Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

人間意志の自由 エラスムスとルターの不毛

エラスムス

エラスムスの自由意志の定義
「人間が永遠の救いへと導くような事柄へ自分自身を適応させたり、あるいはそのようなものから身を翻したりし得る人間の意志の力」
ルターの反駁
「永遠の救いへと導くような事柄とは神の言葉と業を意味する。それ以外には神の恩恵や永遠の救いへと導くような事柄は何もない」「神の言葉と業について神ご自身以外に何もない」「(エラスムスの主張は)明らかに神性を自由意志に帰するものだ」

神の人の意志に関する予知について、予知は予感と同じではないと主張した。 代わりに、エラスムスは、日食が起こることを知っている天文学者と神を比較した。 天文学者の予知は、日食を引き起こすものではなく、宇宙の働きの詳細な知識から何が来るのか、知識だけである。 エラスムスは、宇宙と人類の創造者として、神は自分の創造物に非常に精通していて、神のはっきりした意志に反していても、来るべき出来事を完全に予測することができたと考えた。 彼は、預言者ヨナとニネベの人々の場合のように、人類の悔い改めに直面している差し迫った災害の預言的な警告を提供する神の聖書の例を引用する。

エラスムスは人間に自由意志がないと、神の戒めと警告は無駄だと主張した。 そして罪深い行為(そしてそれに続く災害)が実際に神の予定の結果であったならば、それは彼が彼らに強制させた罪のために彼の創造物を罰する残酷な暴君となってしまう。 むしろ、エラスムスは、神が自由意志で人類に恵まれ、人間の特質を大切にし、善と悪との間の自分の選択に従って報いたり処罰したりしたと主張。 彼は聖書の大部分が暗黙的にまたは明示的にこの見解を支持しているとも主張し、神の恵みは人間が神を知るようになった手段であると同時に、人間を自らの自由を求めて支持し、神の法に従うことなる。

エラスムスは最終的に、神は多くのこと(人間性を含む)を妨げることができると断言したが、そうしないことを神は選択したとする。 神が積極的に関与することなく、起こる(または起こらない)ことを許したので、神は多くのことに対して責任を負うと言われることができたとした。
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■ルター
意志は救いに関係のある事柄において何事か成し得るのか?
神は偶発的にあることを予知し給うのか?-神は偶発的にあることを予知し給うのではなく、神の不変で永遠に誤ることのない意志によって一切を予見し、約束し、為し給うものであると知ることもまたキリスト者にとっては、とりわけ必要にして有益なことである。この電撃によって自由意志は徹底的に打ちのめされ、打ち砕かれるであろう。
人間が自分の救いを働かせることを罪が無能力にし、自分たちを神に導くことが全くできないのは罪が理由である。そういうものとして、人間の自由意志はない。なぜなら、彼らの持つ意志は、罪の影響によって圧倒されるからです。議論中の教説とエラスムスの具体的な議論の両方の論点の中心は、神の力と完全な主権に関するルターの信念にあった。

贖われていない人間は障害物によって支配されていると結論づけた。死の世界の王子であるサタンは、より強い力、すなわち神によって圧倒されない限り、彼が自分のものと考えるものを決して放棄しない。
神が人を贖うと、その人をかつての罪を含めて全部贖い、それが解放されて神に仕えるようになる。誰も自分の意志で救済や償還を達成することはできず、人々は善悪を選ぶことはできない。罪ある人は自然に邪悪に支配され、救いは単に神の産物であり、人の心を一方的に変化させ、罪から救う。

「聖書の中には隠されていることもあって、すべてのことが明らかにされているわけではない 不明な事柄が含まれている事柄は明白なのである。とは実に不敬虔な教皇神学者たちによって言いふらされていることであって、エラスムス君、きみもまた 聖書そのものが不明だと言いたてることは、まことに愚かであり、 ここで教皇神学者たちの口ぶりをまねて語っているわけだ。
わたしもまた、聖書に不明瞭で隠されている多くの箇所があることを告白する。しかし、それは内容である事柄の荘厳さのためではなく、わたしたちが語彙と文法とに無知なためである。とはいっても、そのような箇所があることが聖書の中に含まれている内容のいっさいを知るのに障害となるものではないのである。封印が破られ、墓の入り口から石が転び退けられて、神秘の中の最大のもの、即ち、神の子キリストは人と成り給い、神は三つにして一つでいまし、キリストはわたしたちのために苦しみを受け、かつ永遠に支配し給うであろうということが明らかにされたあとで、これ以上に崇高な何が、なお聖書の内に隠されて残っていることができようか。聖書からキリストを取り除いて見よ、ほかに何が残るというのか。
それゆえ、たとえ聖書のある個所が、言葉はいまだに理解されていないために、なお不明であっても、聖書に含まれている事柄は明白なのである。聖書の中の一切がきわめて明るい光のなかに置かれていることを知りながら、若干の言葉が不明瞭だというだけで、事柄そのものが不明だと言い立てることはまことに愚かであり、不敬虔なことである。・・」
教皇神学者たちがあるいは少なくとも彼らの父であるペトルス・ロンバルドゥスが教えていることの方が、これよりはるかに我慢のできるものだ。彼らは、自由意志とは識別の能力のことであり、次に。選択の能力であって、その能力ももし恩恵が臨在すれば善を選び、反対に恩恵を欠けば悪を選択する能力である、と言っており、アウグスティヌスと共に明らかに自由意志とは自発的な力では堕落すること以外は為しえず「罪を犯す以外のことには役に立たない」と考えているのである。それゆえアウグスティヌスも「ユリアヌスを駁す」の第二巻で「自由というよりは奴隷である」と言っている。#
だが、君は自由意志の力を善悪いずれの側にも等しい力を持ったものとしている。なぜなら、、それは恩恵がなくても自発的な力で善に向かって自分自身を適応させ得、また善から身を翻しさせ得るからである。さて君が「自分自身を適応させ得る」というとき、君はこの自己とは自分自身とか云う代名詞でどんなに大きな事柄を自由意志に負わせているかを少しも悟っていない。君はこれらの言葉で聖霊をその一切の力と共にあたかも余計なもの不必要なものでもあるかのように完全に排除しているのである。」
「キリストが『わたしに味方しないものは反対する者である』と云っておられる通りなのである。キリストはわたしに味方でない者は反対する者ではなく、中間にある者だなどとは言っておられない。なぜんなら神がもしわたしたちの内に居たもうたなら、サタンは離れ然り、ただ善を欲する。しかし、もし神が離れて居たもうたなら、サタンが臨在し、わたしたちの内にはただ悪を欲すること以外無いであろう。神もサタンも単純で純粋な意欲などというものをわたしたちの内に赦していない。」
[奴隷意志論 De Servo Arbitrio 1525]⇒MEMO

アウグスティヌスの引用は正確なものではないが、この後の言葉が「奴隷意志論」の主題を与えたとされる。
⇒ 「ルターの意志論」
ルターの意志論 - Notae ad Quartodecimani


<ここに、数時間かけて書き付けた部分があったが、このはてなブログのライターの不調により、長文を失ってしまった・・ルターの論議が子供のように頑なで、もう一度書こうとも思えない(ファラオを神は頑なにした、に関するふたりの言い分であった)>

ただ、ルターの神認識の前提をノートすると
1.神は全能であり、可能性だけでなく現実に於いても全能である。
2.神は一切を知り、且つ予知し、誤ることも欺かれることもない。

これに加えて、人は神の霊の恩恵なしには何事の善も行えないという前提もある。


エラスムスは翌1526年にHyper aspistes(再反駁)を書いているが、ルターの引用の不正確であることの指摘が目立つ(ルターは反駁を一気呵成に書いたらしい)

この論争の背景には、エラスムスカトリックとしての難しい立場があり、一方でルターは反カトリックの道を突っ走っていたことがある。純粋に人間の意志が自由か否かを論じる前に政治的バイアスが生じているうえでの論議であることを踏まえる必要がある。エラスムスは明解に言えず、ルターは激情に暴走しているかのようで、初めから両者にはバイアスがかかってしまっており、言葉の表面だけの論理で終わっていないうえに、共に真摯に向き合うための土台を欠いていた。読者はそれに付き合わされることになる。

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ルターと他の改革派は、人類は罪によって自由意志を剥奪され、神の予定は死の領域内のすべての活動を支配したと主張した。 彼らは、神は全面的に全能で全能であると考えた。 起こったことは神のはっきりした意志の結果でなければならず、事件の神の予知は事実上事態を現実にもたらしたとする。
しかし、エラスムスは、予知は予感と同じではないと主張した。 代わりに、エラスムスは、日食が起こることを知っている天文学者と神を比較した。 天文学者の予知は、日食を引き起こすものではなく、宇宙の働きに親密な親密さから何が来るのかがその知識である。 エラスムスは、宇宙と人類の創造者として、神は自分の創造物に非常に精通していて、神のはっきりした意志に反していても、来るべき出来事を完全に予測することができたと考えた。 彼は、預言者ヨナとニネベの人々の場合のように、人類の悔い改めに直面している差し迫った災害の預言的な警告を提供する神の聖書の例を引用した。

エラスムスは人間に自由意志がないと、神の戒めと警告は無駄だと主張した。 そして罪深い行為(そしてそれに続く災害)が実際に神の予定の結果であったならば、それは彼が彼らに強制させた罪のために彼の創造物を罰する残酷な暴君になる。 むしろ、エラスムスは、神が自由意志で人類に恵まれ、人間の特質を大切にし、善と悪との間の自分の選択に従って報いたり処罰したりしたと主張した。 彼は聖書の大部分の大部分が暗黙的にまたは明示的にこの見解を支持していると主張し、神の恵みは人間が神を知るようになった手段であると同時に、人間を自らの自由を求めて支持し、 神の法に従うことになる。

エラスムスは最終的に、神は多くのこと(人間性を含む)を妨げることができると断言したが、そうしないことを選択したとする。 神が積極的に関与することなく、起こる(または起こらない)ことを許したので、神は多くのことに対して責任を負うと言われることができた。

エラスムスは、ローマカトリック教会に対する彼自身の批判にもかかわらず、教会は内部からの改革を必要としており、ルターはあまりにも遠くに行っていたと信じていた。 エラスムスは、すべての人間が自由意志を持っており、予定の教義が聖書に含まれている教えと一致していないと主張した。 彼は、事件の神の予知が事件の原因であるとの信念に反して、悔い改め、バプテスマ、および改宗の教義は自由意志の存在に依存していると主張した。 彼は同様に、恵みが単に人間を神の知識に導き、イエス・キリストの贖いによって救いに導く善と悪の選択の自由の意志を使って彼らを支えたと主張した。

ルターの反応は、人間が自分の救いを働かせることを罪が無能力にし、自分たちを神に導くことが全くできないことを罪が理由とすることであった。そういうものとして、人間の自由意志はない。なぜなら、彼らの持つ意志は、罪の影響によって圧倒されるからである。議論中の教説とエラスムスの具体的な議論の両方の分析の中心は、神の力と完全な主権に関するルターの信念である。[奴隷意志論 De Servo Arbitrio 1525]

ルターは、未償還の人間は障害物によって支配されていると結論づけた。死の世界の王子であるサタンは、より強い力、すなわち神によって圧倒されない限り、彼が自分のものと考えるものを決して放棄しない。神が人を償うと、その人を遺言を含めて全部贖い、それが解放されて神に仕える。誰も自分の意志で救済や償還を達成することはでききない。人々は善悪を選ぶことはできない。自然に邪悪に支配され、救いは単に神の産物であり、人の心を一方的に変化させるものではなかったと考えた。ルターは、神は全能で全能ではなく(引用が必要)、創造よりも完全な主権を欠いていると主張し、そうでなければ神の栄光に侮辱していると主張した[Luther contended, God would not be omnipotent and omniscient(citation needed) and would lack total sovereignty over creation, and Luther held that arguing otherwise was insulting to the glory of God. ]。したがって、ルターは、エラスムスは実際にキリスト教徒ではないと結論づけた。

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◆所見
古い!キリスト教界の暗黒の歴史から逃れ出ようとしていながら、やはりその暗闇を前提としているので、視界が晴れない。
「堕罪によって人間の自由意志の行使にどのような影響が出たのか」これが論点になっていて、ルターは、「人は神の前に自由意志を行使できない」と言い、エラスムスは「神は人の自由意志の選択を予め知ることができた」という意味で、「人には依然として自由意志を行使できる」という。
だが、神はアダムの決定を予知していたなら、二本の木の選択は無意味ではないか?ルターは「神の全能性」賛美で、エラスムスは「人間に自由を与えた神」を賛美する。なるほどルターは「ヴィッテンベルクの教皇」と言われただけのことはある。エラスムスの方が一段高尚ではあるが、今一歩、というより、それを言うことが立場上許されなかったのだろう。

そこで、神は人間の自由意志を尊重し、予知しないということが有り得るととれば、この論争は収束するのではないか。神はアハブ王の悔いを喜んでおり、マナセ王にもそうしている。もちろんニネベの住民にもそうであったが、ヨナ書だけはヨネ自身が主人公であって、例とするにはそぐわない。そこで神は明らかにニネベの民の意志を予測しヨナの反応も予測している。だが、他の例ではそうは言えない。ヨナは余りに例外的なので、普遍的議論に向かないが誰が論題にしたのか?
それからファラオについては、パウロがローマ書9章で『憤りの器』として『形作る』とされているように、本来のファラオの性向の上に、『頑なにならせ』神の意志を成就させる器としているのであって、ファラオ個人の自由意志は既に行使された後のことである。
それに加え、パウロ自身は自分がみじめな人間であり、自分の思う所を行わず、罪に引かれてゆくと述べたが、この葛藤は、彼の内に自由意志があればこそ生じたものと言える。つまり、個人の内面では、自己をその意志によって判断している。それでも行いにその意志が反映されないことを嘆いているのであり、人が懐く「信仰」はその想いの中で懐かれるものであるから、「信仰」そのものは自由意志の行使となる。もし、ルターが信仰を「恩寵」と見做して、信仰すら神からのものであるとするなら、それは倫理上に越えがたい矛盾をもたらすことになる。

それから、当時の二人を巡る情勢からすると、ルターはエラスムスと論争をするきっかけを待っていたようなところがあり、殊更に、とっかかりとなる案件を針小棒大に扱う謂われが有ったように思える。だが、背後にはカトリックからの完全な独立を目指すルターの思惑が、エラスムスへの嫌気を誘っていたというのは、その通りだろう。

なお、この論争の根本には従来のキリスト教徒に於ける「神の是認を受ける信徒」というヴィジョンが通底している。自分たちは神に受け入れられており、聖霊も注がれているという絶対的な前提であり、非キリスト教徒を神の恩寵の外に置くところでは変わらない。これがキリスト教界の一貫した独善的歴史を形作り、改革を通しても変わらず、むしろ聖書主義、信仰主義などが、却って独善の度を深めている。
また、信者は神とサタンの善悪のゲージの上を行き来するという、悪しき律法の業による義の獲得に近付いている。この点で思い浮かぶのは、ルターの背後には選帝侯フリードリヒの権力があったことであり#、それゆえ「この世」というものの見方に神の是認や恩寵を有する世界観が拭えなかったことがある。
ルターの方は『世界が邪悪な者の配下にある』という観点が薄らぎ、宗教指導層を介して社会が神の恵みの下にあるという大前提の上で議論している。そこでいくら「奴隷だ」と云ったところで、神の臨在をや恩寵を想定し、奴隷の反対を自分たちに要請してしまっているのだが、この甘さや自信はどこからくるものか? #(これはアウグスティヌスローマ帝国の関係に相似している)

エラスムスの主張の如く、人が自らの方向性を定められないとしたら「裁き」は一切意味が無く必要もなくなる。そこで、人は神に対してまったく選択ができないとは言えない。むしろ、自ら悪を排除できないところで贖いの必要を感じ取り、それを希求することができるし、敢えてそうしないということも選び得る。そこで選択を導くものが聖霊の「力の表明」であって、『味方しない者は反対する者』という言葉は、聖霊の顕現を前にした人の選択を言われるのであり、聖霊を前にしてはじめて人にどちらの側に着くかを試すものとなる。それまでは「中立」ということではなく、依然として罪人ではありながら、神の前に裁かれてはいない状態に在るばかりである。

ルターの論旨の背景には、「塔の経験」に表れているように、修道の矛盾からくる「業」とは対立する「信仰」というアンチテーゼが強く働いているように見える。しかし、人間だけでは善を行うことはできないとすると、この世の一切は邪悪に染まるが、そこで神とサタンの綱引きをさせることは信徒に要らぬ緊張を課することになるし、同時に人間の意志がどちらにも向き得ることを認めていることにもなる。また、信徒をして安易な恩寵への安堵という幻想も観させることにもなる。その子供のゲームのようなルール付けは妄想という以外ない。
この他に、根源的な問いとして、「『罪』を負っている人間が神の側を取り得るか?」ということはある。
しかし、これは「裁き」がある以上、自由な選択がないわけもない。そうでなければ神の裁きは倫理もなにもなく、救済されるアダムの子孫は皆無だといっていることになり、キリストの贖いを無価値に陥れるのであるから、これは有り得ない。

そこで、『聖霊によらなければ、誰もキリストは主であるとは告白できない』1Cor12:3の句を用いて、信仰を抱いたことさえ「神の選び」だとか、『この世の基が置かれる前から、神はわたしたちを選ばれた』Ep1:4の句で運命が予定されているとはいう主張が、聖霊と聖徒の概念無しに論じられるのを見ることがあるが、これはパリサイに数倍した自己義認者を造り上げてしまう。『聖霊によらなければ・・』とは、聖霊ではない力の働きとの対照としてパウロは語っており、『この世の基が置かれる前から』とはエデンで語られた『女の裔』と成り得る『新しい契約』に預かる者として聖霊の仮承認を与えられた『聖徒』の立場について語られた言葉である。
しかし、ルターもカルヴァンもその辺りは旧約の理解の上には立たなかった。そのためその理解は表層をなぞるもので終わり、裁く神を無効化しJob40:8、却って異様に神秘主義的な異教のようなものになっている。ルターは人間の罪の重さを強調する割に、却ってそれを軽視するようなところがある。それはアウグスティヌスを克己することなく、恩寵に耽溺する姿勢のままではないか。どうやらルターは、人間の『罪』である倫理不全を自ら改善し得ないことを拡大して、人は自ら善なるものに到達するすることは出来ないと言っているらしい。
それならば、その通りだが、パウロが悲嘆したように、それを悔い、逃れたいと願う気持は持つことができ、それはその人の意志に間違いはない。それであるから、ルターは(エラスムスも?)現状の人間の行動に於いて善と悪とを選べるか否かを論じて、それを前提としてしまっているので、双方の主張が食い違っているのではないか?共に恩寵がそこに在り得るという前提に立っているのであれば、やはり、それぞれが自分は裁きの以前に居るというその実際の状態にも関わらず、贖いの恩寵に自分たちが値し得ると思い込んでいるのであり、どれほど延々と論議しようと空しい神への甘えの中でのことでしかない。ふたり共に神に関する前提は相当に単純で「全知全能」から逃れられずにいる、その単純さが却って論議を複雑に捏ねまわす事態を招いている。
西欧キリスト教徒とは、どうしてここまで自己評価を高められるのだろう? 実は、自分は救われていると思い込むのが西欧キリスト教なのか?そうなのだろう。聖徒理解が欠けているなら、どうしても聖書の言葉を自分に当てはめることになるのだろう。

それから、ルターの聖書万能に近い観方の背後には、カトリックの余りにひどかった聖書無視がある。その反動としてルターは聖書を高め過ぎて、それに従えば正しいキリスト教を導けるという方向に改革運動の方向付けをしていた。それは改革運動が俗世に新たな宗教体制を提供する役割が生じていたし、また聖書の翻訳と普及という偉業の原動力とはなったのだが、やはり神を聖書に中に語り終えた存在として封印してしまい、聖書の方を偶像化する許多の新教以降の教派の先鞭をつけてしまったことも否めない。しかし、実際に聖書とは神ではない。その言葉は人を分けるものとなりHeb4:12、メシアの現れのときに旧約の言葉はユダヤ人を裁くものとなったが、詳しく知る者ほどその罠に掛かってしまっている。書かれたところよりも書かれていないところによって彼らは裁かれた以上、聖書を自己義認の道具にすることは極めて危険な立場に自分を置く事になるだろう。

近頃というか、ここ数年、様々なキリスト教改革期の本に目を通すたびに、アウグスティヌスという高い壁が立ちはだかっており、これを越えない限り、キリスト教が本心に立ち返ることはできないと思えてならない。
あの神の前での自己義認の特有の甘さの理由は、聖徒の深い権限を自分のものと勘違いしたところからくるのだろうが、余りの自己愛の強さに辟易とさせられる。なぜ、自分に聖霊が働くなどの僭越な思いを警戒しないのだろうか?この世が神の摂理に動かされており、その是認がキリスト教徒に与えられているというのは、アウグスティヌスのように権力との野合の上に成り立つご利益信仰であり、確かに、聖徒については神の是認も意志も働いていたので、それを自分のものと誤解させ得る罠が聖書に有ると云える。これこそは聖書主義の盲点なのだろう。
畢竟、聖書を絶対視したい動機は自己愛のための「偶像崇拝」ではないか。カトリックは余りに聖書を等閑にして本当に偶像崇拝に陥り、結果的にルターの聖書偶像化を後押ししてしまったのであり、どちらも空しい。




⇒「自らの象りへの神の忠節な愛

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エラスムスはヒエロニュモスやアウグスティヌスの全集を次々に出版しているが、マウリ版の以前においては優れた編集上の価値をもっていると
彼自身、ステインのアウグスティヌス修道院に居た際に、その著作に触れている。それから最初の著作である「現世の蔑視について」の中で「もし、それ自身でも美しい真理が雄弁の魅力によっていっそう優美になるのを好むなら、ヒエロニュモス、アウグスティヌス、アンブロジウス、キプリアニュスその他の同類のものに向かう。少し嫌気がさしてきたなら、キリスト教キケロに耳を傾ける喜びがある」と
「エンキリデオン」には、相当量のアウグスティヌスからの影響があるのは明白とも
彼も神学と哲学の融合を試みており、アウグスティヌス初期の「キリスト教の教え」に共鳴している
カルヴァンアウグスティヌスの書著作を暗記するほどに精通しており、その引用は夥しい
つまるところ、多様な論議アウグスティヌス論議に発する前提をだれも明確には崩さないでいた。
その前提にこそ問題の原因があったようだ。つまり、皆が冗長な大著に畏れ畏みその前提の是非は論じなかった。
例えが適切かどうか分からないものの、何かマルクス資本論のようなところを感じる。




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