古エジプトでの「アピル」、マリ文書、ヌズィ文書、エル・アマルナ書簡にある「ハビル」と同一である。(石田74)
ベトウィンは「シャス」とエジプトで呼ばれていた。
「ハビル」とは特定の個人や種族ではなく、社会的概念であったと結論せざるを得ない。(石田)
但し、「アピル」は強制労働者の総称でもあったという。
したがって、出エジプト後にもアビルはエジプトの文書碑文で語られている。
エシュヌンナ法典
前18c ハンムラピとほぼ同時代
子を授からない夫は全財産を置いて家を出よ(24条)
子を授からないことは神に祝されていない証拠
(古代オリエントでは一夫多妻ではなく、条件付き一夫二妻制)
エサウ
ヌズィ文書(フルリ語 前16-15cミタンニの地方中心地)キルクークの近く
不妊の妻は夫のために自分の女奴隷を差し出す義務がある。
テラフィムの所有者が家督を継ぐ
三匹の羊の値段の補償によって兄から家督を譲り受けた弟がいた
古代アラビア半島がステップ気候であったというのはそうかも知れない。
スバルトゥからシリアに抜けるのは川に沿うことで水の補給を容易にしたのでは?
テラッハ「野生の山羊」二人と重婚していた
アブラム「我が父は崇高」
サライ「籠を作る人」or「我らの妃」(石女)
ファラオ・ゲラルの王(アブラムより若い?)
リベカ「牝牛」(石女)
ゲラルの王(王は「アビメレク」を継承したか?)
「我が父は王である」[皇太子を意味したか?]これはカナン名でフィリスティアではない。フィリスティア族が現れるのは前12c(石田62)
前14世紀のタブレットにエジプトのティルス知事[Abimilki]有り
Mハガッダーは別人であると述べる
夫を殺す習慣がエジプトにあった(史料?)
ダヴィドは暗にそれを踏襲する これは普遍的に有り得る
人名のハラン [הָרָ֔ן] 「山の人」 ロトとミルカの父
地名のハラン [חָרָ֖ן] セム語「隊商」
砂漠地帯の終点 リベカはラクダの扱いに慣れている
[ח][ה]; 地名の「ハ」音は喉 英日では区別できず
(KJVは区別せずHaran)
現状の土地表記[Harran]現トルコ国境
アッシリア/アッカド語では「道」[harrānu]の意、ニネヴェ方面からカルケミシュを通りアレッポ、ダマスコに向かう。(アッシュール・ウバリトが逃げ込んでいる)ラテン語で「カルラエ」(Carrhae)この"C"音にセム語の喉音が転写されたか?
これらのイブリの名はマリ文書にも表れており、ヘブライとマリが民族的に近似していることを示している。マリ文書はアッカド語ながら西セムの多くの語彙を含んでいるという。
ハランの家にテラフィムが有ったのはなぜか?
長子がハランであればロトが持っているのでは
ではナホルが長子かというとミルカとの縁組がその可能性を下げる
アブラムが長子であれば偶像を嫌って構わなかったのか
アブラム一行がユーフラテスを渡ることで父の故郷を去ったからか
(大志あるアブラムにはハランの実家の仏壇?)
ナホルはテラッハを弔いその家を故郷の端で守ったか
テラッハの家は全能の神信仰のゆえに周囲と異なったか
テラッハの異神崇拝の痕跡についての資料?
リベカとラケルを通してヤコヴはテラッハの家督を実質的に受けた
リベカの策略はベテルで神に認証されるMal1:2-3
全能の神は最初からアブラムに接したか⇒パウロ
『妻サライと甥のロト』という言及
約束と行動の連続
ウル市内には住んで居なかった可能性が非常に高い。
・ノア(直系)から十代目の子孫である
・シュメールと行動を共にしたか考えにくい
・イブルが非定住の遊牧民を指したことはほぼ間違いないとされている
・土地を与えられることに希望を持っていた
・「真の土台を持つ城市」Heb11:10/12:22/13:14
神の建てる城市とは象徴のエルサレム「神の王国」
イブルはシュメールの都市革命に参加しなかったのでは?
するとヘブライ人と呼ばれることに反ニムロデが含意されたか?
「都市」とはそのような意味か?
彼が『遥かに眺めた』のはサレムだったのか?
それは現実的ではないが、ある意味でそうだったのかも知れない。
支配に関わる問題が内包され、それがアブラハム契約にも表れる
アブラム・イツハク・ヤコヴは同族イブルから妻を得る
アブラムとイツハクはカナン人の道徳性をまったく信用していない
たとえ妻は良くても親戚が厄介になってくる
エサウの最初の二人のヒッタイトの妻らはイツハク夫婦の頭痛であった
息子のないロトはアブラムの許に戻らなかった→エリエゼル
自分がナホルの家と関わりがなかったのでハランにも行かなかったか
アブラハムが自分で出向かなかったのも神の指示を守ったからか
エリエゼルに厳粛だったのは死を意識してのことか
ヤコヴの場合はエサウから逃れ為でベテルの一件があった
イブルの近親婚は習慣であったのでは?律法は後で禁じる¤
ロトはそれから離れる様子があった
ロトの没落によりハランの家はモアブとアンモンに向かう
ナホル家はアラムなどアッシリアからアラビアに広く分布
イツハク献供にはバアル神の習慣が傍で行われていたか?
¤(バアルとアナト、オシリスとイシスの関係)
バアルはアシュタルトの息子、稲妻はヤグルシ、矛はマイムール
海神ヤムと死神モートと闘う エジプトではセトと同一視、セトはギリシア語のテュホンか?
初期には天候の神ハダド[הדד]#がその名であったものを主神としての「主」(バアル)に置き換えられた。#同名(שרית הדד)
サマリア人の主張は信頼できるか?実際の旅程は
・「新しい契約」が与えられたのは、律法契約によらず『約束』による。Heb8:6・6:16
・天への召しは契約によるとしてもその目的は誓約による。Heb10:36
これは・・・契約と誓約は分けて観る必要がある。誓約は遥かに超える。
・セルグ、テラハ、ナホルはハラン地域の地名として聖書外資料にある。そこでカルデアのウルとは、シュメールの首都ではなく、アッシリアの北に位置したウルであった可能性がある。しかもカルデア人が南シナルに侵入したのは前10c頃であったとも言われる。
(しかし、創世記の最終編集がモーセ以後の時代、例えればエズラの時期であったならどうなるか?度々「今日まで」との挿入句あり)
反:神の直接の言葉の中に「カルデア人のウルから」の記述あり
この点では、テラハは千キロの旅路で健康に支障をきたしたともとれる。それで一行はハランに留まったのでは?もし、アッシリアのウルであると近すぎて、テラハの旅立ちに相当な無理が最初からあったように観えないか?
セム系譜(トーレドート)
『テラハは70年生きてアブラム、ナホル、ハランをもうけた』Gn11:26
テラハ系譜
『テラハはアブラム、ナホル、ハランをもうけ、ハランはロトをもうけた。』
テラハ70歳→アブラム75歳で川向うに出立;合計145年
テラハの寿命は205歳;残り60年?(アブラムが長子ではなかった?)
ハランが長子でその娘ミルカがナホルに嫁いだか
一世代ずれるほどに年齢が離れていた(50年以上)
するとテラハに先立って逝ったハランが長子で庶出
本妻はやはり不妊でアブラムとナホルは晩年の子でハランとは50歳以上離れていた?
もうひとつの要素は、テラハは西セム語系のヘブライ語を話したとするなら、シュメール語の影響は?
原初史にはシュメール語彙や言い回しがあると
『あなたの国を離れ』が左岸から右岸に渡ることを意味したならどうなのか?
ただ、イブルの放牧活動範囲は相当に広かったらしい。
・都市居住者の墓(テル内)とその外側の墓から出土する陶器には著しい違いがある(石田64)
・バビロン王ブルナブリアシュⅡ世がファラオに対し、カナンで襲われた自分の隊商への償いを求め「血の復讐」も求めている。
・エズレルとヤッファはファラオの直轄領であった。
・「アブディ・ヘパ」というエルサレム王の名には、複合の人種構成が観られる。前半はカナン語で後半はフリ・ヒッタイトの女神となっている。ダヴィドが占領したときの人種エブスは、おそらくヒッタイト系であろう。(石田)
テラハの一家はそろってエル シャッダイに改宗したのでは?
おそらくテラハの晩年200歳が迫る頃で原因はアブラムか?
族長時代はゴシェン定住を以って終わりを迎えるが、それまでは周囲との宗教価値観の違いがイブルであることと相乗効果を発揮していたように観える。それは狭い遊牧民の社会で垢抜けないがひとつの価値観を護持するには適していた。同時にひとつの宗教の揺籃期だったとも言える。
.