Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アウグスティヌスの倫理観

人物
354.11/13-430.8/23 ヒッポ・タガステ生 ヒッポで没
回心と息子と共の受洗は387年、その前年「とって読め」の童謡からRm13:13-14を読む
父は371年の死の直前に受洗
同年ベルベル人の母モニカがオスティアで逝去したのを機会にアフリカに移動しつつ修道生活に近付く
391年ヒッポの司祭に396年に司教に叙品され初めて聖職を得る
410年のゴート族によるローマ占拠に端を発するキリスト教災厄論に反駁すべく『神の国』を著した

基本的に15年にわたる同棲生活と肉欲奔放のため、その対極にキリスト教を見る土台が人生に作られていた
修道的生活の希求は、その裏返しのようであり、この肉欲の対極に聖を捉えている
従って、彼はキリスト教を高徳規律の方向から見ている
加えて、著作に長文が多く、執筆しながら論旨が変化するところもあり、それが研究者の多用な解釈を生む原因となっており
特に、エラスムスとルターに於ける自由意志の論争に影を落としている
また、カルヴァンの予定説の先駆もみられ、カトリックからプロテスタントまで多種多様な論議を生む不定性の原因を作った
明解なことは、ヘブライ文化への理解が希薄なことである、また修道以外ではカッパドキア派系統の東方的な要素も薄く
エジプト由来のキリスト教から西欧カトリック精神を練り上げた始祖と言える
文章からすると、かなりのロマンティストであり、夢幻的な境地からキリスト教を見ていて、その原型にはイデア論を感じさせる


国史
その『神の国』は絶対善的な愛の国であって地上のものは教会であってもそれに到達しない
しかし、地の国に在って教会は『神の国』を代表することで優位性を持っている
教会は地の国の倫理目的のためにある、地の国は卑しいが教会に従属して神の摂理に奉仕する


自由意志
自由意志を巡る論争ではペレギウス派と争っている
世界を神による永遠不易の秩序内にあるという予定説的な見方を持ちつつ自由意志は否定されないとされることもある
人は自由意志により物事を行っている
人の自由意志は罪によって破壊されてはいないが、傾けられたものであり、その回復に神の恩寵は必須である
但し、その自由意志論は恩寵先行であるか否かの観点からすると二通りに解釈されている
<人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく「神の」自由な選びと予定である>
人間性は「無知」と「無力」のゆえに自由意志によって救いに至ることができない>
<人間はその原罪のゆえに自由意志を制限されており、信仰なくしては救いに至ることができない>
以上三つの見解はそれぞれ私論であり、本人が明言していない
ルターは原罪を自由意志を阻害するものと解釈し、ほとんど自由意志の救済の否定に走っている

その著作を読む人々から多様な見解や解釈が聞かれるところで、彼が多弁であったゆえにも曖昧なところが多いことが歴然としている。

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「何であれ自分の望んでいるものを持たない人、あるいは、たとえ望んでいるものを持っていても、それが有害なものである場合、あるいはせっかく良いものを持ってはいてもそれを望んでいない人、これらは皆、等しく幸福とはいえない」カトリック教会の道徳3:4
「人が自分の最高の善を望むと共にそれを獲得している場合」これを「愛するものを所有し」「享受している」人が幸福な人である。「わたし(本人)が最大の努力を払って探求しなければならないと思うものは、魂をもっと完全なものにするもののみである」5:8
「魂を完全にするものが徳であることを疑うような人はひとりもいない」6:9
この世に於いて徳は「われらの意志に反して奪いとられてしまう」
「われらは神を追求するとき、善い生活を送る。更に、神を獲得したなら、善い生活だけでなく、幸福な生をも送る」6:10
「神を追求するとは、幸福を望むことである。神を見出すことは幸福そのものである」11:18
「神を見出すのは、神とまったく同じものになるのではなく、神の近いものとなることによってであり、また、ある特別な知性的方法によって神を把握しつつ、その真理と聖性によって、完全に照らされて、捕えられることによってである。神は光そのものであり、われらはその光に照らされことが許されている」11:18(「至福の生」という著作もある)
「誰も我らを殺すと脅迫して神から引き離すことはできない。事実、我らがそれによって神を愛しているものは、我らが神を愛している限り死に得ないものである。なぜなら、死とは神を愛さないことにはかならず、神を愛さないとは、神よりも他のものをより愛し追求することにほかならない。」11:19
「人間の最高善とは、それに寄りすがる人を完全に幸福にするものであり、そのような善はただ神のみであり、我らが神に寄りすがることができるのは、明らかに、ただ愛、愛、愛のみによってである」
cf;「ギリシアの四元徳」節制、剛毅、賢慮、正義 ギリシアで徳(アレテー)は人を導くものとして永らく考慮されてきていた
「神、即ち、最高の善、最高の叡智、最高調和に対する愛」「神を愛する人にとって万事が益となる」
1Cor1:24を援用して「(神の知恵は)「果てから果てまで力を及ぼし、すべてのものを慈悲深く計らい、節制と正義と徳とを教える」知恵の書8:9
「われらは途上にある。けれども、この道は場所としての道はなく、心の在り方の道である。この道を過去の罪の悪徳が、謂わば生い茂った垣のようにふさいでいた。われらがその道を歩いて帰ってゆけるようにと、自らその身を道に横たえることを望まれた方に優って、寛大で憐れみに富んだ方がほかにいるだろうか。それは、すべての罪から回心したものを許し、われらの代りに十字架につけられることによって、われらの帰途を遮るものを取り除くためにほかならなかった」キリスト教の教え1:17.16 (ここにはフィロン的な知恵神学が見られると)

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所見;まず「魂を完全にする」とい発想はヘブライ的ではない。フィロンにせよ、ヘレニズムの影響を受けてのことである。ペテロの書簡に『信仰に徳を、徳に知識を』とはあるが、「徳」がキリスト教の主要な概念とはとても言えない。
なにより、このように平板な「徳」を倫理の基礎に据えるというのは、無神論の結果と共通してしまうように思える。
つまり、何が「善」か?と追及してゆくと、それが「人の益になるから」という「自己への身返り」という「徳」にどうしても吸収されてしまうのである。(この点で言えば、ギリシア文化、哲学はもちろん神話ですら「無神論的」であると思う)
そこには、「忠節な愛」という発想が生じない。なぜなら、「神」というものを、完全なものと思い込みが過ぎて、自分が『神の象り』であることは思考の範囲から消えてしまうからである。
常に、完全な神と思念するとき、その静的な完全性は、神を偶像化してしまい、人格を有し、人との関係性を問うような「生ける存在」ではなくしてしまう。
そのようにして、倫理観が神と人との双方向性を失い、ただ人がどうあるべきか、どう生きるべきかに偏ってしまう。つまり、神を人を高めるための道具とする。
これは大きな欠落ではないか。(Apヨハネが警告する偶像とはそこまで幅広い意味か)
まだ、調査していないけれども、おそらく彼は「二本の木」についても「生き方」の観点から見ているのだろうと思える。それにしても、人が「神を捉える」や「神に寄りすがる」「神を見出す」というのはどうなのか?聖徒の意義を万人のものと取り違えているうえに、神との関係性がご利益になっていないか。やはりなっている。「魂を高める」のだそうだ。本当に、エラスムスでさえその前にたじろぐとされるほどの思想家なのだろうか。(ラテン文は恐ろしいまでに美しいそうだが)
倫理を「生き方」と言い換えるのは当たっているとも外れているとも言える。それをただ益のための自分の道と見做すのか、「認識個」相互の関係性でみるのかで異なってくる。後者は特に神をも能動的選択の主体者として含めることになり、それは双方向性の関係を持つことになる。その場合、神は無表情な絶対性に塗り込まれることはない。(難しい言い回しで言いたくもないが、最も稚拙な表現がやはり楽なので)

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やはり、彼は「人間の生得的能力ではなく、神との関わりにおいて神ににた者である」とはしているが、「神が光であるように、神の光を受けて、人間も光の子となることが大切である。これをアナロギアと呼ぶ。しかし、人は神とまったく同じではなく、類似が大きくなればなるほど、非類似も大きく現れる」としている。
忠節という倫理の観点は欠けて、平板な神秘主義に終わっているようだ。
それにしても、著作が多過ぎるくらいで(やはり多過ぎ)、それぞれの年代でいくらかずつ思想が変化しているところが学びにくい。


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