Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

不信仰から聖書を批評すること

ノーマン ワイブレイ Norman Whybray 1923生 
オックスフォード大学博士号取得 渡米してニューヨーク・神学大学講師 1950迄
1952-65東京聖公会神学院教授 1965ハル大学教授 1982名誉教授
・原初史の神について

創造の業を点検して非常に良いと判断しながら、すぐに被造物に対する神自身の主権に関していらだっている。
もし服従しなければすぐにも死ぬだろうと釘を刺すが、蛇は、正しくも--このことはすぐ後で明らかになる--この威嚇を頭から否定し、神を嘘つきだと喝破する。

モーセ五書入門>67

最初に自分の創造の業に完全なものという太鼓判を押した神は、それがやがてどうなるを予見できなかったことになる。これらの物語のほとんどにおいて、神は、自分でイニシアチブを握るというよりも、人類が行うことに対して、その都度泥縄式に対応しているように見える。

同68


トマス・L・トンプソンの『族長物語の歴史性』(一九七四)は、単にヌジ仮説だけでなく、族長時代を歴史上に位置づけようとする他の試みもまた、実質的内容を伴わないものであることと、創世記の族長物語の古さを証明する方法はまったくないという事実を示した。

同44


所見:これはどういう「入門」なのか?チュービンゲン的なものの観方をした神学教授が幅を利かせる自由主義の世界か?嬉しそうに神を卑しめる「信者」を作ってどうしようというのか?
神が望んだのは、自らの主権ではなく、自らの象りである人の自由意思を尊重することであり、そこで神は全知性を自ら抑制される。「泥縄式に対応している」と見えるのは、神が自らの象りを尊重しているからであり、これを卑しめることは、人間ばかりか神自身をも卑しめることになる。

⇒「神の象りに対する忠節な愛





.