Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ルターの意志論

「意志は二人の騎手が相争う駒にも 相似たものであって、結局罪悪と聖寵とが導いて行こうとする方向以外には行くことができない。意志の自発性は根底的に不能なものでしかない。「なんらの力を持 たぬということは無効なる力である。」このように意志がそれ自身では何事もなし 能わぬ、ただ他の者のなすがままになるのであってみれば、どうしてそれが自由だ などと言えようか。むしろ意志こそは《永久不易に隷属の状態》にそれを繋ぎとめ る《不易の必然性》に屈従している奴隷であるというべきである。要するに自由意志などは《空虚なる名辞》であって、この語の使用は神学からは永久に追放される べきである。」De servo arbitrio 1525

「我々は行為の支配者ではなく、徹頭徹尾奴隷である。哲学者への抗議」
「我々は正しく行為したからといって、必ずしも正しくはなりはせぬ。義とされているからこそ、正しきことを為すのである。哲学者への抗議」

「精神は欲する限りで命令するのだが、他方で欲しない限りで命令されない。確かに意志自身は意志自身が存在するようにと命令するのだが、他の意志が存在するように、とではない。自分自身が存在するようにと命令するのである。それゆえ意志は完全に全体としては、命令するものではない。だから命令するものは、完全な意志ではないわけだ。・・だから、意志が一方では欲し、他方ではそうしないという事実は奇妙なことではない。却って、その事実が精紳の病気なのである。 精神が命令することを精紳はしないのである。」(告白)


所見;意志の精紳面と生き物の人間(魂)としての欲求や「罪」の両面が乖離するということはパウロも嘆くところ。だが、パウロはそれで終わっていない。そこをルターは個人の「精神」で要約したなら、そこに違いがある。
しかし、これならエラスムス[De Libero Arbitrio 1524]とぶつかる。こねくり回しているうちに、やがて信仰の秘跡化に向かったか? やはり宗教だけで考えていると、堂々周りを始め、妙なところにこじ付けてゆく。(そのうえ彼は聖書絶対を唱えていた)不完全な人間は不完全な選択きりできないというのはある意味その通りだが、何を理想とするかの価値観を否定はできないのではないか。パウロが言うような『心の思慮[ενθυμησις]と意向[εννοια]とを見分ける』という神の観点が人と異ならないと世の裁きの根拠がなくなり、神の自作自演に陥り、そこに『神の象り』の意義はまったくない。それでは裁きでも何でもない、ただ神有きであり、論理破綻の無限ループに落ちて行く。いくらかイスラームに似ているところを感じる。予定説?ルターは『世のはじめからわたしたちを選ばれた』の句をどう捉えていたか?
彼が自分の内面に悩んだのも、個人の精紳の中で葛藤が在ったからに違いなく、そこにふたつの異なるものを感じていたとは思えるのだが・・
それから、ザクセン選帝侯という政治の側から先手を打たれたようにも見える。尤も、それがなければ、あのルターも無かった。

ジルソン曰く「彼の攻撃は、中世の教会制度を動揺させることではなく、中世の根本的機能のひとつに向かっていった」人は何か巨大なものと戦っている間に、もう片方の極端に傾き易い。聖書無謬論や、奴隷意志論もそうなのだろうと思える。

やはり、キリスト教の信者に「義」があると誤解しているところにも混乱の原因がある。これが解けないと誰であれ、人が如何なる倫理状況にあるものかはどうしても捉えられない。その前に留まっては、何を論じようとも必ず混乱する。


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連合国がナチに勝利した後、ホロコーストなどの余りに非道な政策の責任を負わせる何者かを焙り出す必要が感じられた。
チャーチルはすぐに処刑しろと主張したが、米側は理由なく処刑はできないとした。ニュルンベルク裁判では、被告人に罪状の直接的証拠が無かったが、ゲーリンクをはじめとする戦犯にその罪を負わせないでは道義心が収まらなかった。
だが、極悪非道を行ったのは、直接に指示に従った(アイヒマンら)者も、指示した者が居るのであり、その指示も相当数の国民の同意の上に在った。しかし、その同意は洗脳されていたとなると、誰が洗脳したのかになるし、そもそも先導者は誰だったかを問うのがスジであったろう。しかし、裁判ではこの辺りは曖昧であり、主席判事もこの件を裁くことに元々反対していたのであったから、何が本当に原因であり、誰が裁かれるべきかについては、ニュルンベルクの開廷までに証拠固めなど到底無理であった。しかし、それでも誰かを罪の贖いとして処刑するべき人間の強い道義心が働いていた。ナチスの非道が常軌を逸していたことに、判決を急がせるものがあった。
だが、本当に裁かれるべきは誰だったのか?アーラントの言う「凡庸な悪」は、考えることを放棄した一般人の普通さに根源がある。これはローマ帝国ならDecinatusの刑に処されるところ、さすがに近代以降でこれを行うことは二次民族災害になり兼ねない。そこでA,B,C級戦犯として少人数を裁くことでおとしどころとする以外なかったように思える。
だが、真に知るべきは、一般人が「普通に」憎しみを煽られるままになったところにあり、少数の指導者らに異議を唱えなかった良心の麻痺があったろう。ナチスが自分たちの生活を豊かにしてくれたところで、大多数のドイツ人の精神的傾向は徐々に疑問を持たなくなっていた。そこに怒りを向ける方向が容易に設定された。それを「ドイツ人だから悪い」と云えば、同じことを別の国民が繰り返すことになるし、占領されたフランス人もそうは言うまい。
つまるところ「水の低きに就く如く」民の流れは変えられない。極悪非道を許したのは、平凡な普通の人々であったこと、しかし、弱い普通の一人であるがゆえに多数の強権には逆らえなくなってゆく。これは今日のネットでの「炎上」という同化圧力を生み出す根源ともなっている。多数者は正しく考えているように見えても、少数意見を鄭重に扱うのはたいへん難しい。自分の理解がすべてだと信じ込むからだろう。そこで正義感は容易に敵意に入れ替わる。それであるから、人は反対意見を常に必要としている。それが抑え込まれたときこそ、非道な暴走が起ってきたし、現に起きても居る。
そのことが、ナチスの非道を通して知らされているのだが、人間はこの「真犯人」を探そうともしない。真犯人を一時のナチズムや政治家に仕立てることは難しくないのだが、自分の中にもある「真犯人」を告発できるほど人類は賢くないらしい。被害者であるユダヤ民族のアーラントの冷静な問題提起はここにあったのだろう。だが、今日世界は、その方向に再び向かっている。
真犯人は「憎悪」や「良心の欠如」などの、すべての人に巣食う利己心ではないか?これは誰にも裁けない。誰もがよほど注意していなければならない自己の中のマイナス感情であろう。しかも、それこそが「正義である」とか「平和のため」とか「愛だ」とまで言われると、やがて麻痺が始まる。実は、他人を押し退けるための自分の都合なのだが。
人が、ハッとして自分の考えを変えることは必ずしも無責任ではない。むしろ、固執してきたことから離れられる謙虚さこそ、人の美となるのだろう。出来ないことではなく、自分一人にできるところから変わって行ければ、それを一人一人が行えるなら、害は着実に小さくなってゆく。




・教会員の誤謬
聖徒が契約を保つための生活規準を、契約に無い自分に適用するので、実質的に聖書を自己啓発本にしてしまっている。
「恵み」(カリス)が聖霊注がれたイスラエルである聖徒への格別のものであることを『祭司の王国、聖なる国民』の意識に無いままに、信者であることの特権にしてしまい。周囲への神の慈愛を無にしている。これはつまり、神の意図に反するだけでなく、キリストの犠牲の独占化であり、サタンを利するばかりであり、自己犠牲も人類愛も無く、ただ信者の利益を願うという利己主義への傾倒に他ならない。
「クリスチャン」の最大の悪は、自分が神に愛され嘉されているという妄想にあり、そこから傲慢、尊大、蔑視、偏見などの優越感のもたらす諸悪が出て来る。彼らは「自分が正しい」ので、他の考えを駆逐するための悪行を正当化してしまう。だが、善を装うところで、これほどの悪もない。
仏教には「脚下照顧」という概念があるが、「クリスチャン」には己の道の正当化が専らではないか。原因はせっかくに『罪』の概念をもっているキリスト教を既に赦された身分に自分を置いてしまうからであり、依然として神の前に「裁かれる罪人」である現実を見失い、自分を現実離れした赦しの妄想の中に入れて、幸福がっているからである。


[χάρις]
pleasure 2, misc 7; 156 1) grace 1a) that which affords joy, pleasure, delight, sweetness, charm, loveliness: grace of speech 2) good will, loving-kindness, favour 2a) of the merciful kindness by which God, exerting his holy influence upon souls, turns them to Christ, keeps, strengthens, increases them in Christian faith, knowledge, affection, and kindles them to the exercise of the Christian virtues 3) what is due to grace 3a) the spiritual condition of one governed by the power of divine grace 3b) the token or proof of grace, benefit 3b1) a gift of grace 3b2) benefit, bounty 4) thanks, (for benefits, services, favours), recompense, reward




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