうか?
しかも、個人がそれぞれ情報を得たり、事情を判断して行動することを許さないのである。 そこに見える彼らの関心は、組織の存続にあり、乗客には無いのであろう。
つまり、この期に及んで神の是認にも王国にも入る糸口を探らず、自分も入らないばかりか、大勢の信者たちの集団も「人間製の義」に固執させて、やはり自分に倍して入らないように騙し続けているのではないか。

その独裁国家のような強権はいったい何に由来するというのだろう。神やキリストであるとでも云うとすれば、冒涜的にさえ感じさせる。
指導してきた階層は実質的に年代を言い当てた『恩人』として、巧妙に『威張り散らして』は来なかったろうか?
キリストの名のもとに、これらのことをしてきた以上、上層部は現行の裁判の賠償責任ばかりか、神の御前に厳しく重大な罰を免れないと見るのが道理ではないのだろうか?

しかし、「ふたつの世代」が尽きる以前に、この宗教組織が転覆してしまう必然性の方が、今や明らかに差し迫ったことになっている。これは組織もろともの倫理上の大失態であり、世からさえ恥ずべきことと見做されよう。いや、このスキャンダルは追随者からの財産収奪という形をとって現に始まっているのである。
それでも、依然として自らの安全を信じ込み「人々を救う業」を行って内部に残る方々は、これにどう対処するおつもりか?
あるいは、この「ものみの塔」という宗教現象は、キリスト教の中で信者とそれを眺める人々を躓かせ、失意の内にキリスト教を放棄させるためのサタンの罠そのものであったのだろうか。
その惨状から逃れる時を遅くするほどに、対処も難しくなるに違いない。もし、神への信仰があるのなら、それを良心の内に守ることは個人の行動に委ねられるのではないだろうか。その心は何処に在るかが問われるのであろう。


この宗派が聖霊キリスト教会のように、「その人にだけ分かるもの」としてしまったのは、実際には聖霊が無いからであり、その言い訳としたのがコリント第一13:8であった。だが、この聖句はそれを必ずしも支持してはいない。
しかも、それに対して終末での聖霊の働きが如何に瞠目すべきものであり意義において重大かを知らせる聖句の方が旧約を含めてずっと多い。
これは聖書上の情報統制である。







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