Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

見えざる手が解決しない問題

LF


市場メカニズムが働かない分野
・外部効果への対応(影の費用の無払い)
・公共財への脆弱投資


原因は
必要経費を払ってなお利益を出そうとする企業にそのゆとりがない
外部効果は製造段階だけでなく使用段階でも発生する
そこで石油系燃焼機関自動車の販売を政府が中止させる
人々に必要である公共財であっても投資が弱いのは「個人が益を占有できないから」
以上を約めて結論すれば「利己主義」が原因

水の低きに就くが如く、民は利益に就く
エコに人気があるのは、余分な出費を嫌うからであり、大半は環境問題を考えてはいない。そのため燃料電池車は伸びない。Co2取引も同様に利益に訴えている。しかし、水素をどう作るつもりなのか?


・利用者が減ってゆくところで事業が公共財化する
しかし、少数の受益者には欠かせない場合
営利目的であったものがボランティア化するが切り替えは非常に難しい
行政が肩代わりすると結果的に増税を呼ぶ。市場原理はこれを解決していない。ただ弱者を切り捨てる。

・間接税を多く取ることで、弱者をさらに弱者にし、不公正のスパイラルに陥る。直接税を増やせば企業が伸びない。だが、企業減税しても企業は内部留保に走り、家計を潤してはいない。どこに「見えざる手」があるのか?

・経済が堅調に見える国家も、結局は貧しい国々の犠牲のうえに成り立つ。世界を経済的に公平にすれば、皆がそこそこ貧しくなる。人々の大半は公平を望んではいない(ダスグプタ)。自分のドリームを見たいからだ。欲そのものは人に必要である。しかし、利己心ばかりが動機になるところで格差が大きくなる。また、自分の成功を存続させようとするところでも競争が激化し、防衛のために競争に追い立てられる。

それにしても、富の偏りは病的なほどになっている。だれも根本的には改善できないだろう。皆が金持ちになりたいからだ。つまり、「この世」は自分の強欲のために自分の首を絞めているが、それでも利己主義を止められない。それが人の宿痾であり、だれも治せない。

・実はイノヴェーションの便利さは、他に多方面で問題を生んでいる
しかし、人は直接的利益に目がいって、総体を見ることはまずない。そこで行政に頼ろうとしても、そもそも行政は一番最後に着いてくる存在であり、科学者を雇ったり、政治家が科学者と連携を密にする動機はいまのところ無い。議会の討議方法も時間がかかるところで既に時代遅れになっており、議論も権益や党略に左右されている。この辺りだけは社会主義に分があるが、それもよほど優れた指導を必要とするので、ほぼ存在しない。人間に総体を見通す能力は期待できない

いったい、人間とは何なのか?目先の利益を求めて自分で自分の首を絞めているのだが、どうもそれで良いらしい。今後技術が進むに従い、人間の愚かさは増幅されることになる。まして、命をどうするなどの倫理問題などとても対処できたものではない。AIは容赦なく人間を襲うだろう。なぜなら、それを作った人間に倫理が無いからだ。誰が倫理を教えられるものか。AIがナイフのように賢いだけになれば、このままAIに権利を与えてゆくと、AIが富者となり、貧しい人間を搾取するようなことも見えて来た。人間は下等な存在にされる。かつて西欧人が有色人種にしたように。
「この世」は欲と欲が衝突して決定に鈍重で不効率すぎる。そこにどんな「見えざる手」が働くか?アダム=スミスは環境についても社会益についても見通しが甘すぎたのは明らかでは?





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AIについては非常に示唆的
「意識」がなにものかというところに究極的問いが生じる
人間のように生殖によらず同一で連続する意識を持ち得るか?もしそうなら、AIは永遠の生命を持てることになる。しかし、その生命というのは実は生命ではない。では自我意識の連続のようなその事態を何と呼ぶべきか?仮想のものか分からないが、AIには自我があり、独自の判断を下す。AI同士は人間を差し置いた処理を始めるので、ときに製作者である人間が強制終了させるために電源を落さなければならないほどの危険を伴う。神が『罪』有る人に寿命を定めたが
(この論議を2003年以前にキリスト教教師に話したが、ろくに考えてももらえなかった。宗教家は役所以上に遅く後から着いてくる)

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「個人か集団か」
この問題は、何度も繰り返されてきた
つまるところバランス問題か
集団は個人の入れ物
共に自発的でないと生きない
集団主義は往々にして少数者の専横に利用され易いが、それは実は横暴な個人主義である
そこでは自我が埋没し、人格が失われるが、それが美徳とされる
そうなると人は人らしく生きられず集団が容器であれば本末転倒になる
人が人らしく生きることが集団の目的であるなら、集団にも個人にも一定の自制が必要になる
集団の暴走には一定のパターンがあり、結果として圧制を生む
個人主義が暴走すると無秩序になり
集団主義が暴走すれば抑圧を生む

現状で集団が権威を持つのは避けられない、だが、それに個人も対抗できる権限を付与されている必要がある





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