Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

一神教による人間差別

 

三大一神教は裾野に至るまで共通している強い傾向がある。

それが「選ばれた者が救いを得る」という根本的な目的意識である。

大まかに言い換えれば、ある教えに信仰を懐いている者、また何等かの規準に達している者が、救われる選ばれた者という概念であり、それが教勢拡大、また信者獲得の原動力となり、信者を獲得する分だけ「人を救う」ことになるとの大義名分をも持つことになる。

したがって、排他傾向は避け得なくなり、各宗派や集団に属さない人々の境遇は憐れむべきものであるとする以外になくなる。唯一、残る希望は、自分たちの仲間の信者になるというだけのことになる。

この捉え方でゆくと、自派の絶対性が要請され、人種差別のように人々を信仰の有無で分け隔てることが避けられなくなってくる。

また、信仰に在るか否かが「救い」また「命」の分かれ目であると思い込む以上、信者が自分に親しい人に対して信仰を強要する誘惑は非常に強いものと成らざるを得ない。

だが、これは人間関係を歪め、人の評価を誤り、価値観を誤導するものであることは間違いがない。

現に、自己義認の強い宗派に於いて「二世問題」が生じており、ひどいものでは、幼少期から子供を叩いて矯正すれば信仰から離れないと教えてきた宗派があり、長じては精神疾患を負う結果を見ている。

また、「選ばれた者が救いを得る」という観点は、神は人間に一定の行動基準を設けているという教理に向けて容易に誘導されてしまう。

旧約聖書の律法の概念はそれに近いが、律法は生まれながら掟の下にあったイスラエル民族が、メシアによる達成を待ち、その民を備えるためのものであった。

『新しい契約』についても、メシアによる律法の成就によって聖霊を通し『義』を分与される『聖なる者ら』について、その完全な義の分与により『神の子』としての身分を仮承認された状態に入ったことへの、依然としてアダムの罪に在りながらも個人の応分の道義であり、且つ、それが『新しい契約』を全うして、天界への召きに預からせる規準であった。

しかし、ほとんどのキリスト教宗派では、「救い」を信者に請け負ってしまったところから、本来『契約』に属する『聖なる者ら』への規準を、聖霊も無いただの信者に当てはめることで「救い」の実感を味あわせるという欺瞞に陥っている。

その結果となれば、人間差別であり信者への傲慢さの助長という以外にない。

その行いも、人にも神にも「見せるもの」と化しており、誰も逃れられない「アダムの罪」を業によって赦されるものと誤認させている。これはヨブの悔い改めたところであるにも関わらず、その教訓を得ないばかりか、モーセの律法の意義をさえ捉え損なっている。即ち、メシアが律法とどう関わったかの理解が不足しているのである。それではメシアの犠牲は何のためだったのか。

こうした教理を教える側も信じる側も、共に自己救済に関心が強すぎて、神の意図をなおざりにしていると言うべきだろう。

キリスト教の神髄であるアガペーは色あせ、利己主義という正反対の精神を教え、また信じていることに気付いているようには見えないからである。

 

 ⇒ 

blog.livedoor.jp