Notae ad Quartodecimani

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義認を求めて奴隷化するキリスト教 メモ18Jul

時代を問わず人は「義認」を求めるものとなってきた。特にキリスト教には「原罪」の概念があるので、「不信仰者は地獄行き」との教理が聖書の字面から誤解され、今日までキリスト教界でほぼ確定化されている。
これを推進するのが、人間に共通する自らの不倫理性の自覚「罪の意識」と言える。これは世界に広く見られ、「地獄」と漢字でその概念を書き表せるように、他の宗教に於いても同じく存在している。
宗教は違えども「善人と悪人」という区分が人類の全般で意識されており、「悪行」とされる事柄への処置が「酬い」として無いならば、人は自然にフラストレーションを避けられないが、それは人間に良心が備わっていることの証しともいえる。

だが、そこには絶対的な基準はなく、一人一人の「罪意識」は同じにはならない。それは良心の不完全さというよりは、人の自由意志のためと思われる。
エデンで『善悪を知る木』とされたのは、人が神にただ従順で在った状態から『蛇』の誘惑を受けたことで初めて倫理上で自由意志を行使し、そうして『神のようなもの』また『我々の一人のように』独立した存在となっている。そこで始祖は倫理性を犯す形で最初の自由意志を倫理的に行使したため、以後、人類は倫理不全に陥っている。これはいずれの宗教が何を主張しようと現実の世相がその事実を物語っている。

そこで、人は本能的に自覚する『原罪』に相当するものの悪影響と、自らの断罪から逃れようという潜在的意識が働いており、また、実生活に於いては人同士の間に仮定的でも何等かの基準を「法」として設ける必要が生じてきた。それゆえ、エデンの禁断の木が『善悪を知る木』と称されたのは相当であり、神の先見の一端が見られる。但し、禁令に従うことでも、やはり始祖は自らの自由意志を表明したことになり、別の意味で『善悪を知る』ことになったともいえる。

ともあれ、人は宗教を教えられる以前から、「罪意識」という土壌をもっているので、自分の実際から昇華されることを願っている。人は生まれながらに何らの絶対的道徳律をもっていないので、良心だけが指針となるが、これは人によっても状況によっても変わるもので、倫理に於いて良心は絶対の基準とならない。
そこで人々は、自分の生活や行動を導く決定的な指針なり指導なりを求めがちになる。そこでそれを教えると称する教師らの活躍する場が出来上がることになり、「神はこう言う」と教えると、人々が簡単に従ってしまうのを見ることになる。

そこでキリスト教が「原罪」を説くことによって、「贖い」という赦しを伴う解決法が示されると、それを直ちに獲得したいという強い欲求に駆られることになる。
それは『神の裁き』という聖書の概念を無効にさせるよう、教理に向かって働きかけてしまうが、それを実際に取り仕切ったのがキリスト教の教師らであった。
こうして聖書中の句は本来の意味が軽視されるようになり、教師と信者の都合に合わせた「信仰による義認」と「天国行き」がセットされるようになった。もちろん、これには大きな誤解があるのだが、人の欲のため、もはやキリスト教界に在っては動かし難い「真理」となっている。

それでも『神の裁き』の存在もまた聖書中に在って動かし難く、そこで「信者の救い」という折衷案が様々に考案されてきた。
だが、これは信仰の有る無しによる差別の他ならず、意味からすれば単なる人種差別をも超える醜悪なものであるのだが「クリスチャン」の大半は気付いておらず、教師らは教勢の拡大のためにそれを利用してきてしまった。即ち、「信じて天国に行くか、信じずに地獄に堕ちるか」という基本信条にそれが見える。
ここで、教師らの中には、内心でも信者を命の脅しによって奴隷化できることに気付き、都合よく信者の集団を利用するに及んできた。その極端な例がカルト集団と言える。

カルトは、一般の人にとってその教理から判別するのは難しいが、その組織構造を教理を別にして見ると、強い共通性を持っていることが明らかとなる。それが「隷属」である。
その点では、教理の理解が進まない人の方が、知的で理解力のある人よりも賢明にカルトの本質を見抜くことになり、それはカルト集団に高学歴の信者が多いところにも裏付けられる。
これはキリスト初臨で、宗教エリート階層よりも『地の民』とされ蔑視された人々がメシアを見分け、一方で聖典と道徳規準に通じた体裁の良い人々の大半がナザレのイエスを蔑視したところにも見える。

こうして、パリサイ派がそうしたように、ラビの仔細に亘る生活上の規則に隷属することとなり、そこに「義認」による「善」を得ようと懸命になった。
キリスト教は本来そのようなものではなかったにも関わらず、同様に「神に是認される者」となり、自分の倫理不全を繕うための基準を求め始め、こうしてキリスト教の進取性はユダヤ教の『ハガル』のような奴隷状態へと後退していった。即ち、信者となることを含めての規則による自己存在の危うさと『神の裁き』の回避行動である。

このように、キリスト教というものを、あるいはその他の宗教であれ、その教理からではなく、人に対する倫理上の意義から見て行くと、相当に重い問題を孕んでいながら、人の欲のために強固に存立してしまっている姿が明らかとなってくる。
もちろん、これは本来のキリストの精神に沿うものでないばかりか、あからさまに反対方向にあり、現代に於ける「パリサイ主義」のようであり、最も初臨のキリストに抵抗した勢力の精神というべきものとなっている。


・「今、この世の裁きが行われている」jh12:31を、使徒について語った「劇場の見せ物となっている」1Cor 4:9と関連付けるのは、随分と的外れになる。この「劇場」[θεατρον]とは、この文脈からすると劇を見るための施設を表しておらず、凱旋行進の「最後に引き出される」捕虜が、獣刑などの死刑によって最期を迎えることを言っており、しかも、パウロ自身はエフェソスで獣刑を受けたことをほのめかす記述がある15:32。これは「新しい契約」を完全に履行する手本としての使徒らが、人や天使の注目するところとなっており、彼らは率先してキリストの道を全うする必要があったことを云うのである。
ましてSDA系の「予審裁判」[preliminary hearing]という発想は、近代英語圏の発想に過ぎず、キリストの犠牲の意義を度外視し、結果として律法的な業による救済の型に戻すことになる。ものみの塔などの(聖霊降下以前の)個人の業によって(救いというよりは生き残り)神の是認を得られると説く宗派は少なくない。また、最近はメシアニックジューなど、トーラー信奉を残しつつキリスト教というよりは「メシア信仰」を称するという派もあり、トーラーが神からのライフスタイルを確立すると信じているらしい。規則によって自己義認の安堵を得る欲求は、広範なキリスト教界にも共通しており、メソジストなどはまさしく生き方のメソッドを聖書に見出そうというものである。いずれも、人々が自らの道徳性に対して懐く漠然とした不安を教導者が利用し、信者を拘束しているところは然程変わらない。その結果、信者は間断の無い緊張を強いられ、しかもキリストの犠牲が適用されるのは善行を行う者であるという不安を煽ったトリックによってユダヤ教のシステムに引き戻されている。これは教導者が信者を支配するには好都合ではあろうが、これらは業への奴隷化(ハガルの子)であってキリスト教のあるべき姿からは大いに離れてしまっている。それにしても、これほど広く神の審判を恐れ、それを業によって回避しようとする願望が存在することに驚かされる。あるいはトーラーとは、この性質の悪い人間の病根を焙り出す役割をも荷っているのかもしれない。


・ほとんどのキリスト教の教理では、信者が神の是認を受け、または、ある基準に到達している状態にあるなら、審判を終えてしまった状態を請け負っている。人には漠然とした罪の意識があり、それを裁く良心を刺激する正義の源泉、または上なる者への恐れが普遍的にある。(無いのは病的なサイコパス)これを宥め、利用し信者を信者として支配することがほとんどの宗派のシステムとなっており、あまり例外がない。圧制的な宗教が存在することは、人間に罪悪感とそれに伴う罰の恐怖が生来的に存在していることの証拠でもある。つまり、人の弱点に取入った詐欺である。なぜなら、真実に神が人をどう裁くかをこれらの宗教は保証してはいないし、保証するとしたところで、そうならなかった時の責任を負えるわけもない。そうなるとすべてが最初から自己責任であったことになるからである。


・人には自己義認の欲求が有り、自分を正しさに於いて絶対評価されたい願望がある。そこである人々はキリスト教に向かう動機を得て、やがて、聖書までをも自己正当化に用いようとし始める。これは旧約の律法時代から顕著で、聖書を正しく理解し、その規準に従う自分を神の是認の中に在ると見做すことで、その欲求を充足させる。また、同じ信仰の仲間からの承認欲求も加わって強化される。しかし、神はそれに保証と与えない。なぜなら、人はことごとく裁かれる以前の罪人であり、自分には罪は無いとする者をこそ断罪するからである。
この点で端的な誤用例は、ものみの塔の集会に於ける「注解」と称する信者同士による意見の発表であり、巧妙に仕組まれた自己義認と承認欲求の充足を利用した継続的な意識操作という以外にない。信者は自ずから自己の見解を考慮中の文章の作者及び教導者のものに合わせて調整を繰り返してしまう。その結果、自己判断は萎縮し、指導側の教えを記憶することが主な思考作業となり、人間の正義が神の正義として集団の中で無批判に捏造、増幅されてしまい、個人の判断力は宗教行為の深まりに連れて減衰し、信仰信条は他人任せの脆弱なものとなって、教導者は簡単に大半の信者の精神的支配者「神の経路」として君臨することになる。だが、これは冷静に判断できるなら稀なる異常事態であることに気付けるはずであろうに。そこで麻痺剤として作用するのが義認妄想と承認欲求となっている。これは共産・社会主義独裁体制下での「批判集会」に本質は近いものがある。集団の同化圧力を利用した精神的圧制であるので、どちらも個人で思想を自由に考察評価することが許されず、外界から遮断される。その隔絶の理由はまともな理性判断に耐えられる教条ではないところに原因がある。特定の人間の指導を絶対化するために、多様な思考力を結集して進歩向上することを拒絶する代償は破壊的である。多数の人間が居るにも関わらず、そこには僅かな頭脳だけが無批判に思考するため、全体が愚昧に行動させられることになる。これは『神の象り』の棄損、人間理性への冒涜であろう。



・支配欲を充足させるひとつの方法は恣意的に振る舞うことであり、理不尽なほど支配権を自覚できるのが人間の悪魔的な性である。協議や同意と経ない法律の変更などは最たるものであり、この性向は征服者の強奪に見られるように、人間の最も奥底に潜む直視するにも堪えないほどの醜悪な部分となっている。その貪欲に従う横暴さこそが支配の目的であろう。被支配の個人など尊重されるわけもなく、かつては君主が、現在は名目上は体制が賛美される。こうして権力はこのために利用されてきたし、されている。しかし、ロックが抵抗権を認識するまでもなく、被支配者は必ずしも黙ってはこなかった。そこで闘争が起り、権力者の交代が起ってきたが、この「輪廻」のサイクルに飽きた民は、民主制を採用し始めた(これはグレコローマンとは異なる)。幾らか(煩悩解脱的に)進歩的な人間重視を目指した体制の構築ではあったが、これも衆愚という病弊を荷うものであり、市民としての啓蒙を前提としていたが、これはあまりうまくいっていない。しかし、それでも人格を否定し、あらゆるプライヴァシーを奪う子供染みた絶対的圧制よりは自由度は相当に高い。今日、ほとんどの圧政国家が民主主義と共和制を謳うのは、被支配者への見苦しい洗脳のプロパガンダになっている。ふたつの支配制度は相容れず、今後、猛烈な対立に進む必然は見えている。どちらが危ういかと言えば、強靭そうに見えても被支配民の根本的同意なく非常に腐敗し易い圧政国家の方である。





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