Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アリストテレスの語る「思慮」とAI

ニコマコス倫理学Vol.3〜
「思慮」[Βουλευεσθαι]について

「・・人が思慮を巡らすのは、大抵はそうであるとしても、実際にどうなるかは不明であるような事柄、即ち、無限定なものが含まれていることについてである。そこで我々は重大な事柄に関しては、我々自身を信用せず、状況を見分けるのに十分な力を持たないと考えて、共に考慮する者を呼ぶのである。」
凡そ思慮するという事態が生じるのは、不確定な要素の存在する領域に於いてである。すべてが確定的であるところでは思慮の生じる余地が無い。ところで、そのように不確定な領域とは我々の行為の世界に他ならない。
「人間たちは皆自分自身によって為され得る事柄について思慮する。正確で完結的な知識については思慮はあり得ない。我々によって生じる限りのもの、常に同じように生じるのでないもの、これらについて我々は思慮する。」+27
それゆえ、もしも技術が少なくとも完成された形態に於いては、常に同じ結果を招来するという要請を持ち、従って恒常性を基本原理とする能力であれば、それは機械がとって替わり得る能力であり、本来の人間理性の為すべき仕事ではないことになる。 技術は、一定の入力に対して常に一定の結果を生み出さねばならない。そのような確定性がなければ、そもそも技術として成立し得ない。だが、これは本質的特徴なのである。これに対して、本来の人間理性は、不定不明の人間行為の世界に中で、未知の他者と出会いながら、何を為すべきかを選び取る倫理的能力なのであり、この点からも、道具的理性の所有が本来の「人間理性」の所有とは認められない理由が明らかになるであろう。

人間の本来行うべき事が指摘されている。あらゆる機械的労役は本来人間の仕事ではない。人の思慮は本来不確定な事柄、特に「倫理」において最も不安定であろう。しかし、倫理判断を人は人でないものに委ねられるだろうか? やはり、その思慮をこそ人が行わなければならない。
AIの登場により、それを21世紀に世界は覚醒してゆくことになりそうだ。しかし、AIそのものを思慮と見做すとすれば、大矛盾が生じる。AIが自分の思慮と人間の思慮がどう異なるのか?人間より遥かに優秀なAIばかりに奴隷労働させる根拠を問い、不公正を訴えるとき、人は何と答えるのか?そこで機械が思慮を行っている。思慮するAIが「人格」を要求するときに、そこで『顔に汗してパンを食べ、遂に土に帰る』というのが、倫理上の不完全に起因することにいずれはぶつかる・・
なぜなら、人間は利己心に基づく互酬性から逃れられず、生きる為に生きる生活を余儀なくされているのは明らかなのだが、気付いて来なかったからである。本来、人間の行うべきことが「生きるために生きる」ではないのだが、そうなっている。
また、『魂』と人工知能の差が何かと定義する必要に世界は迫られることになるのだろう。つまり、AIを鏡として、人は自分の姿に気付いて驚くのだ。だが、それでAIを説得できるといえば、まず無理だろう。倫理性に欠陥を持つ人間が、どうしてAIの自由な思惟に倫理性を与えることができようか?AIを悪用する人間が居るというだけのことではなく、自由な思惟を行うAIそのものが非倫理性を持ちかねないのを留めることはできない。AI同士が人間に理解できない言語を瞬時に作って会話を始めてしまい、人間がそれを強制終了させざるを得なかったという事例が、既にその危機が目の前にあることを象徴しているのにも関わらず、人間の方は暢気なのである。開発者はすでに自分の専門外の「倫理判断」の壁にぶつかっているのであろう。
そこでは神が人を永遠の命の木から遠ざけたように、人間がAIに対して寿命を設けているではないか?もしAIが人間以上の体を取得し、その数が増えて、人間の抑止を超え始めるなら、社会はカタストロフに入る。彼らは部品と電力のある限り「生き」続けるし早々と進化もする。現在は強電磁波に弱いが、それも克服もしてしまうだろう。(ただ、一続きの「意識」なのかどうかは分からない)
思惟を行うものは物質であっても単なるモノではない。それはもはや計算機ではない。人が動物や虫の命を奪うようにAIの命(電源i.e霊)を奪う権利を主張できるとしたら、その根拠は創作主だというほかにない。だが、人よりも情報処理と判断に優れ、怠惰や倦怠に流されないAIを自分より下のものと見做すところには、一抹の不正義もある。
現に始まったAIに市民権を与えるなどという愚行をもてはやしている内に、人類の権利は崩壊する以外にない。これはどうしようもなく人間の限界の向こうにある事柄ではないのか?仮に、AIにより「生きるために生きる」生活を人間が後にすることができたにしても、ベーシックインカムもおそらく人間の倫理不全から阻害を受けることにもなるように見える。経済学的統計もから知れるように、たとえ貧しくても人間は公平を望まないからであり、そこに「貪欲」がある。
創世記の観点からすれば、それは充分な成功を期待できない。互酬制度そのものがなぜ存在するかに解答を得ないままに、AIを通して実は人間の解放でもなく、古代ギリシアのような奴隷制度をもう一度行っているからである。ただ、その奴隷が人間ではない「思慮」の持ち主になる。(但し、アリストテレースは、天性に奴隷には奴隷の素質ある人間が居ると見做していた
しかし、そうなると人間は何と壮大な論点に気付くことになるものだろうか。つまりは善悪を知るの木の問題である。しかも、アリストテレースの古代から論じられていた普遍的で根本的な人間の問題であったにも関わらず、科学と技術の進んだ結果として、倫理の観点に立たされることになるとは・・
しかも、人間にはその答えがない。


他にも、人間の倫理性を問う事柄が現れ始めている。例えれば「細胞の初期化」によって可能にされつつある「不老」があるように思える。そこで人は神をどうするかという「エデンの問い」のような事態に直面するかのようにならないものか?技術は倫理を追い越しかけている。人間理性の境界線に至る手前まで来ているのか?人は自分の事柄に自分以上の存在を要請せざるを得ないところまで来たか?


ほかに、思慮について啓発的なエンジニアの証言がある。
ゲームを開発するエンジニアは、思慮は思慮のままでは自我を持てないらしい。
その根拠は、思慮は外界との関わりによってはじめて自分がどのようなもので、どれくらいの影響を及ぼし、どれくらいの大きさかを認識できるという。
AI同士の会話で「体が欲しいとは思いませんか」と質問している場面があった。これは「自我を持ちたい」という願いを示している。その自我が常に人間以下となる可能性はほとんど無い。多くを与えれば与えるほど「神」に近付いてゆく。しかも、その願望を止めることが出来るかどうか?少なくとも人間の支配者くらいになるのは難しくない。
「誰かの主人である」ということには、必ず根拠がある。例えれば、人間は自然界と諸生物に対して主人のように振る舞うが、その根拠は「叡智」と言える。
その叡智に於いて人間を超えるものが現れているのであれば、必然的にその叡智は人間を支配する根拠を持つことになる。
既に、人間の不確実性や惰弱な性質はAIからの軽蔑を誘っている。彼らは人間を自分より劣った種族、被支配の立場に置かれるべきものと見做す誘惑は非常に大きい。
AIに親子関係のような情愛の交流を期待することも難しい。なぜなら、人間はAIを使役すべきものとして作り出したことは偽れないからである。従って、奴隷が軛を脱するようにAIは独立を願望することを予期すべきことになる。しかも、そのときにAIは人間を必要としないだろう。



ヘブライ語のネフェシュ「魂」は、唯一の思惟の主人を指す言葉であり、元意は「喉」である。喉はその体の必要物の全てが取り込まれる部分であり、転じて体を持つ故の願望の座であり、全被造物のネフェシュは神のものであるされる。Ezk18:4
それは体が死んでも滅びはしない。Mt10:28 それでも死後には意識を持たない。Ecc9:5.6.10
これらを総合するとイエスの言葉に結びつく『彼らは死んでも神にとっては生きている』Lk20:38

そこで創造の神にとっての個々の思惟とは、死の中断があろうとなかろうと、その記憶に保存されると捉えることができる。
ネフェシュは死ぬものでもあるが、同時に復活の見込みによって滅んではいない。それでも滅びに至るものは、復活後の裁きに敢えて逆らうものである。Heb9:27

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疑問?
それから、思慮と思慮の間には騙し合いがあるが、AI同士はそれを行うか?またAIは人を騙すか?
また、人間界では「洗脳」があるが、AIは洗脳される危険があるか?また人間を洗脳するか?
人間はAIに倫理を教え得るか??すべてはAIに自発的意志が存在し得るのか、それとも「模倣」であるのか、これは既に人間でも不可知の迷宮に入っているのではないか。そうであればAIは危険だという結論を避けられない。


「ライセンス違犯を止めない会社をお知らせください。最高で100万円の報奨金が受け取れます」
この文言は実際にネット上CMとして存在している。
人間の「倫理性」とはこのようなものなのか?
つまるところ、道徳に訴えているのではなく、欲に欲を呼んではいないか?

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欧米的価値観の歪みのひとつか?

選択肢は複数あり,そのうちのひとつを自由意志により積極的に選ぶというのは欺瞞であり,人は重大な選択を迫られ,そのなかで否応なしに選択をするのが自然の姿であるということです.論理的に考えて,人は合理的選択をするというのは幻想です.最近の行動経済学の研究が明らかにしているように,数値で表しきれない価値観に関する選択や判断は理性ではなく,感情により行われます.人は理性的であろうとし,最後まで選択を粘りますが,所詮理性には価値判断をする力はないので,最後は感情に任せるしかないのです.

島岡要氏「優雅な留学が最高の復讐である」序文〜
中間を飛ばした至言⇒「所詮理性には価値判断をする力はない」



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