Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エティエンヌ・ジルソン

エティエンヌ・ジルソン
1906 ソルボンヌでリュシアン・レヴィー=ブリュールに学ぶ
学位論文は”デカルトとスコラ哲学”(デカルトにトマスの甚深な影響を喝破)
以後「カルテジアニスムの形成に於ける中世思想」の役割をテーマに研究。
「フマニスム」がルネソンスの特産品ではなく、中世八世紀に種は撒かれ、13世紀のパリ大学に定着していたことを指摘。

1932 フランスの最高学府たるコレージュ・ド・フランスに新しく「中世哲学史」講座が設けられたときに、48歳の若さで初代教授に任官。

              • 以下はノート--------

エラスムスの「提要」(エンキリディオン)と共に最も重要なものは、「パラクレジス」(キリスト教哲学の極めて聖なる極めて有意義なる研究の奨励)である。しかし、この書は然程研究されてはいない。
彼は偉大なラテン学者であったが、キリスト教研究に没頭するに当たり、もはやキケロを師とせず、彼らしい優雅さを保つものの、雄弁修飾の技巧を去って、純粋で単純な表現に向かっている。
アリストテレスのどの弟子も、雷電の原因とか、第一物質とか、無限とか、要するにその学問に通じているからとて我々の幸福ともならず、それを知らないからとて不幸にもならない問題でも、知らないことを恥辱と考えたであろうに、数々の仕方でもってキリストの奥義に参じ、許多の秘跡によってキリストと結ばれても、神の恩恵に浴すべき事を知らずとも(キリスト教徒は)恬として恥もしないし、恐ろしいとも思わない。
そのような次第であるから、エラスムスギリシア思想に対する過度の熱意を表明するどころではないのである。キリストをアリストテレスと比較するなどということは、エラスムスにとって不敬な狂気の沙汰である。エラスムスのそれは実に、謙虚、信仰、従順というものである。
エラスムスの目的は、明らかにキリスト教の中から、キリスト教的叡智(中世哲学的な)を破壊してでも、中世はその中に導き入れてしまっていたギリシア思想を排除することだったからである。「実際、使徒らにしてアヴェロエスを教えるのを見た人がいるだろうか?もし、我々がキリストの信者たれば、よろしく使徒らと同じく、福音以上に尊ぶべきものをなからしめようではないか」と
エラスムスは、福音を指して「我々にこれほど古いもがあるだろうか」と問うのは、13世紀の神学者に対して、あらゆる世俗文学を無差別に福音に取入れたことへの批難。
彼はすでに15世紀から激しい闘争をしながら文学の研究方式を福音の読み方に慣らせる準備をしている人々の側に立っていた。だが、その情熱も洞察力を欠くために、その運動を善用できない神学者らや僧侶らが彼の敵であった。
ソクラテスキケロは聖者のようであるかも知れないが、彼らはキリストを予見するところがあっただけで、何かを福音に付け加えたわけではない。しかし、そのギリシア的な技巧を持ちなおキリスト教であるものを目指した中に、オッカムがあり、次いでダン・スコットあり、トマスが続き、その後からアルベルトゥス・マグヌスがある。これらをエラスムスは糾弾しないではいない。
アウグスティヌスの偉大さにはエラスムスも幾らか躊躇するが、彼が真に愛したのはヒエロニュモスだけである。それもこの人物が哲学者ではなかったからなのだ。
このようは情勢が存在していたのであるから、ルネソンスとは、これらの自然思想の異なったふたつの面の[妥協なき]衝突こそがルネソンスではなかったかという疑問もある。
当時までに、キリスト教道徳はギリシア哲学を根拠にしてしまっており、そこでエラスムスイデアの学説も、弁証法創始者たりソクラテスをも振り払うことがどれほど困難であったか。彼自身がそれを学ぶ身であったればこそ、相当な葛藤が避けられなかったはずである。
彼はキケロを読んで後、パウロを読むとき、そこに大きなギャップが口を開けているのを見て、自分の批判ではどうにもできないものを感じた。後にドミニコ会のジャヴェッリがそれ[純粋化]を試みはしたけれども、それは神学者の立場からの不安定なものとなった。
16世紀の神学者には12世紀にシャルトルが始めた許容を禁止する権利はなかった。そこで、神学者はフマニズムを監督し、是正する力もなかった。なぜなら、神学者もフマニズムに立脚していたからである。

エラスムスの真剣さを否定させるような文献は一つもないのだが、彼が福音の異教化の指摘については、深入りを好まず、宗教改革者とは一線を引いていたにも関わらず、中世哲学に対するときにはルーテルと呼応していたと言える。ふたりの間にには、自由意志に関する蟠りが内在してはいたが、それが衝突するまでエラスムスはそれを抑えていた。
ルーテルの周囲では、「アリストテレスなくば神学者たり得ない」と言うが、ルーテルは「アリストテレスを排除してのみ神学者たり得る」と言う。彼は”スコラ哲学者に対して”の中で「神学に於けるアリストテレスなるものは、光明に於ける暗黒のようなものだ」(要確認)と言う。
聖寵の全教理は、自然の教理を予想するものであって、もし聖寵の問題が神学に属するとすれば、自然のそれはさらに高い点に於いて哲学に関心を与える。そこで、ルーテルの改革が中世哲学に於ける聖寵というものに如何なる宣告を下したかということを探求することは、中世の哲学が自然というものの如何なる概念を抱いて生存してきたかということを探求することになる。

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pausaniasがリュディア出身とされるのは、その地方の記述が多いからといわれるが、彼の著書の題目でそれに相当するものが見つからない
もしあれば、年代からしても相当勉強になるはず




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