Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

デモクラシーへの懸念


先の記事に続き、アリストテレスの政治論を見て所見を書くと・・
彼は良い政治法として「中間の国制」を挙げている。
「中間」というのは、デモクラシーと寡頭制の中間ということであり、デモクラシーを評価しながらも、「衆愚」に陥る危険を避けるために、寡頭制の持つ優れた人材と、富が偏在してしまう欠点をデモクラシーによって防ごうということらしい。

「衆愚」はプラトンが危惧したに違いなく、彼の「国家」では、幾何学に叡智や創造性が込められているように、イディアを得た哲人王の支配こそが求められるとしている。
アリストテレスはここに非現実性を見抜いた。実際、イディアを体現できるような完全な人間など存在し得ない。

そこで、アリストテレスはどこに最も信頼性があるかを考え、人の上に人を置かないデモクラシーに理想を見ても、衆愚の弊害が免れないので、寡頭制との中間を最も望ましいもの「正しい国制」としている。

それをどのように具体化するかの部分では、一定の財産を所有し、武器を以って国家を守れる者とした。今日で云う「中産階級」となるようだ。
当時の国防は、個人が武力を負担していたので、それを行使するには一定の財産を持たねばならず、そこで無産者が除外される。彼は無産者には国制に預かるべき理性、素養がないと見做していた。(実際、無産者は生きることで精一杯だったろう)

彼は衆愚の元凶を、生きるために手段を選べない無産者の欲求に見ていたか?それは確かに教育でも克服できないパニック集団のようである。
中産階級は生活に困ることは避けられるので、体制に肯定的であり、彼が云う「最も内乱が起こりにくい」とは、この原因を指すのであろう。

為政者の交代制と役人の選挙は、今日のデモクラシーとは異なった意味を持っている。選挙は技能ある者を確保しプラトンの云うような「素人の政治」を避ける狙いがあり、交代制とは、個人の輪番的交代であって、今日の政党のような理念の交代を含意してはいなかった。理由は「すべての者が国制に関わる」ためであったという。
つまり、寡頭制に陥ることを防ぐためであろう。だが、中産階級でさえ絶対数では寡頭制と余り変わらない。当時の奴隷階級はそれに数十倍したという。

アリストテレスの政治思想は、彼の他の思想と同様に極めて実践的で、プラトンのような「観念的隙間」を埋めたもののように見える。

しかし、実践的とは施行可能である長所を持つが、同時に「間に合わせ」ともとれる。「向かうべき先」よりも、「今出来る事」を論じている。

この点では、双方共に出そうでいて何かに阻害されている結論があるかのように見える。

つまり、本質的問題には触れずに答えを出そうとしているからなのだろう。

その本質的問題とは、人間の道徳不全をどうするかという、たいへんな命題なのだが、両者共にこれに対する姿勢は中世のキリスト教と然程変わらず、「より良く改善する」ことだけを提示するのみである。(これは今日のキリスト教も尽くそうであるが)


ヘブライ人はこの命題に関わる解答を得かけていたのに、ヘレニズムと接した結果、自分たちには彼らほどの合理的で優れた思想を持ち合わせていないと判断した。
そこでユダヤ人がヘレニズムと向き合うのに、タナハとソフェリームだけでは対処できず、タナイームとミシュナを加える。これはメシアからの逸脱となって西暦七十年を迎える。

ユダヤ人は宗教、また崇拝方式は持っていたが、それが意味するものを十分には理解していなかったし、キリストの到来が文化史的にも非常に遅い時代に属したということもあろう。

しかし、そもそも人間の道徳不全が正されるなら、倫理も国制も論じる必要そのものがなくなってしまう。なんと空しい!(cf;律法の存在意義)

                                                • -

それにしても『新しいエルサレム』は究極の哲人王を戴きながら、何故寡頭制なのか?それとも14万4千人のポリスなのか?
祭司職はアブラハムへの約束の成就の為だけに在るのだろうか?
むしろ、何かしら相当な理由があると予感できる。

神が律法中で困窮者への配慮を見せたのは、単に『魂』への憐憫からだけでは無かったのでは?『安息』と深く関係しているような・・つまり『この世』は「生きるために生き」安息していないし、「安息してはならない」と脅迫しているに等しい。人から時間を奪い、考えることさえ奪ってゆき、自己存在の発見も創造者との邂逅も妨害しようとしているのではないか?そこで『安息』の意味が見えるような・・肉の限界からの安息か?

                                                • -

近年、日本での非正規雇用の増加には、弱者を更に甚振る将来像が見えるように思える。正社員と同じ業務をこなしていながら、状況に応じて解雇し易いので、一度職場を去ると、次の職場で同じ業務に就けるとは限らず、年齢は進みながら、素人に舞い戻り、一から仕事を学ぶ、これを繰り返すうちに能力は蓄積されているのに、どれも使い物にならないで歳をとって雇用の機会を次第に失うというジレンマをその個人が負わねばならなくなる。そしてイノヴェーションやロボット化が起るときに、その技能も無に帰する危険性が高い。しかも、それは個人の問題として社会が処理してしまうのが最も安易な道であり、実際に多くの場合そうするのであろう。そうして弱者には社会全体のツケを負わせることになる。この奴隷化方式は、形を変えて、今後も存在し続けるのであろう。厄介な事に、多くの人が「懸命に働けば酬いを得られる」と勘違いしていることであり、実際には「生かさず殺さず」が大法則となっている。労働の酬いに満足に預かれるのはほんの一握りの人々でしかない。いや、充分な不労所得を得る者も居るそばで職にさえありつけない人々が居る。社会の構造がこうなのであるから、この不公正は避け様が無い。これが感覚的にでも、ある程度見通せるところでニートへの誘因がある。それでさえ犯罪に向かうよりは良い。非正規労働者の今後は、生活を立ち行かせることさえ難しくなってくるように見える。これを避ける方法は、よほどに先見の明のある良質の教育を自らに施すことであろう。だが、教育の分野にも腐敗が無い訳では無く、良い教師は僅かである。古代ギリシアの奴隷に参政権が無かったが、今日の弱者には参政権が与えられているのに、実質的に奴隷化されており、それは独裁制国家でも民主主義国家でも「程度の差」でしかない。プラトンアリストテレスも共に危惧した状況にある。中産階級でさえ、今日では静かに地盤沈下して貧困に向かって奴隷化しており、デモクラシー社会もやがて寡頭制に近付き、政治と民衆の関わりは増々疎遠になろう。人々は生活のために喘ぎ、ますます利己的に振る舞わざるを得なくなる。そこで精紳が荒み、「生きるためにただ生きる」ことになる。大半の人々をこのように遇するのが『この世』なのであろう。誰かが人々を奴隷にしようと画策する意志をはっきり持たなくても、結果的に奴隷扱いするようになってしまう。それでも大半の人々は経済的平等を望まないという。自分が裕福になるチャンスを夢見るらしい。
だが、間違っているのは体制というよりは人間そのものの方である。プラトンアリストテレスもこれは論じない。現実の社会に鑑みると「イディア」も幾何学的妄想に過ぎず、人間の倫理不全は解決不能だからであろう。人間は国制よりも喫緊の課題を常に抱えて来た。だが、それは解決不能なので、国制なりの間に合わせの対策を議論してきただけであり、それも各個人への効果はそう変わらない。ただ、戦争と経済恐慌が避けられるだけでも「成功」していると見做すレベルでしかない。各個人はこれからも何かと被害者とならざるを得ない。

                    • -

"martial peak" 1) a rocky height in the city of Athens, opposite the western end of the Acropolis toward the west. This hill belonged to (Ares) Mars and was called Mar's Hill; so called, because, as the story went, Mars, having slain Halirrhothius, son of Neptune, for the attempted violation of his daughter Alicippe, was tried for the murder here before twelve gods as judges. This place was the location where the judges convened who, by appointment of Solon, had jurisdiction of capital offences, (as wilful murder, arson, poisoning, malicious wounding, and breach of established religious usages). The court itself was called Areopagus from the place where it sat, also "Areum judicium" an "curia". To that hill the apostle Paul was not led to defend himself before judges, but that he might set forth his opinions on divine subjects to a greater multitude of people, flocking together there and eager to hear something new


.