Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

何者が治めるべきか

アリストテレスの政治思想」からノート



アリストテレスにとって、正義とは「平等」であるが、それは富の次元では数的平等ではなく質的平等でなくてはならない。



独裁制の謬点は
人は本性的に自由を希求するのに、それを奴隷にする。
独裁制の特質は暴力と圧制にある。



寡頭制に於ける目的は富の追求にある。
国政が富を追求するのは誤りではなく、「ある程度の富が無ければ、徳を実行することもできない」
しかし、寡頭制では支配階級の富の専有と利潤の追求によって少数者のための国制となってしまう。



デモクラシー
「少数の優れた者らの支配より、多数者が支配であるべきだ」という主張は、おそらくは真実を持っているように思われる。(と彼は言う)

なぜなら、多数者は個人としては優れた者ではないが、それでも多数であることにより、彼の優れた者[spoudaios]らよりも更に良い者と成り得るからである。

・・・なぜなら、多くの者が存在することにより、各人は徳と実践理性[arete kai phronesis]の一部分を共有し、全部が集まれば多くの手足を持ち、多くの感覚を持ち、ひとりの人のように性格や思惟[ethe kai dianoia]を持つ。それゆえ、多くの人は音楽や詩の作品についてより優れた判断を下す。つまり、ある人はある部分を理解し、他の人は他を理解するが、すべての人はすべてを理解するからである。(実は永い間気付けないということもある)

さらに多くの者はより腐敗し難い。大量の水がそうであるように、少量の水よりも腐敗が進まない。誰かが怒りに駆られて腐敗しても、全体が激情に支配されることはまずない」
しかし、アリストテレスはデモクラシーを「誤った国制」に分類している。その理由は「多数者がそれぞれに利益を追求してゆく国制」だからである。そこでは少数者の犠牲が出るとする。その少数者には富める者や能力の高い者、真の政策を持つ者もいる。その理由は大多数を構成するのは常に貧者であるからである。そこでは、とにかく多数者の求めることが至高の目的となってくる。(衆愚の神化)

アリストテレスはデモクラシーが数的平等を推し進めることでその理念が却って機能せず、社会を破壊しかねないことを危惧する。(これは解決しておらず、実際に20世紀が苦い経験をした)
更に(重要な事に)彼がデモクラシーを評価しない理由は、多数者が倫理的に優れた人間であることは非常に困難である事を挙げている。
彼の国家観では、国家の目的とは「市民を有徳な者とする」というところにある。それゆえ、良い市民は必ず有徳な人となるべきだが、現実には、当時の市民条件は農民出身の重装歩兵が市民権を得ているだけであったから、正義といえば戦場での勇気という程度であった。


・ポリス(都市国家)というコイノニアの目的
もし、人々が財産の為に共同体[koinonia]を形成するのであれば、人々は財産を分有することに於いてポリスに参与することになる。しかし、彼が寡頭制を評価しないように、ポリスは財産所有のための構成要素ではない。
ポリスという共同体を人が構成するのは理性の選択によるものであり、動物はポリスを作らない。(いや、動物なりに共同体はある)
他者からの害を受けない為にポリスを作るのでもない。その必要もあるが
貿易や交流を目的とするのでもない。もしそうなら、カルタゴ人やテュレニア人もひとつのポリスを構成していたことであろう。(当時の関税は?)
以上のものは前提条件ではあるが、そのためにポリスがあるわけではない。ポリスとは善く生きる為の共同体である。



所見;言語と人種(血統)という事柄は非常に大きい。そこに気候や地形や海の存在が加わり、人間は文化も加えて様々な要素で分断されている。しかし、共通するところは、人々の集合するところで犯罪は増え、都市が有徳かと云えば逆の様相を呈している。人間の主な特質を挙げれば背徳であり貪欲である。大多数の人の集合は常に倫理的ではない。そして少数者も排他的であれば背徳的となり、誰がどうということにもならない。
プラトンへの批判もそのように見える。両者とも同じ問題を別の方向から見ているが、共に解決には至らない。共同体がどうあるべきかではなく、人間の方の問題が解決しないからである。しかし、人間問題は解決不能であるから、やはり共同体がどうあるべきかを論じることになる。その絶え間ない論争が『この世』の相貌なのだろう。彼とプラトン論議は『この世』が終わるまで終わらないことになる。
だが、根本から目的を遡及すると、彼の理想主義的なポリスの目的というものに向かうべき理由があったのであろう。だが、「善く生きるためのポリス」というなら、『新しいエルサレム』があるばかりではないか?このポリスは、人をして有徳を超えて、ポリスの必要ない者と成さしめることを目的としている。これは超越的目的というべきだろう。



しかし、彼の論理には人をひき込む見事なものがある。中世期に援用されたには、当時のキリスト教の蒙昧さも手伝い、理知的思考の機会をなお開いていたからと想像する。










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