Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

プロテスタント系教会の正統性の根拠

 

プロテスタントの基本三大原理

1.聖書を唯一の信仰と行いの規範とする

2.信仰によって義とされる

3.聖職者と教会員の間に根本的区分はない

 

要件

・正統的教会(派集団)はキリストの体の一部を構成している。

・正統か否かは聖書の教えに合致しているところにある

・三位一体説を信じ、キリストを神として崇める

 

解説から

「聖書の教え」とは伝統的な(ルター以降の)理解である

聖書は神の御心の誤りのない啓示である

教会の権威は聖書から来る

エスは主であり、キリストであり信者の代理で模範である。

救いを受け入れる信仰は神の恵みの賜物であって、神の言葉の力を通して来る。

キリストを通して信者は義とされ、神の息子また娘となる。

牧師も教会も神の御前にはキリストの恵みによって救われた罪人である

 

 

所見;「聖書を唯一の規範」とのこと

16世紀当時のカトリックとの確執のある状況下での指針には偏りがあり、上記の原則も過去の一断面として見做され、改善されるべきものであったように思える。

特に「聖書主義」は、一見して妥当のようだが、キリスト教の原理から離れてしまう罠がある。

聖書主義に問題がある根拠としては

ナザレのイエスが現れた時に体制派が躓いた理由が、聖書と異なっている事であった。

エスは見掛け上ベツレヘム・エフラタから来ていなかった。

エスと弟子らは、律法学者らからは安息日を守らず、伝統的権威に従っていなかった。

まさに、ユダヤ体制が神の裁きに陥ったのは、聖書に厳格に従っているという自負にあり、彼らにとって聖書は自分たちの正義の証しであった。

では今日、聖書に正しく従おうとする人に神は正義を与えるだろうか

これは重大な問いで、「聖書がエクレシアの権威である」と使徒時代の信者が言うわけもない。使徒や初期の弟子らの権威のよりどころがあったとすれば奇跡を行う聖霊であり、新約聖書もその聖霊の働きの結果であって、聖書主義そのものが聖霊の無い状態を指し示している。

これは聖書から学ぶものがないというのではなく、聖書と雖も神そのものではなく、かつての聖霊の教えを部分的に留めるものであり、しかも、そのかなりの部分に解明が及んでいない。それはより正確で価値ある解釈を生むことはあっても、その優等性を聖書の記述が担保するには至らない。ただ、人はそれぞれの解釈に対して個人として価値観を働かせるばかりである。それは各個人で異なるであおるから、一種の信仰と言えるかもしれない。確かに、キリスト教帰依者の基礎は個人の信仰にあり、一つの絶対的教理を得心することに拘れば、キリスト教の信仰という基盤を損なうことになろう。

もし、聖書に厳格に従うことが正義であるなら、聖書は人に義を与える証文のようであると言うことになる。それは律法契約的なキリスト教の見方であり、聖書に従っていると思う者はそうしていない者に優越感を持たざるを得なくなる。それはまさにイエスと衝突したパリサイ派の精神ではないか。

そのうえ、自ら「信仰によって義とされる」と言いつつ、信仰というものを否定している。なぜなら、聖書に在る通りにすることが「規範」であれば、信仰は聖書に規定されていることになり、厳密に聖書に従う者に信仰が宿ることになる。だが、初臨のキリストへの信仰は聖書に従うことではなく、御子の行う『父の業』、つまり聖霊による奇跡にメシアを見出すことであった。

即ち、パリサイ派イエス・キリストの論争の争点が、信仰とは何かにあったことになり、イエスに信仰を懐いた人々はほとんどが下層民であり、パリサイ派からすれば清さの規準に到達したいない『呪われたもの』「地の民」であった。

しかし、イエスは『イスラエルの失われた羊』と呼び、下層民と共に在り、聖書に従っているという自負心を懐くがイエスに信仰を持たないパリサイ派を度々に糾弾している。

そこで論点は明らかであり、ルターの時代にはカトリックの酷い非聖書性に煽られたとはいえ、プロテスタントは逆の極端に傾いていた。それは律法を守らずバビロン捕囚を受けた前期と、律法に神経質に服従しようとした後期のイスラエルそれぞれの過ちを見るかのようであり、聖書から実は肝心な要点を学んでいない。

聖書は『どんな諸刃の剣より鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる』ほどに、個人の内奥を焙り出すところがあり、鏡のように個人を映し出す。つまり、聖書の文言のためにも人は裁かれるのであり、イエスの現れを迎えたユダヤの民は、聖書に自分の義を負わせようとした者らが信仰に達することなく裁きを受け、聖霊の奇跡に信仰を働かせた人々が聖霊バプテスマに至っている。まさに、聖書によって自分の義を誇った者らは、自らの内面にある傲慢さを曝しつつも、それに気付かなかった。

彼らの傲慢さは、聖書を規範としてそうしていない人を見下し、それで居ながら神に自分の義を認めさせようとしていたところに恥ずべきほど明らかであった。

結果として、メシアに信仰を見出した人々は聖霊を受けて『新しい契約』に参与するところとなり、その人々こそが聖霊を受けて、キリストの贖いに地上に居る間から、義の仮の承認を賜ったのであり、彼らについては、確かに「赦された罪人」ということはできる。

だが、パリサイ派の轍を踏んでいながら、誰が「赦された罪人」に成り得るか?

 

これは新教から派生した新宗教の間にも見られる特徴であり、「聖書に書いてあることは信じるが、そうでないなら信じるべきでない」としている。

もちろん、聖書の精神からまるで別物は排除されなくては「荒唐無稽なキリスト教」に巻き込まれる人も出て来る危険がある。

だが、何が何でも聖書の通りがキリスト教であるのなら、既に義は聖書の中に存在している事になり、ただ従順な服従が信仰であり義であることになる。

だが、キリストの到来によって示された事は、そうではない。

信仰とは個人の心にそれぞれ惹き起こされるものであって、聖書に記されているものとは言えない。むしろ、聖書はその誤りを露わにする働きを持っていることをキリストは示したのであり、パリサイ派の落ちた陥穽はそこにあったと言える。

 

であるから敷衍して

まさしく、プロテスタントの系統にある多くの宗派は、この「聖書を唯一の規範」として信仰までも形作るかのように捉えるところに大きな問題を抱えている。

聖書は神の言葉であるゆえにこそ権利の保証書でも、精密な証拠の論文でもない。それらを遥かに超えるもので、人の内面を暴き、その人が本質的にどのような者であるのかを自ら示させてしまう。そのことを新約聖書は雄弁に語っているではないか。

行き過ぎた「聖書主義」は信仰の対象を「神と子と聖書」と言っているようなものであり、基礎から設計を間違った危うい巨大建造物のようなものである。

多くの宗派が、その根拠を聖書だと言いつつ、異なる教理を唱えて自派の正統を主張しているのだが、キリストに見るなら正統はそのようなところにはなく、御子を証しした父の業にあるではないか。(それは同時に、この状況で『父の業』が今、どのような宗派にも存在していないことも示している。すべてが五十歩百歩でしかない。そこで「正統」など、どれも無益な主張である)

 

教理が醸成しやすい人格ー自己義認

聖書に教理や信仰の正しさを求めるというアクションがキリスト教というものに向き合う前に起こされている。だが、そのことには疑問の目を向けないので、自己義認の罠に堕ちている。

これらの影響を受けた人々は、何かと「聖書の根拠はどこか」と尋ねるのだが、もとより「信仰」を懐くために、すべてが聖書から証明されるものであったなら、それは「信仰」ではないし、何もかも正しいことは聖書に書かれているのなら、人は裁かれるいわれもない義人ではないか。はて、人は神にすべてを説明させるほど偉いのか?

「義であるため」には聖書を読んで正しく解釈することになるのだろうか?ならばキリストの犠牲は何のためだったのか?まさに、人が罪人であるからこそ、聖書の中に自分の義など無く、探しても無駄であり、証明のない信仰こそ、個人がそれぞれに見出すべきものではないか。信仰のゆえに全ては語られておらず、エデンで人を監視しなかった神は、同じく人の自由を保ち、信仰を望まれるに違いない。

新教系の「三大原理」には他にも問題を感じるのだが、まず第一にプロテスタント系の「聖書主義」は大いに問題でパリサイ主義の轍を踏んで「信仰はいらない」と言っているに等しい。

これはキリスト教ばかりのことではないが、人には正しさよりも重要なものがある。

それは自らの立場を弁えることであり、そこから慈愛が生まれ、赦しが促進される。

キリスト教ではすべての者が神の御前に置ける『罪人』であるという大前提があり、「正しいクリスチャンが救われる」としてしまうと、戻り難い道に自らを追い込むことになる。その優越感は必ずやその人に不善を為すことになる。

 

この影響を受けていると思うなら、その人は幾つかの事柄を「不明」に委ねるだけでなく、自分が聖書を理解することで高一等を感じるというその誉められない不遜な精神的な傾向を改めるべきなのであって、聖書が裁くのはそこであろう。であれば考え方、感じ方の転換、場合によっては性格の変更を要しているのであり、それは簡単なことではないに違いない。聖書に詳しい事が招く良いところと言えば、パウロの後塵を拝して、倉から古いものや新しいものを取り出す主人になるということくらいと思われる。パリサイや律法学者に見る通り、それが決定的に信仰を形作るとは言えない。足りないのは謙虚さではないのか?それでもなお「自分は正しい」と主張したいのだろうか?

 

 

 

 

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