Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

Didascalia Apostolorum

DVD心に叶う者1Sam13:14 Act13:22
例え多くの誘惑に屈し、道徳行動から外れてさえ、神に対して忠節であり続けることはある。彼の生涯中に心が神から離れ卑しめたことがあったろうか。単純に道徳規準を神の是認の条件と考える律法主義的なキリスト教宗派にはこの点が不可解に写るだろう。そこでバテシバの件などは「dvdは普段の行動が良かったから許された」というまったくの誤謬に傾いて行く。この捉え方はパリサイ派の平衡的善悪論に成り下がっている。あるいは、彼には神に役割があったので許されたとするのも、シャウルの件では説明が付かない。これであれば、重要人物の裁きは例外的に減免されることになってしまうが、これほど神を不公正だと断じる論法もなかろう。シャウルの罪とダヴィドの罪とは本質的に異なったところがある。「多くを委ねた者には多くが要求される」のではなかったか? この誤謬の問題点は、忠節と従順の異なりが把握されていないので、詰まる所、神の裁きの要点が何かが分かってはいないことを露呈しているのである。忠節とは自発的であるがゆえに失敗もある。神への忠節心が変わらないにしても人は失敗もする。しかし、それでも忠節では有り得る。しかし従順は他発的であるゆえに、失敗は不従順にしかならない。そして不忠節はただ不忠節でしかない。シャウルの失敗は不従順である以上に不忠節であったのだ。これほどの違いが同じように見えるなら、上記の誤謬も当然に避けられないが、キリスト教を語る者が唱えるにしては余りに情けない。神の是認は従順によらず忠節による。これは「ヘセド」と呼ばれる。

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新世界訳?
Gen13:9[]


Didascalia Apostolorum
使徒戒規ともいう。3世紀シリアで書かれた教会規律文書。十二使徒の教えに範をとったもので,内容は司教の職務,痛悔の業,礼拝,迫害下の心得,寡婦や奉仕女の生活について述べており,原文はギリシア語。

Agrapha[αγραφον]
四つの福音書にはみられないイエスの語録のこと
[ピスティス・ソフィア]のようにキリストの言葉を含む作品。この名称は1776年にドイツの聖書学者J. G. ケルナーによって初めて使われた。
パピアス(Papias)、アレクサンドリアのクレメンス、エイレナイオスそしてユスティノスなどの初期キリスト教の著述家が引用しており、そのアグラファの内容がイエスの教えとして正典福音書内になくてはいけない。
使徒行伝, 20:35: 主イエスの語った、「与えるのは、もらうことよりも幸いである」という言葉を忘れてはならない。これはクレメンス(Rm)がコリントス第一書簡で、ディダケー1:5にも同様の意味の言葉が見られる。新約聖書の背景には明らかにもう少しの幅がある。
新約筆者らが内外のギリシア語経典に接していたことは疑いようがない。ユダはエノク書1:9(エチオピア語のみ現存)を引用しているだけでなく、短い書簡文の中で三か所エノク書の概念を踏襲している。
トマス福音書はまとまった書ではないが、語録の集成である。しかし、グノーシスの影響あり、この辺りはリテラシーが試される。聖書の骨格を知るなら、その真偽が見えてくるが、聖書というものは、初心者に親切な本として書かれてはいないし、習熟してすら落とし穴がある。

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