Notae ad Quartodecimani

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エゼキエル書40章以降の註釈

捕囚の25年目1月の10日、それは街の破壊から14年後

 

40-43章には意味が不確かで決定できない専門用語が幾つか見られる

「わたしに相対する」はLXXでHBでは「南に」

1月にとは政歴である可能性あり

聖なるキュビト=518mm 竿は3,1m

40:43供え物を覆う天蓋があった

40:44HBでは「歌手の間」

門の入り口の間には

 

聖所のサイズは第一神殿と同様1Kng6:2.17

エゼキエル自身が祭司であったために身廊に入って見聞している

41:11はテラスなのかよく分からない

中庭と同じサイズ100×100の西の建物は何のためのものか知らされていない (塩の倉庫?南北に並行して祭司の台所があり外から目隠しの壁があった46:19-)

15「聖所と内部の拝殿」HBでは「内部の聖所」であり、描写を躊躇うところを見せる

41:21「側柱は正方形」は推察でヘブライ語の意味不明

26「隅にシュロの木が刻まれた窓」推読でHBでは拱廊と軒 蛇腹という語が付いている

 

42:13「内側の壁」これは推読でHBも意味不明

42:15-LXX外周の壁が四面500Qb(HBは竿としているがそのサイズなら外周を囲むには大き過ぎるように思えるが、QBでは小さすぎるのでやはり竿と解釈するべき。だが一辺が約1550mとなり、ここにモリヤ山の限界がある<これはマッカのマスジド・ハラーム本体より大きいので、全体を庭と考えると大ハッジを行うイスラム教徒以上の人数の巡礼を可能にし得る>)

 

43神の栄光が神殿に戻るとは祭司にとって掛け替えのない喜びであり、それは神が至聖所から語ることによって確かにされている。但し、この7-12は後代の補筆とされる

彼は、神殿の外観とサイズを知らせるようにと命じられる

しかし、エゼキエルはその声の主を神とは呼びたがらない

43:7「王たちの死体」これは「王たちの記念碑」をするべきだとの説あり

8王らが宮殿を神殿に軒続きにして汚したことをいう これは実際に第一神殿の外庭の外壁が宮殿を取り込むように作られていた

 

43:18-27は出埃29:36-37に近く、補筆であるといわれている

(祭司が自分のものとした肉は任意の罪祭だけであった)

 

24素祭での塩は規定されていたLV2:13 燔祭とするために塩を投げた理由は不明

25「七日の間」最初の日には一頭の若い雄牛だけが捧げられるので、これは「六日」とすべきである

 

44:1エゼキエルは中庭から東の門の前の外庭に連れられた

神が神殿に在るので東の門は閉じられているべきであった

長だけは、その門の建物で飲食が許されたが、外庭から入らねばならない

3「長としてここに来たとき」この「長」の言葉は間違えて繰り返されているのではないかとされる理解の困難な箇所

 

7の譴責から10-14でのレヴィがネティニムの仕事をしなければならなくなったと解釈もされる

 

40:46 43:19 48:11では地方のレヴィは祭司にふさわしくないと宣言されている

しかし、ザドクの出自には本来エブス系である疑いがあるとの解釈もあり

 

45土地の分配

2500Qbは13km相当

8長には聖域に隣接する広大な土地が与えられる(南の街?NEBと異なる)

16-17民は長に供え物を捧げ、長が彼らに代って捧げる バテは33l ヒンはその1/6

灌祭;酒を穀物と焼燔と共にふりかけた

 

21巡礼の祭りとは、無酵母パンの祭りの七日を指す

 

46民は中庭に入れない 長は門を通って中庭の入り口までゆき供えものを見ることはできた

 

8-10入口と出口が異なるのは、大祭のときのように参列者が膨大であることを指している

12-15幾つかの翻訳では「彼は毎日」と訳すがHBでは二人称とされている

19-24台所は祭司と従者(LV)とが分けられて聖俗の接触の汚染が恐れられている

 

47命の川(Ps46:4)の存在と魚 Joe3:18 Zec13:1 14:8

「右側から」(ヤーミーン)は「南」ともとれる

1000Qb=518m 

エンゲディ「山羊の泉」エグライム「子牛の泉」(不明)

いくらかの湖沼に塩が残されるのは採塩のため?

 

 

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