Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「地には災いが来る」

以下、訂正必要な箇所多々あり

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黙示録8:13では、七つのラッパの最後の三つについて『災い、災い、災い』としている。
その以前のラッパについては、三分の一に痛撃を与えるものとなるが、以降の三つは『地に住む者らに災い』とされており、全球的な範囲に及ぶ影響に拡大することを知らせている。
その発端となるのが、アバドンに擬せられたメシアが終末に『底知れぬ場所』[]、つまり遥かな過去(Rev17:8)の鍵を開けることで、ヨエルの蝗の再来を惹起させている。即ち聖霊で語る弟子たちの再来をキリストがもたらし、その発言が世界を揺するとハッガイが預言していたように、それによって世界に激震が走る。それは人類にアダムからの罪があることを告発し、その激痛は人類全体に及ぶことになる。これを黙示録は『第一の災い』と呼んでいる。

その結果として、聖徒らには強い迫害と反対行動が起こされ、黙示録が暗示するように『五か月』という蝗としての寿命を迎えてどこへともなく姿を消すことになる。それをダニエルは北の王の興す権力である『腕』を直接の下手人としている。
しかし、聖徒らの活動は無駄にはならず、彼らの聖霊の言葉に信仰を働かせ、新たに神の側に立場を定めた人々(Joh17:20-21)による、更なる糾弾の宣教が『騎兵隊』によってなされるに及ぶ。
そこで黙示録はこの『騎兵隊』攻撃を『第二の災い』と呼ぶが、黙示録の後の記述(11:14)では、聖徒らが世を去ることを含めてそのように扱っている。

そして、第三の災いは第七のラッパの吹奏に相当するところの『王国の実現』である。
それにより、地はキリストの支配すべきところと神の認可するところとなった。人類は本来これに異論を唱えることはできず、聖徒らの犠牲に酬いが与えられ、彼らも王国を相続する権威を受ける時が到来した。



まず、「アンチ・クリスト」はクリストに代替するもので、聖徒に立ち向かうというよりは惑わすものであって、パウロが『不法の秘事が働いているが、それは今のところ抑制しているものが無くなるまでのことであり、その後に「不法の人」が姿を現す』と語っていることからすると、聖徒の去った後に顕在してくるものらしい。

時期を同じくして、『大いなるバビロン』が滅ぶ。これは聖徒攻撃の使嗾者として復讐を受けるわけだが、これはピラトゥスの『権威を(利用して)渡した者にはこの上なく重い罪あり』としていたようなものなのであろう。(これはその世代の内に処罰されている)
その時、落伍した(「二人のうちの捨てられる一人」である)元聖徒が地上に残されており、彼らは「見よ!ここに居る」Mt24という言葉に惑わされ易いに違いない。
『不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺く』2Th2:9- というからには、モーセの前を遮ろうとしたヤンネとヤンブレのように劣った奇跡が行えるのであろう。その業によって『不法の人』は「アンチ・クリスト」たり得るのであろう。
それに権威を与える権力者が現れる。即ち『北の王』であり、『契約に不実に振る舞う者らを滑らかに背教に導く』という。これにより、超古代のジッグラトに象徴された祭政一致制が蘇る。ひとつの頭が死んでいるかのように見えたのは、古代の故事のことを指すのだろう。それは現今の国家の枠を超えた驚くべきものになるようだ。
時代錯誤的な祭政一致の世界権力の登場で、人々は『誰がこれと闘い得るか』Rev11というのであろう。その結果『この王は、その心のままに事をおこない、すべての神を越えて、自分を高くし、自分を大いにし、神々の神たる者にむかって、驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』Dn11、これをパウロは『この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言する』2Thと述べていたことであろう。

つまり、『聖なるところに立つべきでない者』Mt24が現れる。これこそはイザヤ14章に描かれたサタンの欲望の地上の実現となるのであろう。これが『荒らす憎むべき者』の実体であるとすれば、エルサレムと神殿の荒廃を呼び込んだ悪党集団に相当するのだろう。しかし、この王自身が元聖徒であるのかは未だ充分に示唆するものを見ない。しかし、『滅びの子』と呼ばれたのがユダ・イスカリオテと『不法の人』だけであることは示唆に富む。
また律法契約の恵まれた立場に在りながらメシアを受容しなかったユダヤと、新しい契約に属しながら落伍するものという類比はそこに見えている。(とすれば「エルサレム」というものが少し視野に入る。その滅びがメシア拒絶であったことはもはや覆し難い)

『荒らす憎むべき者』は偶像でもあり『聖なる処から』聖徒の犠牲を絶えさせ『聖所を踏み躙る』Lk21、それが『三時半』とされるのは、『聖なる者らを絶えず悩ます』Dn7からであろう。彼らを葬ること、また一切の『他のどのような神をも尊ばず、自分を何者にもまさって偉大であるとする』ので、当然ながら『大いなるバビロン』も滅ぼす必要が生じる。
だが、この傲慢な王の崇拝は残る。だが、『時と法を変えようとする』彼の野望は砕かれ『天使長ミカエル』という以上には分からない原因により『人手によらず』急速に消えてしまうようだ。Dn8 しかし、おそらくは米国がこの意志を継いで、偶像を作り上げ、それには『息が与えられ話すようになり』Rev11『神々の神たる者にむかって、驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』Dn11
だが、この『野獣の像』と『野獣』の関係が、『不法の人』の『クリストの臨御のエピファネイア』による消滅によるものであるのかは未だ不明。あるいは、野獣とその像はそれぞれ異なったもの、また役割を表しているともとれる。
ともあれ、様々な崇拝を除き去った後で、この究極的偶像崇拝だけが残り(それでイザヤは繰り返すのか?)、それは『売り買い』に関わる規制という、世界的規模の強制が印象付けられている。Rev11 これは、「聖霊の声」に信仰をもって、聖徒を支持した人々に対する明らかなアンチテーゼであろう。
そうなれば、これこそは、この世界に対する「エデンの誘惑」の再現であり、地に堕ちたサタンによって『地には災いが来る』Rev12とはこのことを別にしては考えられないことになってくる。
これは「生活しにくい苦難の時代」などという概念を超越しており、まさしく『サタンが自分の時の短いことを知り、大いなる怒りを宿して・・』という言葉の通りに「誘惑」することにおいて大暴れすることであり、他の時代より苦しかったというようなものでなく、はっきりと区別される異様な時代となるに違いない。
簡潔に言えば、サタンは聖徒の現れによって地に落とされて後、この地上で元聖徒に奇跡の権限を与えて『偽預言者』として用い、これまでに存在したことのないような大規模で新たな宗教を興し、祭政一致のもとに世界を束ね聖霊支持者への攻撃に着手するということになろう。
しかし、諸国家の我欲は不一致をもたらし、これが最終的な相互殺戮に至るのであろう。(このパターンはエホシャファトばかりでなく原初史にも見ることになる)

それに付随して、シュメールの城市は独立したポリスであったと考古学は言うが、例えそうであっても、創世記の記述は統合があったことを述べている。


諸国家の公権力を束ねる必要があるからには、シオンが唯人々の集まった状態にいるだけでなく、そこでは神の権力の行使があることの告知がなければ、わざわざ軍事力までは必要とせず、警察力だけで済みそうなものである。

あるいは、北王が瓦解したところに神の具体的な権力を見ているのだろうか?もし、そうなら、ハルマゲドン参加の将兵は、神の力を見た上で反抗することになり、ますます聖霊に逆らうことにならないか?

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・「神の王国」をご利益信仰とすべきでない理由


神が人に求めるのは忠節な愛である。
永遠の命はそこにかかっているgen2:17
アダムが捨てたものは神への忠節な愛であり創造者への畏敬であった。むしろエヴァを選んだことにおいて、やはり彼も利益を取った。

人が「良い生活」や何らかの益を求めて神を信仰すると、そこに神への忠節な愛があるのかどうかは判然としないばかりか、利己的な動機というサタンに倣う精神を懐いている危険性が圧倒的に高い。

そこでどれほどの犠牲的業績を積もうと、その動機が忠節な愛に無いのであれば、それはすべて自分のために行ったことになる。
つまりパウロが『愛が無いなら』と述べたときには、そこに単なる愛情への賛美があった以上の意義が込められていたとも言える。

利己主義では、キリストが犠牲を捧げた至高の自己犠牲まで、自分のために捧げられたと見兼ねない。そしてその貴重な犠牲を踏み躙ることになる。

キリストの犠牲の死は、神の高めるためのもので、この死によって創造界は再び神に帰依する道が拓かれたのであって、ただ人間を苦境から救うことではない。

忠節な愛からすれば、自分の将来の生活の良し悪しはまるで問題外となる。

むしろ、『もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』のであり、それは聖書に記され続けてきた神のご意志に協働しようと自ら願うことであろう。

それは即ち、キリストに従い「愛の掟」を守り「神の安息」に入ることである。

誰か人間の定めた規則や、宗派の正しさを宣伝するのであれば、それは何とキリストに信仰を置くことから離れていることか。








⇒「事象の順」
quartodecimani.hatenablog.com





























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Timing

北の王の瓦解
天使長が立つ
『書に記された者』が逃れ、塵に眠る者の『多くが』目覚める
(ある者は永生に、ある者は恥辱に)

    • 聖徒の裁き、生ける者と死せる者--

天への召集
キリストと共に脱穀ソリと変じて諸々の国を打ち砕く

北王の軍勢が瓦解する前に聖徒への攻撃は終わり、おそらく『大いなるバビロン』も滅ぼしている。
(バビロンを滅ぼすのは聖徒の働きではなく世俗権力)
(天使長はセナケリブのときの一人の天使に対応しており、北王は同士討ちで滅ぶのではないので、この天使長はどうみてもキリストとは言い難い)


召集の後に地に残される元聖徒がいる。
残される幾らか依然から『不法の人』が現れているらしい。
彼は北王の甘言によって背教している。

この『不法の人』による崇拝を北王から引き継ぐのが米国らしい。
第一の野獣の一切の権威を龍の前で行使する。
北王の瓦解により『不法の人』を支える権力は無くなってしまうが、米国は軍事力によって『不法の人』を助力はしないが、偶像視して、人々にその『反キリスト』の精神を法的に強要する。つまり軍事力の脅しよりは、法的拘束をかけてくるのだろうか。
(東(陸)からの野獣が第一の野獣の一切の権威を得るのも、「像」を作らせるのも、第一の野獣が消えたからであろう)

そこに残された元聖徒が『偽預言者』として加わり(単複?)シオンへの憎悪を煽り、世界を神と戦わせる。
ここでシオンの王が戴冠し、それを守るために出て行く。

世界連合軍は利権で対立していて元々不和であるからか、シオンに圧勝できるとの楽観から同士討ちを始める。貪欲の為せる業。或いは、初めからそれが目当てでハルマゲドンの戦役に参加しているのかも知れない。

様々な軍隊は些細なきっかけから相互に攻撃をしかけ、その大半は鳥のエサとなって姿を消す。

大小の権力(山や丘)を失った世界は統治不能となり、無政府状態から通常の生活の継続が困難となり、人々はそれから臨む事柄を想像すると気を失うほどになる。

人々から糧食が絶え始め、疫病が襲う。
この段階でシオンには何らかの助けがあるはず。

やがて、人々は死に絶え、野獣の腹がその墓場となる。
シオンの人々は出て行って屍を見るが、それは忌むべきものとされ、巨大な穴に死体を処置する。「ゴグの群衆[ハモンゴグ」の谷と呼ばれ、またその城市は(地名であるので)ハモナ[大衆〈ハモンf形〉]と呼ばれる
(アヴェスター語「マグ」⇒ギリシア語「マゴス」)
マゴグが「ゴグの家」であるなら、ゴグが主体者。しかし、これとアヴェスター語の意味が一致しない。

シオンの人々は滅んだ世の軍勢の兵器で煮炊きの火とし、七年を過ごす。(Ezc)




・七つ頭の獣
「新たな角」北の王から立ち上がった「腕」、猛悪な王
自力でなく大きな権力を握る
常供の犠牲を終わらせ、聖徒と大いなるバビロンを滅ぼすが
活動期間は42か月 信徒脅迫のときに
聖徒攻撃と信徒脅迫の時期は非常に近いことになる
(聖徒攻撃以前〜信徒脅迫まで)

〈聖徒を倒すよう慫慂するのはバビロンであり、マゴグではないようだ。やはり、シオン攻撃でマゴグの使嗾があると見てよいように思える。それは二回とも同様だが、人物が異なる〉

・子羊のような獣
第一の野獣の権威をすべて持つ
傷の癒えた第一の野獣を崇拝させる
火を降らせ、しるしを行って惑わし第一の野獣の像を造らせる
その像に息を与え話すようにさせ、人々に崇拝を強要する


・野獣の像
七頭の野獣システムの継承
庇護者は北の王から南の王に変わる
(信徒脅迫以後〜顕現まで)


・不法の人 滅びの子 アンチクリスト
究極の背教者
抑制物が無くなった後に出現(表し示される)[!]2Thの代名詞の変化
サタンの奇跡を行い神殿に神として座す
(北王時代から存続→顕現まで)


・荒廃をもたらす憎悪すべきもの
究極的偶像の設置(野獣の像か?)
(熱心党が聖所を占拠した時から、神殿の破壊まで紀元66-70年の期間)
聖所に立ちそこを荒らし、結果として滅びを呼び込む
(聖徒攻撃以後→顕現まで)


◆誤解されやすい点
・「ローマの軍隊がエルサレムを包囲した時から、神殿の崩壊まで、紀元66−70年の期間」という書き方は誤解を与える。「初めに」を挿入すれば、回心の時間(三年半)という意味にはなるが、ローマの最期の攻囲そのものは70年ニサンからアブまでのおよそ五か月、66年からは3年10ヶ月になる。

ヨハネが黙示録の中で『中庭』と書き『異邦人に与えられている』と述べたとき、ヘロデ神殿の構造で描写したのであろう。『聖なる都市と中庭』の中庭はソーレグの外側を指していたのであろう。

したがって、祭司の働く聖所が含まれていないことになる。
そこは『レヴィの子らを浄める』場所でもあるだろう。しかし、この浄めの概念はヘロデ神殿では聖所に属する。しかし、マラキの時代の第二神殿がどうであったかが分からない。

・以下の二つの句は艱難後のパルーシアを示しているわけではなく、エピファネイアを表している。
『それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。またその時,人の子のしるしが天に現われます。』(マタイ 24:29‐30)
『日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。』ルカ21:25-28

艱難前後を論議するのは不毛なことで、パルーシアと携挙の艱難との前後関係も、聖徒理解の欠如から起こっている。


・『戦争や戦争のうわさを聞くが終わりではない』は、聖徒への野獣の攻撃と残された元聖徒によるメシア偽称の期間を述べる。彼らにはサタンからの印が与えられる。
『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。…これらはすべて産みの苦しみの始まりである。』(マタイ 24:4-8)

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    • 以下引用〈「神の国はこうして来る」〉------久保有政--

迎え入れられた人は、やがて「火の審判」を下されることに定められている地上世界から、すでに神の国へと「亡命」したのです。
 神の国の「大使館」とは、別の言葉でいえば、「教会」です。
 聖書でいう「教会」とは、建物のことではなくクリスチャンたちの集まりのことなのですが、教会という神の国の「大使館」に入れられた人々は、地上にいながらにして、すでに天の「神の国」に生きているのです。
 「私たちの国籍は天にある」 (ピリ3:20)
 とあります。クリスチャンはすでに、天の神の国の国民なのです

神の国は近づいた」
 と言われた時、その「神の国」とは、天にある神の国(天国)をさしました。天にある神の国は、やがて定められた時に、地上に降りてくるのです。
 天の神の王国は、やがて地上に降りてきて、地上世界と一体になり、地上世界を「吸収合併」するでしょう。

しかし天の神の国と地上世界の統合は、決して人間の努力によって実現するものではありません。
 天の神の国の来臨は、その時が、神によって定められているのです。
 天の神の国は、神の国の大使館に迎え入れられるはずの人々の数が満ちた後に、やって来ます。
 また、地上の悪が最高潮に達し、もはや神の国が来なければ地上世界の自滅はさけられないという状況になった時神の国は、力を帯びて栄光の中に下って来るのです。

「神に造られたものの根源であるかた」 (黙示3:14)
 であると。神の国の根源は、キリストの内にある生命力、人格、真理、善、愛なのです。それらによって、神の国が造られました。
 ですから、いま神の国は、キリストと共に「天」にあります。そしてやがて、キリストの再来(再臨)と共に、地上に下って来るでしょう。
「キリストの再来」と「神の国の来臨」とは、同時に起こるのです。
〈レムナント〉


所見:折衷型、神の王国の贖罪の働きが等閑に付され、キリストの裁きの前倒し、または一部終わっている。救いの関して注意の主体は自己となっている。この世が激しく敵対するのではなく、「吸収合併される」という。こちらから観ると暢気に見えるが・・

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