Notae ad Quartodecimani

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政体について

政体(Régime)リジーム または政治体制、政治システム、統治機構

 

プラトン『国家』
プラトンは、中期の『国家』第8巻において、哲人王が支配する理想的な政体である「優秀者支配制」から、軍人優位の「名誉支配制」、金持ち優位の「寡頭制」、衆愚的な「民主制」を経て、最終的に「僭主独裁制」へと政体が転落・堕落していく様を説明している。

『政治家』
後期の『政治家』では、以下のように政体を「支配者の数」と「善悪」によって6分類(プラトンは多数者支配である民主制に対しては善悪による区別を設けなかったので、厳密には5分類)したが、こうした分類法は形を変えつつ、アリストテレスポリュビオスにも継承された。

「王制」(バシレイア) - 法律に基づく単独者支配
「僭主制」(テュランニス) - 法律に基づかない単独者支配
「貴族制」(アリストクラティア) - 法律に基づく少数者支配
「寡頭制」(オリガルキア) - 法律に基づかない少数者支配
「民主制」(デモクラティア) - 多数者支配(法律に基づくか否かでの区別無し)

最後の対話篇である『法律』第3巻では、スパルタ(ラケダイモン)の王家・長老会・民選の監督官から成る混合政体を、「調和」「適度」を保つことができる体制であるとして、クレタの国制と共に評価し、他方で民主制の下での自由追及に偏ってしまったアテナイと、君主制の下での専制に偏ってしまったペルシアを、両極端に偏ってしまった失敗例として言及している。

 

アリストテレス 『政治学

アリストテレスは、『政治学』第3巻7章において、政体/国制を、「国民共通の公共の利益」(すなわち、国民全体を「最高善」へと導いて行くこと)を目的とした正しい国制としての

「王制」(バシレイア)
「貴族制」(アリストクラティア)
「共和制」(ポリテイア)
と、誤った逸脱的国制としての

「僭主制」(テュランニス) - 「独裁者の利益」を目的
「寡頭制」(オリガルキア) - 「富裕者の利益」を目的
「民主制」(デモクラティア) - 「貧困者の利益」を目的
に6分類している。

王制⇒僭主制、貴族制⇒寡頭制、共和制⇒民主制

第3巻15章において、王制から寡頭制、僭主制、民主制の順で政体が変動する説を披露している他、第5巻において、各国制に変革が生じる要因・メカニズムや、勢力均衡・中庸などの重要性を説いている。

また、第4巻11章-12章では、「中間層によって支配された混合政体」こそが、「極端な民主制」「極端な寡頭制」という両極端に走るのを防止し国制を安定させる、一般論として「現実的に最善の国制」であると指摘している。

 

ポリュビオス 『歴史』

ポリュビオスは、著書『歴史』において、政体を以下のように6分類し、この順番通りに政体は転落・堕落して滅び、また1から始まって繰り返すという政体循環論を主張している。この循環をアナキュクロシス(希: ἀνακύκλωσις, anakyklosis)と言う。

「王制」(バシレイア)
専制」(テュランニス)
「貴族制」(アリストクラティア)
「寡頭制」(オリガルキア
「民主制」(デモクラティア)
「衆愚制」(オクロクラティア)

王制⇒専制、貴族制⇒寡頭制、民主制⇒衆愚性

また、共和制ローマの執政官・元老院・民会から成る混合政体を、政体を安定させ、循環論の流れに陥るのを抑止しているとして評価している。

 

以上、wIKIから

 

dημοσ [氏族]+ κλατια[支配]=  δημοκρατία 

ἀριστοκρατία [優秀者の少数支配]

 δημοκρατία はヘレニズム後期には「衆愚政治」を指す

デモクラシーとして復権し始めたのは、清教徒革命期に水平派が唱え始めてから

ポリスは単純に都市を表すわけではなく、元は市民社会の総称で、人々はアクロポリスの要害の岡を心理的中心とはしたが、周囲の郊外に住むことがほとんどで、スパルタなどは村々の集合体を意味した。

アクロポリスは次第に崇拝の場となり、各都市に神殿とアゴラとギムナージウムを備えてポリスが形成されるようになったのは、アレクサンドロス大王が征服地に都市を整備するようになってからと言われる。ディアドコイはそれに倣って都市を建設している。(ミレトスのヒッポダモスはアリストテレースと同時代人なばかりか面識もあり、「政治学」に沿って都市計画を行っている。またアテナイのペリクレースとも友人でそれまでのアテナイは都市整備に問題があった)

政治と都市構造は関連を持つ、その点での西暦64年のローマ大火後の都市整備と皇帝支配、またキリスト教徒迫害やカタコンベがどう関わるか?

  

 

 

◆国家の根拠

トマス・ホッブス

ホッブスは政体以前に国家を論じている。人間が一人で素のままの状態であれば、行動が咎められるところはないが、二人以上になってから欲の重複が起り始め、そこから素のままでは振る舞えない。自分の欲と衝突する他者をどうするかという問題が生じ、互いに素のままに振る舞おうとすれば、互いに安心することができなくなる。これが「自然状態」であり「万人の万人に対する戦争」であるとした。

従って、二人以上では互いの振る舞いを自重することによって、そこに安心が生じる。その結果、互いが素のままに振る舞う以上の益を享受することになる。ここに人が道義に従うべき理由があり、それは神が道徳を定めたからそれに従うという旧来の倫理の宗教由来を打破する捉え方となった。

つまり、神は大自然に法則や摂理を備えはしても、人間社会に規範を与えておらず、むしろ、人は社会を通して他者との振る舞い方を工夫せざるを得なかった。

これは「ゲーム理論」によっても支持されるが、ホッブスはこの相互抑制を「自然法」と呼ぶ。但し、「自然法」は守るより破った方が有利になるので、人々が自然法を守る誘因を必要とする。それが国家の役割であり、最強の暴力を有する存在で、人々を素のままで過ごすことを許さない。何人にも有無を言わさぬ絶対的力である権力を有するものが国家であり、その強力さに於いて巨龍「リヴァイアサン」(レヴィヤターン)である必要がある。(彼の自然法は今日的「自然法」と同じではない)(ヘブライ語でのレヴィヤターンはクロコダイルを意味する)

こうして、彼は英国の王政を肯定する論理を打ち建てた。これは王権神授説よりも強力な論理であり、確かに人間社会の本質を突いていた。だが、リヴァイアサンであるなら、特に王であるか否かに関わるものではないから、彼の論理はただ王政への阿りではなかった。

 

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支配と善悪についての所見

 

・政治の主体者は少数の支配者か、民か?

絶対王政⇒封建性⇒民主制

と時間経過によって進行してきたというよりは

古代から可能性として考慮の対象とはなっていた

社会に秩序をもたらすのが支配であることは動かせないが

権力を誰が掌握するかによって政体が異なる

最も単純なものは権力者=支配者であり

この場合には法治は然程公正である必要がない

そこでは法というよりは令であって支配者の人治に等しい

公共的会議のない絶対王政下では上位者も下位者も恣意的に振舞う

法令と称する定めは恣意的であるので、被支配者も恣意的になる

従って、強権圧制下での人々に順法性を求めることに無理があり

どれほど力で統制しようとしても逆に作用する。

その理由は、そもそも人間は公正についての感覚を有しているからで

理に遭わない圧制に抵抗して益を守ろうとする。

そこで圧制者は情報の操作や洗脳を用いざるを得なくなる。

それが見られるのは、即ち、その圧制に公正さも益もない証である。

こうしてみると、『人が人を支配して害した』というソロモンの言葉は

明らかに支配する者としての人間の資質に問題がある事を指している。

また、そもそも法治という方法にも限界があることも示す。

 

 

・何が善で、何が悪か

政治も統治も、まったく倫理的概念であり

社会に秩序を与えるという目的では同じでも

常に「誰の益を求めるか」という問題に関わっている。

これは科学の領域にはなく、普遍的正解がない。

交換経済の数学でもなく、経済学は技術ではあっても規範ではない。

交換をもたらしているのは価値観と公正観であって、人が作り出すものである。

「最大多数の最大幸福」の功利主義に欠点が指摘されるとしても

人間はそれに代わる指針を生み出すことができない。

その根本的理由は、人間自身に宿る利己性にある。

 

一度、利己性を根本的精神とすると、初めからあらゆる人の幸福はない。

おそらく、真に人が利他的であるなら、厳格な交換の必要が生じないと思われる。

ヨセフスのような古代の人からして「金の事ばかり言っている人間に碌な者は居ない」

と言わしめたのは、利己性という人間の暗部を専らとしている内に受ける影響を言う。

その言葉は真実であり、今日でも金銭を専ら追い求める人の表情はそれなりである。

その一方で、慈善家が必ずしも利他的かどうかの保証もなく

功名心からのものや、富むことに飽きた人々の趣味のような慈善もある。

昨今では、グレーな印象の「貧困ビジネス」が横行するようにもなっている。

 

人は、それが犯罪であるか否かに関わらず、利己性を追い求める罠に嵌る。

では、何が犯罪かといえば、社会が容認しないと決めたものだけであり

それが常に悪と善とを分かつものであるとは言い切れない。

つまるところ、人は善悪を仮定して法を作り、酬いを備えているが

善悪は規定できておらず、秩序のために約定しているだけである。

究極的な善悪で人を見れば、悪があるから善が生じている。

人がまったく善であれば、良心も必要がない。

だが、多くの人にとって、善を正しいと感じられることは人の救いとなっている。

この自然な感覚を阻害する歪曲を避けることは、現状での人の指針と言える。

その歪曲は、情報の操作により広く行われているので

人は自らの判断を吟味し続け、偽りの情報の僅かな印に機敏である必要がある。

「自分の判断に頼るな」という聖書の句はこの点で罠となっている。

 

・聖書教との根本的な見方の相違

人間が創造物であると認識していてさえ、人同士を神の象りとしては見ておらず、永生を与えることが創造神の意図であるという前提がない。

人間の不倫理性(原罪)は当然有るべくして存在していると捉えるために、罪ある現状での互いの関係の処理に終始している。

もし、人間社会である『この世』に対して「原罪」があることを指摘するだけでも反発があるとすれば、それは根本的に創造者を認めないところに原因がある。

例え、自分たちに倫理不全があることを認めたとしても、何らかの事情でその解決を望まないか、自分たちで解決することを「叡智」のように捉えかねない。背景には科学への自負や、自己義認がある。従って、義認を自負する宗教の多くは、聖霊の言葉に反発する趨勢にあり、それはキリスト初臨のユダヤ宗教体制の轍を踏む危険性が高い。

そこで自己義認的宗教の信者であっても、単なるこの世の構成員を自認するであろう普通の人でもまずこの原罪認識でつまずくことになろう。

 

 

・『人の子ら』(プロレタリアン)を『粘土』、強権的支配を『鉄』と表現しているのであれば、終末の印として強権国家と民主国家のせめぎ合いが起こって、そこに神の介入が起こることをダニエルの解いた夢が示していることになる。

しかし、それらのどちらかの勢力争いの経過はそこに語っていない。

この両者を表すであろう二大覇権国家の争いの顛末は同書の第11~12章に見える。

夢の解き明かしでは、バビロニア以降の覇権の流れを予告しているのであって、それは足の先端という局部でしかないが、その拡大描写は巻末に備えられている。

なお、第四章の巨木の意味は『最も低い地位に在る者であっても神はこれに支配権を与える』が本旨であり、これはゼカリヤが教えるところであり、キリストと聖徒らが辿る経過を表している。それを『七つの時』としたのはキリストの復活から『週の祭り』までの間を象徴しているかも知れない。シャヴオートが聖霊降下による聖徒出現となったと共に、『新しい契約』が効力を果たし終える時点、つまり聖徒の招集を指すのであれば、切り倒された大木に箍が嵌められて抑制されたにせよ保存されたということが出来る。だが、この場合二日のズレが出る。