Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

"Aqedat" Interpretation a Bible Commentary〜

アケダーの解釈につき

ウォルター・ブルッグマン Walter Brueggemann
イーデン神学校旧約聖書学教授
穏健な学風で知られる
「創世記」において、煩瑣な解説を避け文学的観点から構造と流れとに注目して注解を施している。創世記は「神の招き」の表題の下に、人間と外界からの働きかけとしての神を中心主題として据える。
以下創世記22章について

2節と12節は、測り知ることのできない神の意図を表現している。
2節の命令について我々は何も分からないと同様に、12節にある解決についても我々は分からない。
なぜ、神が初めに息子を捧げるように要求するのか分からないし、なぜ神が結局最後にその要求を取り消すのかも分からない。

もし、アブラハムの物語がイサク誕生で終わっていれば、それは血統に関する物語であった。
しかし、予期しないことが起こる。これは苦悩に満ちた信仰の物語である。物語の意図は判然としない。それは解釈者の決断を要求している。
全体は三つのグループで構成されており、最初と最後は三つの部分でできているが、真ん中の部分だけは第四の要素があり、それは「子よ、神自ら備えてくださるであろう」の句が特別であり、このテキストの重大さは疑い得ない。
神は何かを知りたがっており、それを神は知らない。それは12節の「知った」という言葉に要約されている。
アブラハムはいつでも語り掛けられる用意があり、応答することを躊躇っていない。論争、抵抗、遅延がみられない。
アブラハムは測り知ることができない事に於いて神を信頼するという「神の道に転じた」
カルヴァンは「神の命令と約束とは矛盾する」と言い。
ルターは「これは神御自身が自己矛盾を起こされるような矛盾である」と言う。
「イサクに生まれる者が、あなたの子孫と称えられる」がここでイサクが死ぬと、この言葉は潰えて、不妊に戻る。
神は自由な主権を有していることが明らかにされる。神が試みをするということは自由な主権の開示である。
神の暗い命令と高貴な約束の両方を結合させ受け入れる

「神のこれらのふたつの特色を理解することは人間の理性や哲学でもできない」ルター
神は試みられる(bahan)存在であること
キュルケゴールは「信仰」とは、我々が自らを神に委ねる前に、恐れ慄きに追いやるものである。と
では、なぜ「試みに遭わせないでください」と祈ることをイエスは教えたか。
身代わりの子羊は偶然に現れていないことを13節は告げている。

完全な服従を要求する主権に満ちた自由と、善き賜物を与える恵みに満ちた誠実さの間に、命令と約束の間に、生命を奪い取る死の宣告と生命を与える生の宣言の間にアブラハムの生がある。
この問題は、神の中に理に適っていることを求める人々にとって鋭いものとなる。
ルターは試みと備えという矛盾は神という言葉において和解させられるしかないと結論している。神という言葉が無ければ、我々の理性と信仰は困惑するばかりである。
アブラハムは、神は生命をもたらす道を見出されるであろうことを知識を超えたことろで知っていた。
Heb11:17-のイサクは殺されても甦らされるだろうと単純に言えない。それは想像であって、このテキストの主張するところではない。復活とは約束にとっての根拠がないときに約束を果たすことと関わっている。復活とは死だけが予期される状況で神が新しい生命をもたらす奇跡である。この物語の試みと備えの弁証法は教会の十字架と復活の弁証法となっている。
パウロは「神は誠実な方であり、耐えられないような試みを与えない」と言う。この試みはアブラハムが誠実かを判断するのではなく、神が誠実な方であることを明らかにするものである。


所見;
結論から言えば、試されたのは服従ではなく、忠節であり、神が独り子を人間に、それもアブラハムの裔を通して与える価値を見たのであり、主権云々を言うのはまったく的外れというほかない。そうでなければ神がアブラハムを『友』と呼ぶ謂われなく、『奴隷』と呼んだであろう。キリスト教界は三位一体に縛られてここまで無理解を曝しているというべきではないか。そこでアブラハムへの試みから「神の主権」を持ち出すのは的外れではないか?
簡潔な創世記のアケダを、ここまで捏ね繰り回すと異質なものにならないものか?神が誠実かを示したとは結果論であって、やはり試されたのはアブラハムの方である。
この識者の考慮には、『神の象り』としての人の自由意志の観点が欠けている。それはルターにしてもカルヴァンにしても「矛盾」を唱えているところでは同様なのであろう。
また、アブラムがアブラハムとされていった過程での彼の心情の変化にも注目されるべきであろう。彼は祖国から連れ出したロトを気遣い神に正面切って反論したのだが、イサクについてはそうしなかった。彼の内で信仰が熟成したためにその必要もなくなっていたからである。その根底にあるものは、神との交渉による彼の内面の変化であったろう。
アブラハムは試みを受けて、何かを実証することが必要な立場に立ったというべきように思える。それが結果として生み出したものが「約束」であり、それは「契約」を超えるものであったことをパウロが言っている。
途中でヨブ記との関連は出てきたが、遂にサタンについては語られなかった。またミドラシュが何と言っているかにも言及していない。
「なぜ神は試みるのか」この問題は最後まで曖昧に終わり、感傷的な十字架と復活に弁証されて終わる。
「我々には分からない」のは三一論が邪魔するからではないのか?
人間が神の象りであること、そして神がそれを尊重すべき理由はあることは論議の端にも上らなかった。やはり主権云々は読むに堪えず。
教会員とは、これで良いのだろうか?16世紀から進歩なく、何の有意義な確たる結論にも至っていない。やはり、原初史を徹底的に解釈することの重要さは計り知れない。そこに理解の基礎がある。
学ぶところは「不妊に戻る」と、「身代わりの子羊は偶然に現れていない」というところ、それから構造の解析があった。

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Moses Hirsch Segal 1876-1964,
イスラエルに渡った学者セガルはP資料にもYHWHに由来する人名が出て来ることを指摘する。(ヨヘベテ、エホシュア) ⇒ これは容易に説明できる
モーセが神名を尋ねた「マ・シェモ」のは、発音ではなかったのか?
彼はドイツ高等批評に批判的で「聖書入門」の中で、近代批判、キリスト教神学批判、ヨーロッパ文明批判を展開する。

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ソフェリームは、理由の分からない空白を設けることがあり、マソリームはそれをピスカー・エムツァ・パスークと呼んだ。
タナハ中に28か所、あるいは35か所あるという。
例えれば「カインは兄弟アベルに語った〇」の後に空白があるという。失われた文言があるとも

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