・キリストが「新生」を言ったのは、第一の復活に与る亡くなった聖徒と、地上から挙げられる生ける聖徒の霊への転換を指している。彼らには、その段階で共同相続者としてキリストの義が分けられ第二の死が亡くなる。生ける聖徒も肉体の命を去ることに於いて『キリストへの死のバプテスマ』を受けることになる。
・パリンゲネシアが徒ならぬ理由のひとつに、人種・聖別が関係なくなることが挙げられるGa3:28 この用例は二度だけで、後の復活については使われていない。パウロの言う『格別な復活』というのは、これを指していたのであろう。つまりヨハネの言う『第一の復活』になる。
・血は清めだけでなく汚れももたらす。(Nub35:33)従って、血の誤用とは命に対する軽視とも言える。そこで輸血拒絶をどう捉えるかの問題が見えるが、キリストの血の犠牲が捧げられて以降に神は実際の血を取り扱う祭祀を求めることは無いと云える。血の禁令は律法と共に終わっており、健康上の問題だけになる。確かに血液を取り入れることには害もある。だがヤコブの裁定は、律法を実践し続けていたユダヤ人イエス派在っての状況での判断であったことは使徒言行録の全体から判断できる。今日にあっては、むしろ人命を軽視するならば、それこそが「血の汚れ」に相当し、創造神の本意から離れると云える。
・教会員の主張;「個人で聖書を解釈するのは危険だ」の背後にある事情、読んだそのままでは教会の教えと一致しないところが非常に多い。そこで自己判断を捨て「専門家」に解釈を委ねる。「危険」というのは、自分が恩寵を失わないためであり、自己保身の利己的欲求からくるもので、神への関心を主にするものではない。「専門家」に任せるなら、その結末は「専門家」に任せているのであり、信仰しているのは神ではなく、その「専門家」であり、その宗派や組織である。キリストが現れたときに、「専門家」に判断を委ねていた人々が救いに入ったか?むしろ、キリスト教は律法体制を後にしなければならなかった。
・中庭に軍旗の立ったときには、神殿は既に炎上していた。(戦記Ⅵ:4-5・6:1)
・アンティオケアで見せたティトゥス帝のユダヤ人への慈悲(戦記Ⅶ:45)
・ルカ書中で譬えの続く箇所では、14:1-17:10 譬えが相互に関連しているので、単独で解してはいけない。
・あのシャヴオートの日からエクレシアが始まっていると見ることができるが、それはキリストの犠牲が捧げられる必要があった。
・終末に聖徒が現れるのは、シオンを必須とするようだ。おそらくバプテストの役割を担う者が居るらしい。シオンとそこに集まる人々とは別物のようである。もし、そうならユーフラテス河畔から解かれる使いというのは聖徒ではない可能性も出てくる。内部に聖徒となる人を含むとしても Isa66:21
・コリント第一15:52のラッパは、どうやら第七のラッパに相当するらしい。1Th4:16「主が号令と、天使長の声、また神のラッパの音と共に降るとまず死者が生き返る」=Dan12:1「民の子らのためにミカエルが立ちあがると、国民が生じて以来なかったような苦難がある。しかし、民は逃れる。また、地に眠る者の多くが生き返り栄光と恥辱に至る」=Rev11第七のラッパの音によって「死んだ者たちを裁き、聖なる者らに酬いをもたらす時が来る」
・1Th4:16で「主が降る」≒Rev9:1「天から落ちた(降った)星を見た」⇒蝗害=ヨエル2章 まず、間違いなく蝗害は聖徒の聖霊の働きを表している。そこで天から降る星は、奈落の過去(初代)から聖徒を呼び戻すとも読める。その場合、聖徒らが聖霊に語る時に古代の聖徒も復活するのかも知れない。そうすると、『今から後』という時はその時になるが、黙示録では、それに続いて小麦と葡萄の収穫がある。それは時系列には沿う。この小麦の後には籾殻ではなく葡萄の収穫となっているが、それはヨエル書の順番とも整合している。だが、黙示録12章との関連はどうなるか?これは第七のラッパとは必ず異ならなければならない。それから、三年半の以前にそれより長い期間があるかも知れない。この辺りはアリヤーの実態とは幾らか異なるのだろうか?
・出エジプトの意義は、圧制から離れて神を主人とすることにあったが、それは契約を結ぶものであった。同様に、この世の隷属からの解放はキリストを主人として、新たな契約に至る可能性がある。これは直接に言及はないが『新しい巻物』がある。
・この世がすべてである人は俗である。その視野は自分の生活環境がすべてとなる。俗な心は「上を向く」ことを卑しめ「人生の意味を考える暇があれば仕事をしろ」と言う。それでも、この世に在っては、生殖によって誕生し、世代間の相互扶助によって育まれ、生計を立てるために職を得、結婚して子を設け、子を育て終えて退職し、老後の後に寿命を迎える。これが基本的な務めであり、実際にそうなってきた。これは『生めよ増えよ地に満ちよ』の下命に従うものでもある。それ以上の事柄が求められたのは契約にある人々だけであったと言える。彼らには聖であることが求められた。しかし、契約の外に在ってもト・テイオン(神的な事)に敬虔さを示す人々も存在してきた。「霊的な人」という言い回しはグノーシス主義者が使っていた。
・口語・新改訳・新共同・岩波委員は[Χάρις]を「恵み」と訳す。英訳では殆どの箇所で"grace"となる。例としてRm12:3 但し、153回の使用例の内で一般的英訳では130か所ほどで"grace"とする。これをNWTは"undeserved kindness"とし、日本語版では『過分のご親切』と重訳される。確かに[Χάρις]に対して英語の"grace"は曖昧過ぎるのであろう。その観点からするとEph2:8などは単なる「恵み」よりしっくりとする。
・『天から火』というのは、エリヤを指しているととれば、バアルの祭司450人の死が関係する。これは暗喩かとも思えるが、根拠が弱い。
・ヨーガを行う人を見ていて感じるのだが、単に健康のために終わらない。精紳に影響があるが、それは良いものではなさそうだ。やはりといえばやはりだが、実感されることがあった。それでもキリスト教よりはまだ良いのかも知れない。
・終末に何が起こるかばかりに関心を持つという、その気持ちがどうも分からない。知ったところで自分がどうなるかに関心も無いように見える。その興味を起こす動機は何なのか?預言者の気分を味わいたいのか?だが、神との関係性の希求は非常に薄いように見える。つまり、宗教本来の目的意識もないという・・では何だろうか?競馬の予想屋に似てはいないか?自分の「目利き」の良さが証明される事が最重要らしい。
・「神を見出す」ことよりも「宗教は幸福になるため」という俗論はご利益信仰が当然の世の精神そのものであって、信者に成ることが幸福になると信じまた宣伝される。しかし、キリストの精紳はそのようなものでない。「誰かが幸福であって、誰かが幸福でないということがないことを求める」姿がその自己犠牲の死に見える。この空しい世からの人類の救済という大志は、他者の幸福のために自らを差し出すこと、これに感化されるのがキリストの教えではないか。(コリント第二5:15)アガペーこそが人の抱くべき精紳であり、それが創造物としての完成をもたらす。アガペーこそは神のもの、その本性であり、全創造物はこれによって一つに結ばれるべきであり、その究極の姿をキリストに見るべきである。(ヨハネ第一4:7-14)それと自分たちの利益を求める信仰と何の関わりがあるだろう。
・『民は待ちもうけており』を「年代計算によってメシアの現れを予測していた」というにはどうか?ヘロデ大王がベツレヘム・エフラタの二歳以下の男児を抹殺した事態に関心を見せていない。そうでなければ、ミカの預言だけでメシアの出身地を判断しなかったろう。少なくとも宗教家の間では、ヘロデの虐殺の件は判断材料になっていない。民が独自にダニエルを知っていたというのには、ダニエル自身がエレミヤの七十年を相当後になって知ったケースからも、かなり希望的観測であり、しかも直接の記述は新約聖書にない。
・キリスト帰天後には監臨が有ったにも関わらず、なぜ半週で区切ることが適当か?
まず、ダニエル書自身が、『週の半ばで』メシアの死が祭祀の犠牲を絶えさせることを述べている。帰天後と臨御の違いは、終末では1260日の試みの後、三日半で聖徒らは天に召される。そこでは契約は終わっていると見ても妥当であり、神の前に『罪』ある者が生きられないのであれば、聖徒らは贖いを完全に終えていなければならない。そこで契約は終了している。キリスト帰天後、第二世紀半ばまで聖徒は存在したらしいが、キリストが地を離れたことを以って半週は終了していたと解するべきなのであろう。そうであるなら、帰天後の監臨と終末の臨御とは異なるところがあることになる。また、臨御そのものが『半週』の始まりであるか否かはわたしにはまだ何とも言えない。明白なのは、聖徒が迫害を受けている期間が1260日、42ヶ月である。それはやはり半週年となる。
スペルト小麦、エンマー小麦、カムット小麦などの品種改良されていない古代の小麦は、硬い皮殻を持ち病気や害虫に強いため、有機認定されたものや無農薬で栽培されているものが多いのも特長です。
http://style.vegewel.com/ja/glutenfree/
http://www.spelt-recipe.jp/recipe/point.html
AV - find 174, misc 4; 178 1) to come upon, hit upon, to meet with 1a) after searching, to find a thing sought 1b) without previous search, to find (by chance), to fall in with 1c) those who come or return to a place 2) to find by enquiry, thought, examination, scrutiny, observation, to find out by practice and experience 2a) to see, learn, discover, understand 2b) to be found i.e. to be seen, be present 2c) to be discovered, recognised, detected, to show one's self out, of one's character or state as found out by others (men, God, or both) 2d) to get knowledge of, come to know, God 3) to find out for one's self, to acquire, get, obtain, procure
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