Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

オリエント考古学史


ナポレオンによるエジプト遠征とギザでのオスマンへの勝利 1789
カイロのエジプト学会の設立
「エジプト誌」の編纂とロゼッタストーンの発見
シャンポリオンによるロゼッタストーンの解読 1822
コレージュどフランスにエジプト学講座が設けられる1831


東インド会社のリッチが、バクダッド赴任中に周辺に遺跡が散在するので調査を開始 1811

1838年と1852年の二回、アメリカのロビンソンがパレスチナを旅行し、1865年にはロンドンに「パレスチナ踏査財団」が設立される。(この両者の関係は要調査)

フランスの領事代理のボッタ[Botta]が、北部モースルでアッシリアの遺跡を1842年から調査を始め、やがてコルサバードでサルゴンⅡの遺跡を発見

フリードリヒ・ヴィルヘルムⅣ、ベルリン大学のレプシウスをエジプトとヌビアに派遣 1842
レプシウス[Lepsius]「エジプトとエティオピアの遺物」を上梓

レヤード[Layard]ボッタが発掘を始めていたクユンジクのテルに関心を持ち、ニムルードやニネヴェの発掘を行いアッシリアの王宮を解明、キュロスの円筒印象を発見 1847まで現地に留まり、翌年帰国1849までに「ニネヴェとその記憶」を上梓 クユンジクをニネヴェと特定

その後、ローリンソン、ロフタス、テイラーらが続く
特にペルシア語に堪能であった軍人ローリンソンは「ベヒストゥン碑文」のコピーを作成し、ヒンクスと共に楔形文字による古ペルシア語の解読に成功1846、次いでアッカド語に成功、ロゼッタに匹敵する成果を挙げる。後にはアッカド語からシュメール語の解読に進む道が拓けた。1930
シューリーマンのトロイア発掘 1870
ベルリン博物館によるペルガモンの発掘開始 1878-86
ラムゼー卿[William M Ramsay]がトルコに入り小アジア研究に成果を上げる1880→"Exploration of Asia Minor as bearingon the Histrical Trustworthiness of the New Testament"1907


ブレステッド[Breasted]エジプト古記録」全五巻 1905 シカゴ大学オリエント研究所を設立1919 (「肥沃な三日月地帯」の語は彼の発案)

1920 ドゥラ=エウロボスと同定される城市が偶然発見されブレステッドが当時近くに居たため、発掘を開始、アメリカとフランスの合同調査隊がこれに従事、後、フランツ・キュモンがこれをエウロボスと同定、以後も調査が行われて来たが、近年のISの占領により、穴だらけにされていることが衛星写真で確認されている。→ Ἱππόδαμος ὁ Μιλήσιος



所見;オリエント学はそう古いものではなく、19世紀から20世紀にかけて飛躍的に進んでいる。昔を扱うものであるのに、天文や物理のように最新のものでないと突然の発見により急激に陳腐化してしまうところもある学問である。ただ、シナル平原の無尽蔵な良質の粘土は、無数の粘土記録を今日まで保存させたため、メソポタミアの歴史研究は明解に進んでいる。これはパピルスが朽ちやすいのに比べ、相当に恵まれている。
いまでこそ現地の人々によって歴史財が保護されるようになってはきたが、本来なら現地の人々こそ、その価値を知り、また誇りにもするのだろうが、ほとんどが西欧に持ち去られて保管研究されるというこのことの原因は何か?
中世期にはイスラムの学術は欧州をしのいでいたのだが
教育と研究の無さ、また貧困が原因だろうか?
初めから現地で研究されているものに死海写本がある。それでも、その周辺のものはかなり欧米に売られているし、盗掘の場合には丁寧に扱われず、出土場所も特定されないことがある。
結局、価値を認める者のところに本当には価値を認めない者らが私欲で売り払うという体制が出来上がった。しかし、まだ価値を認める人々が居るのだから良かったか。
タリバンバーミヤンの石仏を爆破し、ISはパルミラなどを破壊したが、これらは自分たちの価値感しか認めず、結果的に歴史上の人々の足跡を破壊してみせた。まだ売っている方がよほど良い。しかし、イラク戦争のときの博物館を略奪したのは同じイラク人だった。日本だったらどうなるだろう? 人は、売るにせよ、壊すにせよ自分本位で、事実を知ろうとは思わない。やはり欲望と真実とは対立するらしい。考古学とは自分の欲の雑音を消してひたすら耳をすませて探求するものなのだと思う。自説に都合の悪いものが出てこようと、他説に抗うものが出ようと一向ひるまない勇気には敬服する。宗教家にこれは無い。ただ、実際に掘っているのは現地のバイトだったり、学生だったりするが・・

(このごろになって分かってきた:シリアなど遺跡だらけであり、一つ一つ掻かずっていると膨大な作業になるという現地の事情がある)
それにしても、砂漠の乾燥は物の保存に良いらしい。

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Wilfrid, the 7th-century bishop of York in Northumbria, styled his opponents in the Easter controversy of his day "quartodecimans",though they celebrated Easter on Sunday.

⇒ 出展



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